ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: 横浜

1872年10月14日は日本で初めて新橋と横浜( 現在の桜木町駅 )間で鉄道が開業した日です。




桜木町駅の中には、その当時の貴重な資料が展示展示されています。


鉄道の開業が、どんなに日本にとって悲願だったのか


鉄道の開業の当日。


午前9時、皇居を出た天皇は、新橋駅で10 両編成の列車に乗り、10時出発しました。


駅では捧銃式を行い、喇叭(ラッパ)でオーシャンの曲を演奏されました。


乗車時には日比谷(陸軍)で101発の祝砲が撃たれました。


まさに国を挙げての一大イベントでした。


列車は1号車から9 号車まであります。



1号車から2号室は近衛護兵です。




3号車に天皇陛下が乗って居られ、同乗した人の中に工部少輔山尾庸三と鉄道頭井上勝の名前があります。




4号車には大蔵大臣井上薫の名前もあります。


山尾庸三、井上勝、井上馨とも長州人で「長州ファイブ」と呼ばれた5人の内の 3人です。


「長州ファイブ」とは映画にもなりましたから知っている人も多いとは思いますが、長州藩からイギリスへ渡航した5人を言います。




1863年に長州藩では幕府に内緒で井上聞多( 井上馨 )、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊介( 伊藤博文 )、野村弥吉( 井上勝 )の 5 人をイギリス留学させることを決定します。


英国ジャーディン・マセソン社所有のチェルスウィック号にて出港。


英国ロンドンに着くのに5ヶ月もかかっています。


イギリスに着くのでさえも死ぬのような苦労の  連続でした。


5人は英語を学ぶ傍ら、ロンドンではユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に入学して、始めは語学、算術、理化学等を勉強し、のち鉱山技術や鉄道技術の実業を実習した。


1864年、イギリスにて下関戦争の報を受けると、井上と伊藤は帰国し幕府との和平交渉に尽力します。


3年が経過し、留学資金が底をつくと、ウィリアムソン教授の手伝いをして生活費を稼ぎながら勉学を続けます。


日本では徳川慶喜が大政奉還。


戊辰戦争後、明治新政府が樹立されます。


1868年( 明治元年 ) 木戸孝允が「日本で技術を役立てよ」と再三に渡り帰国を要請。

 

井上勝は山尾庸三と共に帰国して新政府に出仕。


井上勝、山尾庸三、遠藤謹助、井上馨、伊藤博文は鉄道開業へと邁進します。


大隈重信の鉄道敷設推進派と1幹線3 支線の構想を練り、イギリスからの融資と技術者を受けて鉄道敷設を開始することとなるのです。


長州から渡航してロンドンで初めて乗った鉄道から9年が経過していました。


鉄道開業の当日、「長州ファイブ」の3人が鉄道に乗りました。


念願の鉄道が日本にも走る。


3人とも喜びで胸がはちきれんばかりでした。




特に天皇陛下と同席した井上勝の目からは涙が溢れていました。


天皇陛下は井上勝に鉄道作りに対する井上勝の努力を称え、労いのお言葉をかけました。


そして最後に一言


「鉄道を全国に広げて欲しい」


と井上勝に告げたのです。


井上勝の人生で最高の時間でした。


井上勝りは鉄道を全国に敷くため生涯を捧げる事とになります。

 

1910年( 明治 43 ) 5 月、日英博覧会の参加とヨーロッパの鉄道視察を目的に渡欧、イギリスを中心にヨーロッパ各地を調査してロンドンへ戻ったが、持病の腎臓病が悪化して8 2 日に亡くなった。


享年66歳だった。


※資料の写真は桜木町駅の展示物を写したものです。


日付は新暦で表示しています。 


通勤ち電車の座席に座っていると、前の座席に座っている人の小型のケースから犬の鳴き声が






キャン ‼︎  キャン‼︎  キャン ‼︎


あっ。ケースの中には可愛い子犬が


あれ?


電車の中にペットの持込乗車はOKだったっけ?


こんな疑問感じたかたが多いと思われます。


調べて見るとどの鉄道会社も、持ち運びに適当な容器に入れていれば、ペットの乗車はOKなようです。


各交通機関によっては持込運賃がかかったりペットを入れるケースサイズや重量の規定を設けています。


交通機関ペット持込一覧


http://www.unihabitat.jp/tips/transport/ 


なんだ知らなかった。


JRはペットの運賃は280円です。


鉄道開業の時よりペットの持込はOKのようです。


明治5年開業当時のペット持込ルールは次のようです。


犬一疋に付片道賃銭二十五銭を拂ふべし

併し旅客車に載するを許るさず犬箱或は車長の車にて運送すべし


尤首輪首綱口綱を備へて相渡すべし 發車時限を惰らざるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし


犬の運賃が25銭とあります。


現在の価格で約3000円程度です。


かなり高い設定になっていたようです。




鉄道とペットは鉄道開業当時よりペット持込はOKだとルールで決まっていたようです。


鉄道とペット持込は随分と昔より決まっていたことに驚きます。



1872年(明治5年) 1014日,新橋~横浜間に鉄道が開業しました。


その当時の鉄道の運行状況はどうだったのでしょう。


開業当時の時刻表があります。





タイトルも右から読んで「汽車出発時刻及賃金表」となっています。


時刻表には千申( じんしん )913 日からとあります。


当時は太陰暦を使用しており,旧暦の913 日はつまり太陽暦の187210 15日からの時刻表と言うことです。


明治59 12日、太陽暦では1872 1014日が正式開業で、天皇陛下が汽車にお乗りになられた日ですから、その翌日からの時刻表となっています。


運行状況


東京~横浜


午前


出発           到着

8            8 53

9            9 53

10         10 53

11          11 53


午後

2              2 53

3              3 53

4              4 53

5              5 53

6              6 53


停車駅は6駅です。


東京  品川  川崎  神奈川  鶴見 横浜


本当に簡単な時刻表です。


なんだか田舎のバスの時刻表みたいです。


なんだか、のんびりしています。


19本。東京からも横浜からも全く同じ運行スケジュールです。


12時と午後1時がないのは食事の休憩時間なのでしょうか?


「汽車出発時刻及賃金表」には時間が「時」ではなく「字」が使われています。


当時はまだ江戸時代の旧式の時間システムが併用されており、混乱を避けるために西洋時間には「字」を使っていました。


時間の言い方には「十二支」(深夜0時から2 時までが子の刻。


以下、丑の刻、寅の刻……)と「数呼び」(深夜0 時が九つ、2時が八つ、4 時が七つ ……)の2つあり、さらに西洋時間が入ってきたことで、時間の呼称が大混乱していました。


しかも太陰暦ですから、時期によって時刻が移動するので、鉄道運行には問題がありました。


そんなわけで、この年の末、太陽暦が採用されるのです。


 当時の時刻表には次のような注意書きが書いてありました。


乗車せんと欲する者は、遅くとも此(この)表示の時刻より 10分前にステーションに来り、切手買入れ、其の他手続きを為すべし。且つ賃金の定数を過不足なきやう兼ねて用意あらんことを欲す」


出発の3分前には駅のドアを閉めました。


日本人は鉄道によって「正確な時間」と「遅刻」の概念を学んだわけです。


また、は「切符」ではなく「切手」という言葉を使っています。


運賃


えっ⁇


朱? 分? 両?


現在の円の単価ではないのです。


「汽車出発時刻及賃金表」の運賃単価はなんと江戸時代の通貨単位、朱、分、両で表示されています。


江戸時代の通貨単位です。


1両=4分= 16


と言ってもでは運賃はどの位だったのかわかりませんので、その直ぐ後の運賃表で調べました。


上等  112 5


中等  75


下等  375


現在の貨幣価値に照らし合わせると、それぞれの金額は、上等が1 5,000円、中等が 1 万円、下等が5,000 円に相当していました。


いかに鉄道開業当時の運賃が高かったかが良くわかります。


現在では新橋は横浜は35分運賃は470 円です。


昭和40年代の桜木町駅です。




随分、美しい風景ですね。


毎日、通勤や通学に乗っている電車。


電車の中で忘れものをしたことはないですか?


私は忘れもの常習犯で、今までに電車の中に忘れたものは数数えられないほどです。


傘は当然のように財布、携帯、コート、ボストンバック等ほんとに嫌になってしまいます。


日本で初めての鉄道の「忘れもの」はいつで何だったかわかりますか?


それはここ桜木町駅、旧横浜駅での「忘れもの」が初めての「忘れもの」なんです。


初めての「忘れもの」


1872 ( 明治5 ) 612 日に品川駅 -横浜駅(現在の桜木町駅)間が仮開業しました。


ちょうど仮営業をはじめた初日のことでした。


品川から乗車した一人の客がホームで下駄を脱ぎ座席に座って横浜まで行ってしまったのです。


列車は履物を脱いで乗るものだと思いこんでしまったのです。


かくて、そのお客は横浜で降りる時には横浜のホームには下駄はありませんでした。


お客さんは大慌てだったとか


品川のホームには下駄がそのまま残ったままなんですから。


嘘のような本当の話です。


これが鉄道での「忘れもの」の第一号でした。


ああ、鉄道の仮営業の初日から「忘れもの」がおきてたなんて驚きです。


でも、当時の人からすると、西洋の文化にはなれていませんから室内に入るには履物は脱いで入る方が常識だったのかも知れません。





※資料の写真は桜木町駅の展示物を写したものです。


日付は新暦で表示しています。 

横浜と駅と言えば、直ぐ思い出すのが崎陽軒の「シュウマイ弁当」。






「シュウマイ弁当」は一日に19000 食がでる大人気商品。


日本一売れている弁当なんだそうです。


横浜市内を中心に関東エリアでしか販売していないのに日本一とは凄いですね。


この弁当の人気の高さが伺えます。


一番の人気の秘訣は「冷めても美味しい」と言う点。


私も何度か食べてみましたが、いつ食べても美味しいですね。


ところで、この「シュウマイ弁当」は旧横浜駅 ( 現在の桜木町駅 )ととっても深い関係にあります。


と言うのが、崎陽軒は1908年( 明治41 )に旧横浜駅構内のの売店として開業したんです。


1923年(昭和3年)に発売された崎陽軒のシュウマイ。




お値段は50銭でした。


崎陽軒はそれから駅構内の売店として営業場所を拡大していきました。


1950年( 昭和 25 )戦争の傷跡が残る横浜に明るさを取り戻そうと、横浜駅ホームでシウマイ娘による販売が始まりました。


1952年( 昭和 27 )毎日新聞に連載された獅子文六の小説「やっさもっさ」にシウマイ娘が登場。翌年映画化されると全国各地で上映されます。


想い出は夜の港にシュウマイの味




映画にもなった女性の販売員「シウマイ娘」の活躍によって、戦後「横浜名物シウマイ」は崎陽軒の看板商品になっていきます。


1954年( 昭和 29 )シウマイ弁当が販売開始。


初代社長・野並茂吉氏が、横浜駅の名物をつくろうと南京町(現在の中華街)で出されていた「焼売」に目を付けたのがきっかけです。


当時は崎陽軒のシウマイと同時に「横浜カマボコ」「酒悦の福神漬」という2品を売りにしていました。




当時の販売価格は100円です。


1955年(昭和30 )シウマイの折箱に添えられたしょう油入れに漫画家・横山隆一さんによって目鼻が加えられ、「ひょうちゃん」が誕生。




「シュウマイ弁当」は発売当初、メインのおかずであるシウマイは4個でした。


しかし、オイルショックの余波で1974年に大幅値上げが行われた際、シウマイを 4個から5個に増量し、現在に至っている。


「シュウマイ弁当」現在は830円。


今たべても、昔と変わらない美味しい弁当です。


ああ、列車の窓から風景を見ながら食べた「シュウマイ弁当」忘れられないですね。



※資料の写真は桜木町駅の展示物を写したものです。

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