ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: 横浜

久しぶりに映画館に行きました。


イオン港北センター店


映画はラストレシピ


滝田洋二郎監督


二宮和也主演


料理人の話しで、日本の歴史と運命が絡みあらう感動の映画でした。


最近の映画は随分と素敵な映画が増えました。


たまには、のんびりと映画もいいですね。


話しは変わりますが、イオンの映画館の売店でポップコーンを販売していました。




S350(税込) / R%0(税込) / L 550(税込) / ハーフ&ハーフ¥ 550(税込) /

キャラメル&プレッツェル¥ 450(税込)


随分といろんな種類のポップコーンです。


映画といえば、ポップコーン。


やはり、ポップコーンなんだ。


映画といえばポップコーン


映画にポップコーンは日本でもお馴染みの構図になってきたが、やはりパップコーンの本場はアメリカだ。


特にアメリカ人のポップコーン好きには頭が下がる。


本当にみんな誰でもが映画館で食べている。


アメリカの映画館では大抵、S ML 3サイズを展開している。


それぞれ日本の3 4倍はあると思われるボリューム。


Lともなると、大人の顔がスッポリ入るほどのバケツにてんこ盛りなのだが、結構みんな、これを買っている。


なにせ、値段が大体、S 5ドル、M 6ドル、L 7ドルというように、あまり変わらないのだ。


家族連れや友人同士の場合、Lバケツを購入し、ホットドッグなどを運ぶための深めの紙トレーに取り分けて食べていたりする。


そもそも映画とポップコーンの関係は、どのようにして始まったのだろうか?


もともと中米で生まれたポップコーンは、19世紀初頭に北米に上陸。


人々が、ポンポン弾ける音と香ばしい匂い、そのキュートな形に魅了される一方で、商人たちにとっては、キッチンいらず、マシーンの移動が可能、フレッシュなまま提供できるという利点があり、19 世紀半ばまでには手軽なストリート・スナック菓子として人気を博すようになった。


ただ、この時点では、サーカスやフェアを始めとする娯楽場所で売られるようになったものの、映画館の洗練されたイメージを保ちたい劇場主たちは、ポップコーンの販売を拒んでいたという。


美しいカーペットが散らかるうえに、まだ無声映画の時代であったため、ポップコーンが弾ける音が観客の気まで散らしてしまうことになるためだ。


1927年にはトーキー映画が始まり、映画が一気に大衆化していくが、この時点でもまだ、劇場主たちはポップコーン導入に後ろ向きだった。


そこへやってきたのが世界大恐慌。


安価な娯楽を求めて映画館に来る人々と、当時一袋5 10セントというお手頃なポップコーンの距離が、ぐんと近づいた。


最初は、商人たちが映画館の外にマシーンを置いて売っていたが、あまりにも多くの人々がポップコーン持参で映画館に来るもので、劇場主たちもついに館内を改装し、売店を作り出ることに踏み切ったというわけだ。


第二次世界大戦時には、砂糖不足によりキャンディやソーダが供給難となったが、塩とトウモロコシの穀粒は不足していなかったため、ポップコーンが重宝された。


作っている段階では音と匂いが際立つが、食べる頃にはあまり周りに匂いを振りまくこともなく、音を立てずに食べることができる点で、実は映画館向きのスナックでもあった。


さらに、コロコロしていてドライなので、掃除がしやすいという利点もある。


1945年になると、米国で売られたポップコーンの半分以上が、映画館で消費されたのだとか。


1960年代にはテレビの普及により、映画館に足を運ぶ人が減ったりと、時代の流れとともに浮き沈みを経てきたポップコーン。


それでも、材料が安く、労力も少なく提供できるため、利益率は85パーセントと最強だ。


今では、ポップコーンを始めとする売店からの収入が、映画館全体の利益の40パーセント強を支えているのだという。


日本の映画館でもポップコーン


1940年代くらいからアメリカから映画館でポップコーンが流行り始めたらしいんです。


日本の映画館はそれを真似しました。


日本みたいに静かなお客さんじゃないために、モノを投げつける悪質な人もいたのです

ポップコーンは投げつけられても痛くない、汚れないそれと売る側にとっては、とっても単価やが安く、儲けが出るという商品だったからです。


日本がポップコーンを導入したのはやはり、ポップコーン販売が利益のでる商売だからだと言われています。


ポテチとかだと値段が書いてあるので、売ってもそんなに利益が出ませんが、ポップコーンだと何もかいてありませんものね。


あれ本ではポップコーンの50gの原価は約 35円だとでていました。


ポップコーン売れば売るほど利益が出るらしいですよ。


毎日、蛇口(じゃぐち)を捻って水を出して飲んだりしていますが、この蛇口、なぜ蛇口って言うのかわかりますか?





蛇口って言うけど、ちっとも蛇(へび)の口に似てもいないし、不思議ですよね。



蛇口と呼ばれるには日本の水道の歴史と深い関係がありました。


■ 水道の歴史


明治時代、横浜では水がなくて困っていました。


当時、イギリス人の技術者で水道工事に詳しいヘンリー・スペンサー・パーマーさんが日本に来ていたので、横浜の水道の計画をお願いしました。



ヘンリー・スペンサー・パーマー




パーマーさんは、水源をいろいろしらべ、道志川と相模川が合流するところを選び2年半の年月をかけて、明治 20年(1887 年)に日本で初めての近代水道を完成させました。


これが日本で初めての水道でした。


■ 獅子頭共用栓


この水道は、濾過した水に圧力をくわえて鉄管で送り、いつでも使うことができたそうです。


最初の配水地域は市中心部のみで、街頭に設置した十数軒が共用する獅子頭を持つイギリス製共用栓を用いて配水されたのです。


獅子頭共用栓 

( 横浜市開講記念館の中庭より)




給水開始時の共用栓数は143基、他に消火栓を 629期設置されました。


当時の日本では、日常の水には井戸水を利用する場合が多く、水道を引くという考えは一般的ではなく、また屋内に蛇口を引くという習慣もありませんでした。


そのため、水道の水は路頭の共用栓(獅子頭共用栓)から供給を行っていました。


横浜駅前にあった獅子頭共用栓





■ 蛇口と言われるようになった経緯


イギリスから輸入した共用栓に欧州の「ライオンの頭部」(獅子頭)が採用されましたが、日本製の共用栓を製作する時には「龍」を用いました。


空想上の動物である龍の元となった生物としての「蛇」から「蛇体鉄柱式共用栓」と呼ばれた。


蛇体鉄柱式共用栓




以後、蛇体鉄柱式共用栓から水が出て来るようになったため蛇口と名付けられるようになりました。


なんだか、蛇口と呼ばれるようになるまでにはいろんな経緯があったようです。


当時の横浜の水道は、外国の船の人においしい水としてよろこばれ、「赤道をこえてもくさらない」と評判になったそうです。









桜木町駅の鉄道記念品の中に「鉄道唱歌」があった。




作詞は大和田建樹。


汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり


愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として


右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ


雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも


窓より近く品川の 台場も見えて波白き


海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か


梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の


大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに


鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション


湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで


ほんと誰でもが知っている「鉄道唱歌」である。


ただ、「鉄道唱歌」は明治時代のヒット曲、今はもう誰も歌う人などいないかも知れない。


大和田建樹はわたしと同じ愛媛県は宇和島市の出身です。


故郷の偉人として宇和島駅の前には石碑もあり、生家もあったので、名前は良く聞き知っていたのだが、なにせ明治時代の人物であり、なぜ「鉄道唱歌」を作詞するようになったのかは知らなかった。


大和田建樹が「鉄道唱歌」を作詞し、それが世に知れるまではいろんな物語があったようです。


「鉄道唱歌」物語


1895年(明治28年5月)商用で京都に来ていた大阪の商人市田元蔵は、駅前で月琴に合わせて歌う大道芸人に魅入っいました。


「汽笛一声新橋を あとに出てゆく芝浜や 左は遠く房総の 沖に行き交う真帆片帆」


それは「汽車の旅」(作詞・横江鉄石 )という歌でした。


「おもろいがテンポがのろい。もっとええ歌にしてはやらしてやろ」


元蔵21歳の時です。


市田源蔵は大阪西区阿波座南通りで「市田昇文館」という小さな出版社を経営、教科書の副教材や子供向けの絵本を出して、細々と暮らしていました。


以前、彼は私立明治女学校の国語科教員だった大和田建樹に頼み、『いろは字引』と名づけた小型辞書を出し、売れたことがあったので、鉄道の歌を作る企画を持っての明治31年上京し大和田建樹を訪ねます。


しかし、大和田建樹はすでに売れっ子になっていました。


「故郷の春」「船あそび」などの作詞は、文部省唱歌に選ばれ、音楽教科書に載っているほどでした。


「そりゃ無理な話だ。キミの企画だと実地を廻らねば書けぬ。ボクが作曲家をつれて汽車に乗り込まねばできないよ。そんな時間はないしカネもかかる」


大和田建樹に断られます。


しかし、源蔵は建樹に鉄道のすばらしさを喋り続けるのでした。


鉄道唱歌の作詞を渋る詩人大和田建樹を元蔵は、自分でもあきれるほどの熱弁で説得します。


今や汽車は交通手段の花形、これをテーマに沿線の地理・歴史・風俗・人情・物産等をおりこみ、格調高くロマンチックに歌いあげる詩人は、日本中探しても先生しかいない。」


最後は大和田建樹に


「まあその気になったら連絡する。」


と言わせてしまいました。


明治31年(1898 )の話です。


この年は東海道線が全線開通し、鉄道ブームにわいていた時代です。


年の暮れになると大阪の元蔵に大和田建樹より


「ヤクソクハタス スグコイ」


との電報が届きます。


大喜びの元蔵はひとりの青年をつれて上京しました。


この青年が無名の作曲家多梅稚です。


彼は東京音楽学校(現・東京芸術大学)で学んだころから、作曲の才能は抜群、大阪師範学校(現・大阪教育大学)や府立一中(現・北野高校)で生徒を教える有望な若者でした。


明治31年(1898 1228 日、詩人大和田建樹(当時 41)、音楽家多梅稚(29)、小出版社「市田昇文館」主人市田元蔵( 24)の3人は、開通したばかりの東海道本線に乗り込み、東京の新橋駅をスタートします。


大和田建樹は汽車が動きだすとすぐに「車窓日記」と書いたノートをとりだし、窓外を眺めながらスラスラと筆を走らせます。

 

「汽車は新橋を出でぬ 雨しめやかに降りていたり 遠くゆく船も煙に包まれて 窓辺に白し品川の海


このメモが一世を風靡した「鉄道唱歌」の出だし、「汽笛一声新橋を」の原案です。


唱歌が大ヒットした原因は、建樹の格調の高い実景描写のリアリティにあります。


梅稚はほとんど目をつぶったまま。


時々、横目で建樹のノートをのぞき、なにかぶつぶつつぶやくだけです。


元蔵がまめまめしく弁当やお茶、果物などを差しだすなか、汽車はゴトゴトと軽快なリズムで走り、両人のインスピレーションを、ますますかきたてました。


翌明治32年春、大和田建樹作詞・多梅稚作曲の「鉄道唱歌」は完成します。


その頃、肝心の版元市田昇文館が倒産寸前でした。


日清戦争が終結し、大戦景気が一転して大不況におちいった時代で、零細企業の資金のやりくりはどこもいき詰まり、市田昇文館の店も担保に入っているありさまでした。


元蔵は「鉄道唱歌」に起死回生の夢を賭け、無理算段してやっと3千部を刊行します。


しかし弱小資本の悲しさ、宣伝力のないせいかさっぱり売れない。


どこの書店でも売れ残り、在庫の山でした。


「鉄道唱歌」は売れなかった。


そこへ、ある日突然恰幅のいい紳士が訪ねてきます。


有名な「三木楽器店」の主人三木佐助でした。


彼は明治21年(1888 )楽器販売店にきりかえ、山葉(やまは)ピアノ・オルガン、鈴木バイオリンなどの関西販売権を独占し、巨万の富を築いていました。


「鉄道唱歌」の軽快なメロディ、日本にはなかったさわやかなリズムが気に入ってやって来たのです。


翌明治33年5月、「鉄道唱歌」は「地理教育」の名で、一部6銭で大々的に売りだされます。


胸に白バラ、白い帽子に赤のユニフォーム姿の楽士隊を編成、美人で声量豊かな女性歌手を列車に乗せて歌わせました。


「鉄道唱歌の販売部数はおびただしき数に達し、洛陽の紙価を高らしむる」


『明治流行歌史』に記されるほど、大当たりをします。


第二集「山陽・九州」、第三集「東北」、第四集「北陸」、第五集「関西・参宮・南海」と、わずか半年の間に次々と刊行されます。


「鉄道唱歌」は、刷っても刷っても注文に追いつかず、どこの書店でもすぐ品切れです。


歌詞は沿線の歴史・地理・風物・産物・人情などを巧みにおりこみ、七・五調の四行を一章に、第五集まで合計332章。


教育効果は高いと学校や自治体も、争って求めます。


会社・商店から工場、ついに政治家や高級官僚、いや、花柳界まで芸者の三味線にのって「汽笛一声新橋を」と歌い踊るありさまです。


もちろん背景には、空前の鉄道ブームがありました。


夏目漱石の弟子で学習院の院長安倍能成(哲学者)は、熱烈な「鉄道唱歌」のファン。


宴席ではかならず歌いだし、それも始発新橋から終着神戸までやらねば、気がおさまりませんでした。


記録によれば「鉄道唱歌」は大正時代の初期までに、約2千万部を売り尽くし、収益は2百万円をこえたと言われます。


大正時代の日本の人口は約4400万人と言われてますから、日本人の 2人に1人は「鉄道唱歌」を買ったことになります。


マスコミが現在とはまったく比較にならぬ時代ですから、「鉄道唱歌」本、これはもうベストセラーズどころの話ではありません。


また当時の誰もが歌ったこの歌「鉄道唱歌」は空前絶後のベストヒット曲なのです。




★最後に大和田建樹とはどんな人物だったのか?


大和田建樹は、詩人・歌人としては無論、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授も務め、数々の業績をあげた国文学者でもありました。


ただし彼は学歴が無く独学です。


そのため学閥で結ばれた学者仲間から嫌われます。


国民的人気が高いだけに、大衆に迎合する軽薄な男だと白い眼で見られ、あら探しする連中も多い。


建樹も反抗的で、「俺は偉いやつと官吏が大嫌いじゃ」と広言し、学内でもしばしば同僚と衝突をくり返す。


文部省との折り合いも悪く、いつもにらまれている。


おまけに無類の酒好き、金銭感覚ゼロとくる。


売れっ子だから収入は多かったはずですが、どこでどう使ったのか家計はいつも火の車。


しかも有名な医者嫌い。


健康管理がまったくできず、家族を泣かせて明治43年(1910) 10月、53歳で急死しました。


我が故郷、愛媛県宇和島市の偉人、大和田建樹先生、実に人間的な先生だったようです。

1872(明治5)年、東京の新橋と神奈川の横浜の間に、日本初の鉄道が全通しました。




なんだか日本の鉄道開業ってすんなりと出来た感じを受けますが、決して開業は平坦な道のりではありませんでした。


日本の鉄道開業はなかなかうまく行かなかったのです。


明治政府内に鉄道推進派と鉄道反対派でわかれたのです。


鉄道推進派は大隈重信と伊藤博文です。


佐賀藩と長州藩。


ペリーが日本に来る1年前、長崎にロシアのプチャーチンが機関車の模型を持って きました。


佐賀藩では、2年後に、技術書を手がかりに、蒸気機関車の模型を作り走らせていました。


大隈重信は当時17歳で、そのようすをみていました。


伊藤博文は、幕末、22歳の時にイギリスに留学しました。


伊藤は、西洋文明の発展、特に工業の発達と鉄道網の発達に驚きました。


「日本を新しい国にするには、是非とも鉄道を造らなければならない」と考え、鉄道建設の建議書を政府に提出しました。


建設に必要な資金は、現在の額で880億円。


当時の政府の歳入の3分の1でした。


反対派は西郷隆盛と大久保利通でした。


2人とも薩摩藩。


明治維新がなったばかりの時期に莫大な資金を必要とする鉄道を敷けば国家財政が立ち行かなくなります。


「鉄道は金を失う道」と反対は強かった。


西郷隆盛や大久保利通は予算は鉄道より軍備を優先すると主張しました。


それに旧幕府との 戦争で外国に莫大な借金をかかえていました。


明治210 11日付で外務省は上申して鉄道起工を建議し、11 10日に鉄道敷設のことが太政官(三条右大臣、岩倉・徳大寺・鍋島・中御門の四大納言、副島・大久保・広沢・佐々木・後藤・木戸の六参議)において決定されました。


政府内ては鉄道建設は正式に決定されましたが、反対者が多く、予算を確保することができませんでした。


しかし推進派は明治政府の財政不足をイギリスに助けてもらい新橋と横浜( 現在の桜木町駅 )が開業できるようになります。


資金は、イギリスのオリエンタル銀行から融資を受けるようになりました。


鉄道の陸上敷設予定地だった品川近辺には、反対派の西郷隆盛や大久保利通のお膝元である薩摩藩の藩邸などがあり、測量さえも拒否しました。


また、地元住民は、立ち退きを拒否し、従来の飛脚業者なども、反対派に加わりました。


鉄道推進派は、品川沖の東京湾に細長い土手を築きまして、その上を走らせたのでした。


それによって全体の3分の1が、海上ルートとなってしまったのです。


大久保利通


鉄道反対論の大久保利通は1874年( 明治4 ) 11月に蒸気機関車に試乗。


「始て蒸気車に乗候処、実に百聞一見に如ず、愉快に堪ず。此便を起さずんば必ず国を起すこと能はざるべし。」


「初めて蒸気機関車に乗りました。百聞は一見にしかず。愉快にたえない。鉄道の発展なくして、国家の発展はありえない。」


「鉄道の発展なくして国の繁栄はありえない。」


と反転して、双手を挙げて鉄道賛成に転じています。


大久保利通は「よく人にも計り、人の言も'容れた人で、一事を裁断するにも念には念を入れる流儀だったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷うの、躊躇するのということはなかった。」人物でした。



★1875年( 明治 5 ) 10 14日開業式典列車には明治天皇をはじめ、政府高官、外国公使などの要人たちを招いていました。


明治天皇陛下より「由々しき事態であるから病気でなければ参加するように」とのお達しが出されたそうです。


反対派の西郷隆盛も明治天皇陛下よりのお達しですから断ることもできません。


西郷隆盛はどんな気持ちで蒸気機関車に乗ったのでしょうか。


そして、蒸気機関車に対してどんな感想を持ったのでしょうか。




桜木町駅の鉄道の展示品はいろんなことを連想させてくれます。


えっ?


展示品ってどんな風に展示されてるのかって。






駅の柱を利用して誰にでも見やすく展示されてます。




日本の鉄道の父、井上勝の写真もあります。


ところで井上勝って、毎日わたしたちが食べている乳製品と関係があるのを知ってますか?


小岩井農場の乳製品って知ってますか?




牛乳だったり、ヨーグルトだったり。


小岩井農場の乳製品って、とにかく美味しいですよね。


実は小岩井農場の創設者が日本の鉄道の父、井上勝だったんです。




小岩井農場の歴史


1888年(明治21年) 612日。


この日、盛岡を訪れていた明治政府の鉄道庁長官、井上勝は、眼前に広がる岩手山の南麓に広がる風景に目を奪われていました。


それは、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地を前に、井上は、この荒れ果てた土地に大農場を拓くという、かつて誰も抱いたことのない夢を抱いた。


幕末の動乱期にイギリスに密航した伊藤博文、井上馨ら5人の長州藩士、いわゆる長州ファイブの一員で、近代土木技術、鉱山学などを学びました。


帰国後は、1872年(明治5 年)の新橋-横浜間の日本最初の鉄道敷設を始めとして、東海道本線、東北本線など、数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、日本の鉄道事業の基礎を作ったのです。


盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事視察のためでした。


岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸に去来したのは、長年、鉄道敷設事業に携わる中で、数多くの「美田良圃(びでんりょうほ:美しい田と良い畑)」を潰したことに対する悔恨の念だったといいます。


このような荒野が手付かずで放置されているのであれば、せめてそれを開墾して大農場を拓くことで、美しい田園風景を損なってきたことの埋め合わせをしたい。


それこそ、国家公共のためであり、自分がなすべき事業ではないか。井上はそう考えたのです。


井上はこの構想を岩崎彌太郎のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼します。


当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていました。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせます。


国家公共のため、荒地に農場を拓きたいという井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したといいます。こうして、1891年(明治 24年)1 1 日、井上が場主となり小岩井農場が開設されました。


小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1 字ずつ取って作られたものです。




ほんとに、なんだか知らないことっていっぱいあるんですね。

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