ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 長崎の鐘

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一が長崎に行き、医師の永田武(吉岡秀隆)と会い、再び作曲活動をスタートさせました。その最初が『長崎の鐘』でした。

 永田武の史実のモデルは永井隆です。永井隆は医学博士であり敬虔なカトリック信徒でした。

永井隆の思想

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※被爆直後の浦上天守堂

 1945(昭和20)8911:02アメリカ軍が長崎に原爆投下。長崎市の人口24万人の内74千人(推定)死亡建物は35%が全焼または全半焼しました。永井隆も重症を負い、妻を失いました。 

 日本はカトリック教徒の人口比が05%にも満たないカトリック小国。そのなかで長崎県は人口の4%に当たる6万人の信者が暮らすカトリック大国です。

 1549年カトリック教会の聖人フランシスコ・ザビエルがカトリック長崎に来日し布教を開始したことから始まっています。1587年豊臣秀吉バテレン追放令1612年キリスト教禁止令。1914年浦上天守堂が建設される。長崎のカトリック教徒は長い歴史の中で何度となく迫害を受け続けてきました。

 それでも宗教を捨てず、信仰を守り抜いてきたのが長崎のカトリック教徒の人々でした。

 なぜ、そんな敬虔なカトリック教徒の上にアメリカは原子爆弾を投下するのか。本当に神も仏もありません。

 こんなカトリック教徒に起きた苦境も永井隆はこんな風に考えました。

「これは神の摂理である。」

「世界戦争という人類の罪の償いとして浦上教会が犠牲の祭壇にそなえられたのである、いと潔き羔として選ばれ屠られ燃やされたのである。」

「浦上教会の犠牲によりて世界に平和が恢復せられ、日本に信仰の自由が与えられたことを感謝致しましょう。」

 その考えを彼の著書「長崎の鐘」でも述べています。

私の思うこと

 彼が敢えてアメリカの原子爆弾投下を非難しなかったのか、敗戦直後、アメリカ軍の占領下、そんな発言が出来なかったのかは良くわかりません。

 しかし、原子爆弾投下により罪のない何万人の人が殺害されたのは事実です。

 これは当時の国際法に照らし合わせても犯罪行為です。

日本の戦争行為だけが罰せられたのは不条理です。

 人間は第一次世界大戦も第二次世界大戦も何の反省もないまま、現在に至っています。

 「長い人間の歴史の中で言えることは戦争の勝者のみが、全てを許される。」と言うことではないでしょうか。

 この原則であれば、きっと、また第三次世界大戦が勃発し、今度こそ人類は誰もいなくなるのかも知れません。

終わりに

 そんなことにならないために、終わりに2019(令和元年)1124日ローマ教皇来日、ローマ教皇(法王)フランシスコの演説全文を掲載します。

 『愛する兄弟姉妹の皆さん。この場所は、私たち人間が過ちを犯し得る存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。

 近年、浦上天主堂で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを改めて思い起こさせてくれます。

 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を保有することは、この望みへの最良の答えではありません。それどころか、この望みを絶えず試練にさらすことになるのです。

 私たちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。

 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来の全ての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という世界的な倫理によってのみ実現可能となります。

 ここは、核攻撃が人道上も環境上も破滅的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくとも常に上がっています。

 軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。

 今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、一層破壊的になっています。これらは途方もない継続的なテロ行為です。

 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。

 この理想を実現するには、全ての人の参加が必要です。個人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。

 核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。

 一九六三年に聖ヨハネ二十三世教皇は、回勅「地上の平和(パーチェム・イン・テリス)」で核兵器の禁止を世界に訴えていますが、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」

 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。

 私たちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。』


19451123日長崎の浦上天守堂の廃墟で合同葬が行われ、永井隆は浦上カトリック信徒代表として『原子爆弾死者合同葬弔辞』を述べている。

『原子爆弾死者合同葬弔辞』

「昭和2089日午前1030分から、大本営に於いて戦争最高指導会議が開かれ、抗戦か終戦かを決定することになりました。この会議の結果に日本の運命のみならず世界の運命がかかってきました。世界に新しい平和をもたらすかそれとも人類を更に悲惨な戦乱に陥れるか、運命の岐路に世界が立っていた時、即ち午前112分、一発の原子爆弾は吾が浦上の中心に爆裂し、信者八千の霊魂は一瞬にして炎々と燃え上がりし猛火は忽ちにして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しました。それと全く時刻を同じうして大本営に於いては畏くも天皇陛下が軍部の強硬なる抗戦論を押さえ 世界平和の為に終戦の聖断を下し給うたのでございます。

 八月十五日終戦の大詔が発せられ、世界あまねく平和の朝を迎えたのでありまするが、この日は実に聖母の被昇天の大祝日に当っておりました。日本は聖母に献げられた国であり、吾浦上の天主堂もまた特に聖母に献げられたものであることを想い出します。

 これらの奇しき一致は果たして単なる偶然でありませうか、それとも天主の妙なる摂理の現れでありませうか。長崎市の中心、県庁付近を狙った原子爆弾が天候のため北方に偏り浦上のしかも天主堂の真正面に流れ落ちたという事実や、この原子爆弾を最後として地上何処にも戦闘の起こらなかったという事実などを併せ考えまするならば浦上潰滅と終戦との間に深い関係の在ることに気付くでありましょう。即ち、世界戦争という人類の罪の償いとして浦上教会が犠牲の祭壇にそなえられたのである、いと潔き羔として選ばれ屠られ燃やされたのであると私共は信じたいのであります。

 アダム・エワが知恵の木の実を盗んだ罪と、弟を打殺したカインの血とを承け伝えた人類が、同じ天主の子でありながら愛の掟に背いて、互いに憎み合い互いに殺しあったのがこの世界大戦争でありました。昭和六年満州事変以来十五年間の戦乱を終わり再び平和を迎えるためには世界人類が深くその罪を悔い改めるばかりでなく、適当な犠牲を天主に献げてお詫びをせねばなりませんでした。これまでうちに幾度か終戦の機会はあり、爆撃により全滅した都市もまたいくらもありましたが、しかしそれは犠牲としてふさわしくなかったから天主はいまだこれを容れ給わなかったでありましょう。然るに浦上教会を挙げて献げた時始めて天主はこれを善として容れ給い、人類の詫びを聞き入れ、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたものに違いないと拝察するのであります。言い換えれば浦上が犠牲になったからこそ終戦となったのである、この犠牲によって十数億の人類が戦乱の惨禍から救われたのであると思うものであります。

 信仰の自由なきわが国において豊臣徳川の迫害に滅ぼされず、明治以来、軍官民の圧制にも負けず、いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそはまこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れではなかったでしょうか。ああ世界大戦争の闇まさに終わらんとし平和の光さしそめる八月九日この天主堂の大前に立てられたる大いなる燔祭よ。

悲しみの極みのうちにも私共はそれを美しきもの、潔きもの、善きものよと仰ぎ見たのでございます。

 西田神父様、玉屋神父様。純心や常清の童貞様、宿老様、教方様、十字会の姉様、親戚、友達、うちの者・・・・・・誰を思い出しても善い人ばかり・・・・・・しかもふくれ饅頭の祝日のために告解を済まし或いは糾明を終えていたあなた方でありましたから八千人お揃いで天国行きの雲にのせられたことと思っています。

 敗戦を知らずにこの世を去ったあなた方こそ幸福であると言わねばなりません。潔き羔として天主の御手に抱かれているあなた方に比べ、生き残った私共はなんという哀れな惨めな者でしょうか。日本は負けました。浦上は全くの廃墟です。見ゆる限りは広々とただ灰と瓦。住むに家無く、着る衣無く、薯畑も荒れ果て耕す人もなし。大事な働き手だったあなた方を失った私共わずかばかりの遺族はただぼんやり焼け跡に立ち、迫りくる雪空を仰いで祈りを捧げているのです。あの日、あの時あなた方となぜ一緒に死ねなかったのでしょうか。なぜこんな惨めな敗残者として生き残らねばならないのでしょうか。

 今こそしみじみ私の罪の深さを知らされました。私どもはまだ償いをはたしていなかったから選び残されたのです。余りに罪の汚れが大きいために祭壇に供えられなかったのでありましょう。

 私共がこれから歩まねばならぬ敗戦国民としての道は真に悲惨であり苦難に満ちたのものであるに違いありません。又ポツダム宣言に基づき私共に課せられる賠償は実に大きな重荷であります。この重荷を負うて行くこの苦難の道こそ然しながら私どもの罪の償いをはたすことのできる希望の道ではありますまいか?

 福なるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり。この御言葉を信じ天国に容れられる喜びを予期しつつこの苦難の道を私共は正直に、ごまかさずに進んでゆこうと思います。嘲られ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつ私共が賠償の重荷を担い行く時、かのカルバリオの丘に十字架を担いのぼり給いしわが主イエズス・キリストは必ず私共を勇気づけて下さるでしょう。どうか特別の勇気を弱き私共に賜りまする様、聖母の御取次ぎにより天主に御願い下さいませ。

 本日は長崎教区主催にてあなた方のために、この浦上天主堂の廃墟に於いて合同葬が営まれ仙台浦川司教様の歌ミサと赦祷式とがあげられました。浦上出身の司教様、神父様、童貞様が日本中から帰り来られ八千本の十字架をかかげる二千名の遺族と共に心しみじみ祈りを捧げております。天主の御憐みによりこの御ミサの功徳により、煉獄の火に浄められて早く天国へ上って下さい。

 ああ、全知全能の天主の御業は常に讃美せらるべきかな!浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致しましょう。浦上教会の犠牲によりて世界に平和が恢復せられ、日本に信仰の自由が与えられたことを感謝致しましょう。

 願わくは死せる人々の霊魂、天主の御哀燐によりて安らかに憩わんことを。アーメン。

(長崎大学論叢 第18号 小西哲郎「永井隆の原子爆弾死者合同葬弔辞」より)

祈りの歌『長崎の鐘』

 永井隆は原子爆弾を神の摂理と述べている。多くの犠牲者の冥福を祈りながらも、彼らにより、世界平和が回復し、信仰の自由が勝ち取られたことを神に感謝し、残された人間は未来に進むべきであると述べたのです。

 永井隆もNHK連続ドラマ『エール』の主人公になっている古関裕而も、ともにキリスト教徒で思考方法も非常に良く似ていると思います。

二人とも純粋で直向き、一途な性格で後ろを向いてはいません。未来思考です。

 古関裕而のドラマでは軍歌の作曲で多くの若者が戦地に赴き亡くなったことを後悔し、作曲を中断するシーンもありましたが、古関裕而は戦後も作曲をやめることはありませんでした。

 二人とも作曲も医療や執筆活動が神より与えられた使命だと考えていたからでしょう。どんな辛苦が訪れても、神の与えられた試練に乗り越えられないものはないと思われていたからでしょう。

 ただ、二人が純粋であればあるほど、皮肉なことに二人とも政治に利用されることが多かった。

 この合同葬弔辞も著書『長崎の鐘』でも原爆が神の摂理であると述べています。

 神な摂理なら無謀な十五年戦争を開始、遂行し、戦争の終結を遅延させた、天皇を頂点とする日本国家の最高責任者の責任は免除されることになります。

 また、原子爆弾を使用したアメリカ合衆国の最高責任者たちの責任もまた免除されることになります。

 浦上燔祭論の果たした歴史的役割は、日本の戦争責任とアメリカの原爆投下責任の二重の免責を与えたことになるのです。

 当時は占領軍のプレスコード(19459月指令)によって厳しい言論統制が行われ、原爆に関する報道や調査研究は禁止されていました。

 それでも、なせが永井の著書は次々と発表がGHQに許可されていった。

 GHQが政治利用「二重の免責の功績があったからこそ、そのような特典に預かった」のではないかと思われます。

 永井隆の神の摂理の発言が「祈りの長崎」の性格が形作られ、古関裕而の代表作である『長崎の鐘』を生むことになります。それはまさに長崎への祈りの歌となっていました。



永井隆とヘレンケラー、そして昭和天皇


永井隆とヘレンケラー

昭和2310月、秋の日がもう西にかたむいたころ、その人は現れました。

その人とは、三重苦を克服した偉人として世界的に有名になっていたヘレン・ケラーさんでした。

三重苦とは、目が見えず、耳が聞こえず、口で話すこともできない障害のことです。

ヘレン・ケラーさんは、とても努力して、障害を克服し、自分のように障害をかかえている人々を励ますために、世界中を訪問していたのです。

ヘレンさんは、家の前のほそい石だたみの道を、隆のまつ如己堂まで歩いてきました。

とちゅう、コスモスのまえで立ちどまると、ピンク色のコスモスを一輪手おって、それをもって如己堂のガラス戸の前に立ちました。

ヘレンさんはこのとき六十九歳、青い目をした、温かな笑みをうかべる婦人でした。

隆は低いベッドからすべり落ちて横になったまま、たたみ一枚をへだてて、ヘレンさんに手を差し伸べました。

ヘレンさんも手を伸ばして隆の手をさがすのですが、互いに体が不自由なもの同士、二つの手は宙に泳いでいました。

ふたりの手がふれあったとき、温かい愛情のようなものが一瞬、体へ流れこんだように隆は感じました。

ヘレンさんはほほえみながら言いました。

「わたしの心はすべて、今あなたの上に注がれています。」

この一言に隆はヘレンさんの深くあたたかな愛情を感じました。

自ら苦しみ、泣いたものでなければ、他人を心からいたわり、なぐさめ、元気づけることはできません。

ヘレンさんは隆にちょくせつ語りかけるために、不自由な体にもかかわらず、地球の向こう側のアメリカから、長崎のこの如己堂までやってきたのです。

隆は、ヘレンさんに真実の愛情を感じました。

隆が家族を紹介すると、ヘレンさんはにっこりとしながら、そばにいた茅乃のセーターにコスモスをさしました。

ヘレン・ケラーのさんの訪問は、隆たちを感動させ勇気づけました。

そして、心あたたまる平安のひとときと忘れられない思い出を残しました。

「本当の平和をもたらすのは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による」(永井隆著『いとし子よ』)

ヘレン・ケラーさんのように、「互いに愛し合う」という行ないが人々の心をひとつにし、平和をつくっていくのだと隆は強く感じたのでした。

『永井隆 平和を祈り 愛に生きた医師』(童心社)

永井隆と昭和天皇

昭和天皇は昭和24年5月27日に永井隆博士を見舞われました。

永井博士は感動に咽び泣いたそうです。

「どうです、ご病気は?」  

 昭和天皇は、ベッドのすぐ近くまでお寄りになり永井隆博士をいたわられた。この永井隆博士は、放射線医学の研究家で、原爆で愛妻を亡くし、自らも重傷を負いながらも「己の如く隣人を愛する」という精神のもと救護活動にあたった人物である。その後、被爆による骨髄性白血病で倒れ、病床で『この子を残して』を執筆し一躍世に知られた。巡幸日程が組まれた当初、永井博士は長崎医大附属病院屋上で昭和天皇をお迎えすることになっていたが、容態の悪化を侍従から聞かされた昭和天皇が屋内で出迎えてもよいと指示されたという。  

 「あなたの書物は読みました」と昭和天皇がおっしゃると、博士は『この子を残して』に登場する子どもたちを振り返って「これが本の中に出てくる子どもですよ」と紹介した。昭和天皇は、子どもたちをしばらくご覧になった後に、「しっかり勉強して立派な日本人になって下さいね」とお声をかけられた。  

 最後に昭和天皇は、博士の主治医影浦教授に「博士の治療を頼みますよ」と言い残され病院を後にされた。博士は「うれしかったですバイ」と感動にむせび泣いたという。この時の印象を博士は後に「天皇陛下にお会いして」という手記に次のように記している。  

「私はあの細やかな心遣いをして、どんな小さなものでも、いたわられる愛情と御態度こそ、今の私達日本人が、毎日の生活にまねをしなくてはならないと思う。今日本人はお互いに分離しているが、陛下がお歩きになると、そのあとに万葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が、甦って日本人が再び結びつく

 1945(昭和20)8911:02アメリカ軍が長崎に原爆投下。長崎市の人口24万人の内74千人(推定)死亡建物は35%が全焼または全半焼しました。

 長崎医科大学助教授、永井隆は爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した。彼は飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井隆ははまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオが落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。

 9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥った。

 1015日「原子爆弾救護報告書」を執筆。

 1946(昭和21)1月彼は教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 彼は苦しい闘病生活を送りながら活発に執筆活動を展開します。   昭和218月「長崎の鐘」昭和231月「亡びぬものを」3月「ロザリオの鎖」4月「この子を残して」8月「生命の河」昭和243月「花咲く丘」10月「いとし子よ」などを発表。

 多くが数万部から国内で数10万部のベストセラーとなり、翻訳されて世界中の多くの人に読まれるようになります。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和233月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和2310月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌245月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。



 昭和245月、255月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 1951(昭和26)51日長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 永井隆 「いとし子よ」より

『私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛して、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。』

NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而とNHK紅白歌合戦でヨイトマケの歌を歌った美輪明宏の話しをします。

古関裕而と「長崎の鐘」

古関裕而は、長崎の原爆で被爆した永井隆の随筆「長崎の鐘」を元に、「長崎の鐘」を作曲して、昭和247月に発売しました(作詞はサトウ・ハチローです)。

古関裕而は永井隆の随筆「長崎の鐘」を読みながらイメージし作曲します。

随筆には「長崎の鐘」は長崎の原爆爆心地にあった大学の被爆した状況と自らも右側頭動脈切断の重傷を負いながら被爆者の救護活動にあたる様子 を記録。被爆時に長崎が完全に破壊され死んでゆく同僚や市民たちの様子も克明に描かれていました。

古関裕而はそこに描かれた事象に基づき多くの亡くなった方々の悲哀を曲にしていったのです。

最初は歌手の池真理子が歌うことになっていたのですが、歌詞に「召されて妻は天国へ」という部分があるので、男性の方が良いだろうということになり、藤山一郎が歌うことになりました。

この「長崎の鐘」は大ヒットしたので、松竹が昭和259月に映画化しています。

美輪明宏と長崎

美輪明宏は長崎県長崎市の出身で、10歳の時に原爆を体験しています。

爆心地から4kmの所に住んでいたのですが、助かりました。

そして、美輪明宏は、「長崎の鐘」の著者・永井隆の長男・永井誠一と中学の同級生だったので、被爆した永井隆のお見舞いにも行っています。

このため、美輪明宏にとって、古関裕而の作曲した「長崎の鐘」は思い出の曲の1つになっています。

美輪明宏の「ヨイトマケ」の歌も福岡県筑豊炭鉱町の嘉穂劇場のコンサートである。きらびやかな衣装でシャンソンを歌っていた美輪は、炭鉱町でのコンサートに炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしている光景を見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ると決意したと言います。

「ヨイトマケ」の歌

美輪明宏が幼少時に一緒に育った友人の亡き母(父や子供のために懸命に働き続けて亡くなった)を回顧する歌です。

主人公の過去には幼少時、母親の職業(地均しの日雇い労働者)がきっかけでいじめ受けた悔しさ、グレそうになりながらも高校と大学を卒業し、高度成長期に機械が普及した世の中で立派なエンジニアに成長した姿なども折り込まれています。

■NHK紅白歌合戦

俳優で歌手の美輪明宏が、大みそかの『第63NHK紅白歌合戦』に初出場後、一粒の涙を流した。

全世界にも放送されている同番組を通じて「離島やへき地の人が私の歌を聴きたいと言っていたので、約束が果たせました。やっと届けられた」と使命を果たした安堵で、頬を一粒の涙が伝った。

■NHK紅白歌合戦の反響

「ちょ!さっきの紅白見た人いる!?衝撃!!」

「どうして美輪さんは金髪じゃなかったんだろうねぇ」

「凄い歌詞らしいけど、衝撃で内容一切入って来んかったーー(; ;)

歌手で俳優の美輪明宏さんが、昨年1231日のNHK紅白歌合戦で「ヨイトマケの唄」を歌った直後、女子大学生がツイッターで交わしたつぶやきです。

美輪さんといえば、テレビでよく見る「金髪ロングでハデハデ」の印象が強かった彼女たちの世代にとっては、このときのステージのように黒い短髪に衣装は黒の上下、といったいでたちはさぞ「衝撃」だったのでしょう。

紅白の舞台は背景もなく真っ暗で、照明もピンスポットと上からの2本だけ。

化粧もせずに髪も黒。

「無でいい」と美輪さんは考えたそうです。

「聴く人の想像力を邪魔したくないから」。

建設現場で泥にまみれて地ならしの仕事をする母と、母親の職業ゆえにいじめられた子、それでもその子はぐれずに成長し、エンジニアになっていま、母の唄、ヨイトマケの唄こそ世界一だと親子の絆を思う――。私も久しぶりにこの歌を聴いて、美輪さんが歌う母、子、青年が、聴く人それぞれの人生に重ねられる「凄い歌詞」だと改めて思いました。

放送後の反響は大きく、冒頭のつぶやきよろしく、ネット上は直後から「号泣」「紅白史上最高」などの声で埋まったといいます(2013130日付毎日新聞夕刊)。

新聞紙上も「ヨイトマケの唄」に「涙が止まりませんでした」(16日付朝日新聞)、「母の姿が重なり、涙がこぼれました」(同日付北国新聞)といった投書が相次ぎました。

美輪さんが四十数年前、この歌を最初にテレビのモーニングショーで歌ったとき、障害や出身で差別を受けている人たち、貧しく厳しい環境で働く人たちから「自分たちへの励ましの歌だ」といった投書が2万通もテレビ局に寄せられたといいます。「今回も同じ。親は大事にしないといけないと思ったとか、善意を呼び覚ましてくれたとかいう意見をたくさんもらいました。親子のあり方、社会のあり方を考えるきっかけになればいいですね」と22日、東京・五反田であった音楽会直前の取材で話してくれました。

古関裕而と美輪明宏

両者とも見たもの聞いたものをイメージし、それを鮮明に曲や歌にします。

二人とも歌が好きでお互いの道を真っ直ぐ歩んできた人物です。

だから、そこにある題材が鮮烈であるほどその曲や歌が視聴者に与える感動も大きくなるのです。

時代とともに、時代を支えてきた作曲家と歌手だからこそ最高の作品を作れるのだと思います。

古関裕而

『私は音楽をもって大上段に構えたことはない。使命感などと、そんな大それたものを振りかざしたこともない。好きだからこの道をまっすぐ歩いてきたのである。長いともまた短いとも思えるこの一筋の道、その間には確かにいろいろあった。私はとうとうこの道を「好き」で貫いてしまった。』

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