ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 露営の歌

1937(昭和12)古関裕而が『露営の歌』を作曲して36年しか経たないのにテレビでは『露営の歌』の 替え歌をパクった番組が放送されていた。買い物ゲーム番組のその名も『買ッテ来ルゾト勇マシク』である。

買い物ゲーム番組『買ッテ来ルゾト勇マシク』

1973(昭和48年)63日より読売テレビ制作の買物ゲーム番組『買ッテ来ルゾト勇マシク』坂本九と柏木由紀子の夫婦での司会で始まった。

テーマ曲に「露営の歌」の替え歌が用いられていた。

買って来るぞと勇ましく、誓って家を出たからは手柄たてずにいらりょうか♪

毎週日曜日1930分より20

出場者は、芸能人と一般視聴者のペアが3組。

コーナーは大別して「買い物コーナー」と「キャッシュコーナー」の2

のコーナーに別れた。

買い物コーナー

さらに「買い物コーナー」は商品によって3つに分けられていた。

3つともルールは同じで、画面向かって右からベルトコンベアーに流れてくる商品の中から好きな商品が有ったら、自分の席まで自分で持っていく。ゲーム開始時に坂本が「買い物、スタート!!」(後に「ベルト、スタート!!」)とコールする。なお商品が買えるのは商品が見えている間で、商品が見えなくなったら、「あの商品、欲しかったな」と思っていても、もう買うことはできない。商品はコーナーによって、次の3種類に分けられる。

1コーナー家庭用商品を買うコーナー。

2コーナー「いじわるコーナー」と銘打ち、便器・墓石いった(当時)値段が全く分からない物を買うコーナー。

3コーナーお宝グッズ(著名人が使った物)を買うコーナー(末期は高級品に変更)。なお途中で獲得合計額が45万円を越えると「パフパフパフ!!」とラッパの音が出て、参加者の参考となる。

キャッシュコーナー

まず出場ペアが前に出て、今までどれくらい買ったかを予想して口答する。

この時、視聴者と観客のみに真の獲得合計額が見せられる。そのため、観客の「ウォーッ!!」とか「エーッ!?」といった歓声も充分参考になる。

その後、目の前に出された「キャッシュケース」(一万円札・五千円札・千円札・五百円札・百円札がそれぞれ10枚ずつ入っている)から、制限時間20秒の間に、代表者は紙幣を好きなだけ取っていく。

終わったら獲得合計額を発表し(ドラムロールと共に坂本がキャッシュを確認して「万円が何枚」という風に金額を言って「合計金額いくら!!」と言う)、獲得合計額が50万円だったら「ピタリ賞」となってくす玉がら割れて大量の紙吹雪・風船・紙テープが舞い、全品物を獲得。495,000円以上50万円未満だったら「スレスレ賞」となり、全品の中から5万円分だけ獲得(後期は1品だけ獲得)。50万円を越えたり495,000円未満だったら失敗、商品は獲得できない。

戦後36年経過して平和な世の中に

1973年(昭和48年)の出来事を振第1次オイルショック、ベトナム和平協定、インフレ・狂乱物価、ピカソが死去、ドバイ日航機ハイジャック事件、ブルース・リーが死去、金大中事件、巨人軍V9の時代である。

世の中は平和で裕福な時代になってきた。

若者文化も新宿から渋谷に移り、もう戦後の世界は忘れさられようとしていた。

終わりに

1938(昭和13)古関裕而は慰問のために中国の戦地に派遣されました。病院のステージで行われた演奏会の締めくくりは、兵士による「露営の歌」の大合唱。「作曲者の古関先生がいます」と紹介され、あいさつをしようとしますが、言葉になりません。自伝「鐘よ鳴り響け」にこう書き残しています。

「多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた」

『露営の歌』の作曲家古関裕而は『露営の歌』が『買ッテ来ルゾト勇マシク』と言うテレビ番組となったのを観てどう思ったのだろうか。日本が平和になったことを喜んだのだろうか。それとも戦時中にこの歌を歌って亡くなった方たちに申し訳ないと思ったのだろうか。

いずれにしても古関裕而は戦後75年、日本は平和で過ごせたことには喜んでもらっているに違いないと思うのです。

 「音楽が戦争を左右する。音楽は軍需品だ」、「宣伝は強制的でなく国民を知らず知らずに戦争にかりたたせる」ことが出来ると軍部は考えていた。

軍はマスメディアに呼びかけ新聞社、国内レコード会社各社は国民の戦意高揚のために軍国歌謡の企画、製作に乗り出し始める。

しかし、レコード会社から見ればそれは「商機」だった。

軍歌ブームに乗ること、時流に乗ることで軍歌のレコードの売上が直接、会社の利益となったからだ。

新聞各社は「懸賞募集軍歌」を行い、レコード会社からは「ぜひうちからレコード化を」という声が上がった。

「露営の歌」も「懸賞募集軍歌」

1937(昭和12)支那事変勃発を受け、東京日々新聞と大阪毎日新聞が合同で「進軍の歌」の歌詞を公募しました。

「進軍の歌」の新聞社による「懸賞募集軍歌」でした。

この募集に対し全国から約2万5000篇の応募がありました。

審査の結果、第一席に選ばれたのは本多信壽さんの歌詞、第二席は藪内喜一郎の歌詞が選ばれます。

一席は当然に「進軍の歌」、二席は審査にあたった、北原白秋と菊池寛が「露営の歌」と名づけられました。

一席は賞金は当時のお金で1000円、現在の価値で言うと200万〜300万円のかなりな金額です。

「露営の歌」は大ヒットとなり約60万枚を販売しています。

日本の人口がまだ7000万人の時代です。現在の人口だと100万枚以上の販売をしたことになります。

ドラマ『エール』コロンブスレコード

NHK連続ドラマ『エール』のコロンブスレコード、廿日市誉(古田新太)はウハウハ喜んで高笑い。

レコード会社に取ってはレコードの売上が最上の使命。

なんだかテレビで廿日市の笑い顔が目に浮かぶようです。

古関裕而はこの「露営の歌」の大ヒットを機に「軍歌の覇王」と呼ばれました。

「軍歌懸賞募集」は終戦間近まで続いた。

各レコード会社はさらなる大ヒットを目指して軍歌のレコード販売を促進させます。

また、新聞社は次々と軍歌懸賞募集を続けます。朝日新聞の募集からは「父よあなたは強かった」、読売新聞からは「空の勇士」などが生まれた。

新聞社もこぞって賞金をアップ1等には軍刀と賞金2,000円も出す懸賞募集もあり、どんどんヒートアップしていきました。メディア間の競争で懸賞金が高騰した結果、いずれも応募が殺到しました。講談社が募集した「出征兵士を送る歌」林伊佐緒作曲の応募は13万篇近くに達したと言われています。終戦間近の1945年夏になっても、全国の新聞などが共同で本土決戦に向けた「国民の軍歌」を募集した。その締め切り日は奇しくも8月15日。過酷な状況にもかかわらず、応募は約1万5000篇に達した。

応募した人は賞金の金額が高いのに魅了されたのはもちろんなのですが、日本に勝利をと言う気持ちは誰でもが持っていたのは間違いないことだと思います。

軍歌懸賞募集の最後の募集曲が「国民の軍歌」となっています。

日中戦争後の異常な兵士の増加

しかし、その反面、日中戦争を契機に国民は次々と赤紙一枚で兵隊にされていきました。

1937 (昭和12)に日中戦争が始まった後,じわじわと軍人の数は増えてい ます。しかし,1941 (昭和16)になるとまた一段と増え,200 万人以上になっ ています。そして,その後もさらに増え続け,敗戦の年は陸軍だけで  600 万人。海軍を合わせると 800 万人を超えています。日本の人口は7000万人ですから国民の約11%が兵士にさせられ約5%320 万人の方がお亡くなりになりました。

何が悪かったのでしょうか。愛国のどこが悪いのでしょうか。なかなか難しい問題です。






1937(昭和12)支那事変勃発を受け、東京日々新聞と大阪毎日新聞が合同で「進軍の歌」の歌詞を公募しました。

審査の結果、第一席に選ばれたのは本多信壽さんの歌詞、第二席は藪内喜一郎の歌詞が選ばれます。

第一席は当然に「進軍の歌」、第二席は審査にあたった、北原白秋と菊池寛が「露営の歌」と名づけられました。

菊池寛いわく、「当選作[進軍の歌]は格調が整つてゐるが、味は佳作第一席[露営の歌]の方にあると思ふ。」 

北原白秋いわく、「「ここはお国を何百里」を今に甦らせ新しい息吹きを与へたものとして、殊に戦地にある勇士によつて愛唱されると信じます。」

「進軍の歌」募集の新聞広告では

章節 歌いやすさを旨とされたし

賞金 入選1篇 1,000

選者 菊池寛、北原白秋、陸軍省新聞班長秦彦三郎

締切 86

用紙 半紙大のものに限る

宛先 東京日々新聞社事業

    大阪毎日新聞社事業

となっていました。

賞金1,000円は現在の価値だと200万〜300万円。

結構な賞金の金額でしたので全国より応募作品が殺到したそうです。

募集の呼びかけに

義によりてひとたび起てば千万人と言えども我ゆかんの名文がありました。

菊池寛、北原白秋の文でしょうか

この義とは何でしょうか

東アジアの大東亜共栄圏、東洋平和のために進軍するのだと言うのです。

文学界の大家2人が歌詞の募集を呼びかけています。

曲は、「進軍の歌」が戸山学校の軍楽隊が当たったのに対し、「露営の歌」は古関裕而に依頼されました。

満洲から呼び戻された古関は、電車の中で新聞に掲載された歌詞をみながら作曲を行ったといわれています。

古関裕而も「東洋平和のためならば……」という思いで作曲したのでした。

当時の軍歌「露営の歌」は決して戦争を続けるために作った歌ではなく平和を願って作曲した歌なのでした。

「進軍の歌」と「露営の歌」は、それぞれA面とB面として音盤化され同年8月にコロムビアから発売。

一等の「進軍の歌」よりも次席の「露営の歌」が流行し、レコードは爆発的な売り上げを記録しました。

半年後に60万以上の売り上げをあげていました。

多くの日本人が「露営の歌」を歌いながら大陸に戦いに旅立ちました。

誰しもが「東洋の平和」を信じて出かけて行きました。

その当時は日中戦争から太平洋戦争となり8年間も日本が戦争をし続け約320万にの方が亡くなるとは日本国民の誰も予想だにしなかった。

日本は「東洋の平和」のために戦い、中国は「自分の国を守る」ために戦い、アメリカは「自由と平和」のために戦った。

アメリカの作家ヘミングウェイ

「往時においては、母国のために死ぬことは心地よく、ふさわしいものであると書かれた。しかし近代戦争では、戦死が心地よく、ふさわしいものは何もない。諸君は犬のように死ぬであろう。」

歴史とは残酷で非情なものです。





人間の心を癒すという音楽の、本来持っている働きがあります。

子供たちは、あの暗黒の時代に、替歌をうたうことで、自分をはげまし、心 をいやしていました。

戦争中の替歌など、低俗で下品で、単純で軟弱で、こんなものは音楽ではない、とおっしゃる人もいることでしょう。

あの時代、子供たちにとって、替歌が唯一の楽しみだったのです。

NHK連続ドラマ『エール』の主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而の戦時中の軍事歌謡の大ヒット曲『露営の歌』も子供たちにとってはかっこうの替歌の材料でした。

子供たちは『露営の歌』を自由に替歌としたのです。

『露営の歌』の替歌

『露営の歌』1937 (昭和12)作詞:藪内喜一郎、作曲:古関裕而

元歌

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって祖国を 出たからは/手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに/まぶたに浮ぶ 旗の波

この元歌を子どもたちはこんな替え歌にしました。

替歌

負けて来るぞと情なく/しょぼしょぼ国を出たからは/手柄などとは、おぼつかない/チャルメ ルラッパ聞くたびに/瞼にチラチラ敵の剣

なんと子供たち勝手くるぞを反対の負けてくるぞにしてしまいました。

大人では考えられないことです。

替歌

負ケテ来ルゾト勇マシク/誓ツテ国ヲ出タカラハ/手柄ナンゾハ知ルモノカ/退却ラツパ聞ク度 /ドンドン逃ゲ出ス勇マシサ

今度は全てを正反対にしました。

勝つ負ける、手柄たのむ らん、進軍ラッパ退却、としておいて、どんどん逃げだす勇ましさとしてしまいます。

軍歌を反対にすると反戦の歌になってしまいました。

子どもたちに深いイミがあったのではなく、あそびはんぶんで反対表現をして、最後に こうまとめたら、大人がドキッとするような、結果として思想的な歌になってしまったのです。

ほんと子供の発想は驚くばかりです。

替歌

勝って来るぞと勇ましく/誓って国を出たからは/手柄たてずに支那料理/進軍ラッパ聞くたび /まぶたに浮かぶ支那料理

歌詞のあるね部分を、ひとつの単語に固定してしまう、という作り方です。

当時の子供たちは、死なりょうかが、支那料理に聞えたらしい。

ぼくは、聞き違いから生れた『支那料 理』なんともナンセンスでおかしい替歌が出来上がりました。

支那料理が食べたかったのかも

終わりに

大人が一生懸命戦っている時に不謹慎と言えば不謹慎です。

ほんと子供と言うものは正直ものと言うか、怖いもの知らず。

将来にわたり5000曲以上を作曲した大作曲家古関裕而さんより子供たちの方が戦争の本質を知っていたようです。

確かに兵士が進軍ラッパを聞くたびに逃げだしていたら戦争にならないですものね。

こんないかにも大人が聞いたら怒りそうな軍歌の替歌が子供たちの中では歌われていたのは驚きです。

満洲事変以降の「時局歌謡」

日本のレコード産業は、1930年代に群雄割拠の戦国時代を迎えていた。ビクター、コロムビア、ポリドール、キング、テイチクなどのレーベルが出揃い、ヒット曲を送り出そうと切磋琢磨していた。

話題のテーマはたちまちレコードのネタに採用された。 

1931(昭和6)9月に勃発した満洲事変とて例外ではなかった。

レコード会社はその進展にあわせて、時局的な音楽をつぎつぎにリリースした。

エロ・グロ・ナンセンスを歌った「エロ歌謡」も、軍事衝突を歌った「時局歌謡」も、大衆の需要に応じた商品だったという点では、地続きだった。

1937(昭和12)77日盧溝橋事件から日中戦争に突入。

「露営の歌」の制作

日中戦争勃発を受けて毎日新聞(当時は大阪毎日新聞と東京日日新聞)の企画で「露営の歌」の歌詞が新聞で応募された。

その頃、古関裕而は義兄を訪ねて満州(現中国東北部)を旅行し、日露戦争の激戦地の旅順も歩いた。

砲弾の痕も生々しく、実際の戦場を知らなかった彼は戦闘の悲惨さに心を揺さぶられた。

日本コロムビアから「急ぎの作曲の仕事あり。特急で会社へ」との電報が届いた。

下船して東京に向かう途中、新聞でたまたま見かけたのが、「露営の歌」の歌詞。

薮内喜一郎さんの作品

「勝って来るぞと 勇ましく

ちかって故郷を 出たからは

手柄たてずに 死なりょうか」

だった。

列車に揺られながら、古戦場の光景、それに駅で目にした出征兵士を送る様子が重なり、メロディーがすっと浮かんだ。

作曲依頼もないのに曲を作り終えていた。

急遽帰国した彼にコロンビアの担当が毎日新聞の公募作品「露営の歌」の作曲依頼をすると

古関裕而は

「それならもうできていますよ」

と楽譜を差し出したという。

なんともスピーディー過ぎる話しです。


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「露営の歌」はB面であったにもかかわらず、A面の「進軍の歌」をしのぐ人気を得て、当時としては異例の60万枚以上のレコード販売となり、当時の有名な歌謡曲となった。

「露営の歌」のアレンジ版

今では戦争中の歌謡というと「政府や軍部に無理やり作らされ、歌わされたもの」というイメージが根強いがレコード会社、新聞社が営利を求めて企画を立て、作詞家、作曲家などが音楽を作り、そして大衆が娯楽を求めて歌を広めていったのが真実である。

日本コロンビアは「露営の歌」の大ヒットにともない児童合唱団が歌った「少年軍歌:露営の歌」、芸者出身の歌手などが歌った「流行歌:露営の歌」など、さまざまなアレンジ版が作られた。

「続露営の歌」は、その名のとおり「露営の歌」の第二弾を狙ったものである。作曲者の古関裕而によれば「大したヒットにはならなかった」ようだが、レコード会社のたくましい商魂がうかがえます。

軍歌のない平和な国を…

軍歌だからと言って必ずしも軍の命令で無理矢理作らされたり歌わさせたりしたことはないのです。

日本国民が自分の国を守るために戦ったのは間違いない真実なのです。

しかし、多くの方々が戦争でなくなったのも紛れもない真実です。

古関裕而さんも

「多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた」

と述べています。

太平洋戦争のような出来事がないことをまた、日本はいつまでも軍歌のない平和な国であって欲しいと願ってやまないのです。


   

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