ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 渋谷より子      淡谷のり子

星の流れに 身を占って

どこをねぐらの 今日の宿

(すさ)む心で いるのじゃないが

泣けて涙も 枯れはてた

こんな女に 誰がした♪

「星の流れに」をYouTube藤圭子で聴いていた。

藤圭子のハスキーな声を際立たせる細やかなヴァイブレーション、それを可能にする天性のリズム感、テクニックに頼るのではなく魂そのものを、歌詞とともにぶつけるような歌唱法はブルース・シンガーのものだ。

最後の「こんな女に誰がした」というクールに突き放したフレーズには、怨み、恨み、嘆き、諦め、それらのすべてが入り混っていて、しかも儚い、やはり藤圭子の歌は怨歌である。

昭和の安保時代の怨念を全て背負った歌になっていると思った。

藤圭子のカヴァーは持ち歌よりもいいのかも知れない。

昭和で次々とカヴァーされた名曲「星の流れに」

この名曲「星の流れに」は青江三奈、石川さゆり、高橋真梨子、ちあきなおみ、八代亜紀、美空ひばり、美輪明宏など、歌が上手いとされる一流歌手たちに、「星の流れに」は次々にカヴァーされてきた。

誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。

歌を聞いても戦後の苦しかった時代の歌だとは誰も思わない。

しかし、この名曲が出来たのは戦後直ぐのことでした。

「星の流れに」はパンパン(街娼)の歌だった。

終戦から二年後の1947年、満州で両親を失って命からがら引き揚げてきた若い女性の悲痛な体験が、東京日日新聞に掲載された。

一人として身よりも知り合いもいない東京で、飢餓から逃れて生きていくためには、従軍看護婦の仕事から街娼に身を落とさざるを得なかったという、身の上を綴った内容だった。

その投書を読んだ作詞家の清水みのるは激しい憤りを感じながら、夜を徹して一編の歌詞を書きあげている。

その歌詞を受け取った作曲家の利根一郎は、身寄りをなくして地下道で生活する浮浪児たちがいる上野に足を運び、ガード下で進駐軍を相手に売春する街娼や、その横で靴磨きをして働いている幼い子どもたちの姿を目に焼き付けた。

言葉を発することも出来ず、社会の底辺で苦しむ人たちに代わって、利根一郎も渾身の思いを込めて曲を完成させた。

街娼に見を落とした女性の諦めを歌うことで、戦争がもたらす酷さを間接的に描いた反戦歌がこうして誕生した。

悲哀のなかに社会の不条理を訴えたメッセージ・ソングであり、弱者の叫びから生まれた日本人のブルースであった。

■GHQの意向でタイトルは「星の流れに」

最初のタイトルは「こんな女に誰がした」というもので、そこには強い怒りが打ち出されていたのだが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがついた。

そこでタイトルを「星の流れに」へ変更し、レコード発売の許可がおりたという。

「星の流れに」の歌手は淡谷のり子になる予定だった。

レコード会社はこの曲を淡谷のり子に歌わせようと考えていたが、パンパン(街娼)の嘆きという内容に抵抗を感じるという理由で、彼女には拒否された。

「パンパンに転落したのを、他人のせいにしてフテくされることはないじゃないの。自分が弱いからそうなったのよ」という淡谷のり子の主張は、戦争の修羅場をくぐって命がけで歌ってきた人の正論だった。

淡谷のり子が唄った「別れのブルース」がヒットし、ブルースの女王と呼ばれるようになったのは、日中戦争が勃発した1937年である。

そこから日本は戦争へと一気に加速していった。

戦時中は日本軍の慰問団の一員として唄っていた淡谷のり子だったが、「贅沢は敵だ」というスローガンのもとでは敵国の文化の象徴だった、洋装のドレスで歌うことなど許されなかった。

しかし淡谷のり子はいつもドレスに身を包み、入念なメイクを施して舞台に立った。

そのことを軍からどんなに咎められても、「化粧やドレスは歌手にとって、贅沢ではなく戦闘服です」と主張を曲げないで通してきたのだ。

命令に従わないことに怒った憲兵から、抜いた剣を突きつけられたことも度々だった。

そのことを軍からどんなに咎められても、「化粧やドレスは歌手にとって、贅沢ではなく戦闘服です」と主張を曲げないで通してきたのだ。

命令に従わないことに怒った憲兵から、抜いた剣を突きつけられたことも度々だった。

「殺しなさいよ」って言ったの。「何になるの。私が死んだって、殺されたって、戦争に勝てますか」って言ったの。

歌に命をかける淡谷のり子の逞しさと凄みが、いやでも伝わってくるエピソードである。

「星の流れに」は歌手菊池章子によってヒット

結局、新人の菊池章子によって歌われた「星の流れに」は歌のテーマにとり上げられた街娼の女性たちに強く支持されて、発売の翌年になってから火がついて、映画『肉体の門』にも使われてヒットにつながった。

終わりに

戦後75年が経過しても名曲「星の流れに」は歌われ続けていくのであろう。

歌は世に連れ、世は歌に連れ

歌は時代によって伝わり方や感じ方が随分かわって聞こえるものである。






窓をあければ 港が見える

メリケン波止場の 灯が見える

夜風汐風 恋風乗せて

今日の出船は 何処へ行く

むせぶ心よ はかない恋よ

踊るブルースの 切なさよ♪

昭和12年(1937年)の「別れのブルース」淡谷のり子のヒット曲です。

同じ年、NHK連続ドラマ主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而は「露営の歌」としてレコード化し、大ヒットしています。

勝って来るぞと 勇ましく

ちかって故郷を 出たからは

手柄たてずに 死なりょうか♪

なんと同じ年のヒット曲なのにどうしてこんなに違うものなんでしょうか。

そして、淡谷のり子の「別れのブルース」は翌年昭和13年販売禁止となっています。

1937年(昭和12年)から日本は中国との全面戦争となり、もはや軍歌以外の歌謡曲を受け入れる余裕がなくなっていたのです。

しかし、兵隊たちの多くも聞きたかった歌は軍歌以上に庶民に愛されてきた歌謡曲の方だったようです。

淡谷のり子

『あのね、「別れのブルース」は最初国内ではあんまり売れなかったのよ。

ところが発売翌年の昭和13年(1938年)の暮れころからどんどん売れてきたんですよ。

それも満州の兵隊さんからなの。

それが大阪から東京へと(広まって)いって、トップをきっていったけれども、次の年の昭和14年に発売禁止になったの絶対に歌ってはいけないと。

センチメンタルだからだって、国民を鼓舞するような歌でなくてはダメだって。

あの頃はよく兵隊さんの慰問に外地に行って歌ったの。

確かあれは上海だったかしら東京の部隊だったのね。

都会的な歌をたくさんリクエストされたあと「もう一つどうしても歌ってくれ」と言われたの。

それが「別れのブルース」だったのよ。

問題の歌だったので、少しためらったけれど明日がわからない兵隊さんでしょ、だから私歌ったのよ。

そのとき歌い始めてひょっと見たら、憲兵さんと将校さんがホールから出ていったのよ。出ていってくれたの。

そして、ひとつへだてた中庭の向こう側からこちらをのぞき見るように聴きながら泣いていているじゃないのそういうことがあったの。』

徹子の部屋〜戦後60年、終戦記念日特番〜(テレビ朝日)より

日本で初めてのモデルは誰だかわかりますか?

日本では古くからファッションショーはあったみたいですが、ファッションモデルと呼ばれる人はいなかったようです。

初めてのファッションショー

1927年(昭和2年)921日、日本で初めてのファッションショーが行われました。

場所は東京・日本橋の三越呉服店、現在の『三越本店』です。

オープンしたばかりの『三越ホール』、現在の『三越劇場』のイベントとして開催されたものだったそうです。

まだファッションモデルという職業はなかったそうで、初代・水谷八重子さんを始めとした、女優さんがモデルを務められたそうです。

その時の衣装ですが、お洋服ではなく、全て新作のお着物で、ウォーキングではなく、日本舞踊を披露したそうです。


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初代水谷八重子


1930年(昭和5年)には『上野松坂屋』、1934年(昭和9年)には『資生堂』がファッションショーを開催しました。

日本の女性もだんだんファッションに興味を持つ方が増えてきたのではす。

日本でのファッションモデルの始まりは、いつ頃だったのでしょうか?

戦後の1951年(昭和26年)、毎日新聞社の雑誌がモデルさんを募集したのが、始まりだとされているそうです。

2,000人もの応募があったそうで、その中から20人の方々が選ばれ、『毎日ファッション・ガール』と呼ばれていたそうです。

この『毎日ファッション・ガール』の一人に、伊東絹子(いとう・きぬこ)さんという方がいらっしゃいます。

伊東絹子さんは1953年、19歳の時、アメリカで開催された『ミス・ユニバース・コンテスト』の日本代表として選ばれ、見事、3位に入賞されました。


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伊藤絹子

伊東絹子さんは八頭身のとても素晴らしいスタイルをされていて、当時日本の女性の体形が国際水準に近づいた!と話題になったそうです。

と書いて行くとファッションモデルの初めての人は伊藤絹子さんのように思えます。

ただ彼女は戦後になります。

日本初のモデルは淡谷のり子

それよりもずっと前にモデルをされていた方がいます。

それは淡谷のり子さんです。


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淡谷のり子


昭和初期から活躍し、「ブルースの女王」と言われ、晩年はモノマネ番組の審査員もされておりました淡谷のり子さんは、日本初のヌードモデルとされています。

江戸時代までにも、裸絵のモデルになっていた人は沢山いたので、厳密に言えば初ではないと思われますが、それを職業とした人で記録に残るのは、彼女が初なのです。

ヌードモデルと言えば暗いイメージがありますが、写真のモデルではなく、美術学校や画家のアトリエでのモデルでした。

1926(大正15)月給150円。

会社員や教員の平均月給が73円だったのでかなりの高給だったようです。

ブルースの女王淡谷のり子さんは若い時にはスタイルの良いモデルをしていたのには驚きますね。

昭和初期から歌謡界で活躍し、日本で初めて流行らせた「別れのブルース」、「雨のブルース」などの和製ブルースを唄って「ブルースの女王」とも称された淡谷のり子女史。

青森県出身の彼女が故郷でリサイタルを開催したときである。

当時、東京―青森間の長距離電話は雑音が入り、聞き取りにくい。

東京の担当者は、会場に掲示する垂れ幕に「ブルースの女王、淡谷のり子来たる」と書くように伝えた。

当時田舎ではブルースと言っても何のことかよく分からなかったと思う。

女性の下着、ズロースが少しずつ普及し始めた時期だった。

青森側の主催担当者は思い込みで垂れ幕を「ズロースの女王、淡谷のり子来たる」としてしまったのです。

故郷に凱旋し意気揚々と会場に到着した淡谷のり子。

垂れ幕が「ズロースの女王淡谷のり子来る」となってるではないですか。

流石の淡谷のり子先生もその垂れ幕を見て大激怒。

「ズロース」は、英語の「drawers ドロワーズ」が訛ったもので、腰から大腿部を覆うゆるやかな半ズボン状の下穿きのことです。

最近では死語になったのか、殆ど耳にしません。

それにしても誇り高い「ブルースの女王」淡谷のり子先生を「ズロースの女王」とは、全く失礼にもほどがあります。

昭和の笑える話しとして淡谷のり子の「ズロースの女王」の事件は結構受けていたような気がします。



今日も淡谷のり子先生若かりし頃、東洋音楽大学の学生のモデルの時の話しと幽霊との話しをします。

暑い日に幽霊の話しを聞いて少しでも涼しくなって下さい。

では

淡谷のり子とモデルと恋愛

淡谷のり子は東洋音楽大学、予科二年の終わりに生活苦のため休学していた。

母親の仕立物の賃仕事では到底生活をやっていけない。

しかも、妹とし子の眼疾の悪化は姉の心を痛めた。

そこで、淡谷は画家のモデルのアルバイトをやることにした。

上野の桜木町にあった宮崎モデル紹介所に足を運んだ。

淡谷のり子は「霧島のぶ」(通称おのぶ)という名前で「裸体デッサン」のモデルとなった生活のために芸術の賛助という意識で割り切りモデルの仕事をこなした。

その頃画家の田口省吾と恋愛となっている。

田口省吾に結婚の意志がポツポツ芽生えはじめたのもこの頃であった。淡谷のり子にはモデル代と称して十分すぎるお金を渡してくれていた。

相変わらず、ドレスや靴やハンドバッグを次々に買い与え、コンサートやオペラには欠かさず連れて行ってくれた。

破局は、すぐにやってきた。1928(昭和3)秋のある日、アトリエでポーズをとる淡谷のり子に田口省吾は突然襲いかかった、ら

この日を境に、田口のアトリエへ彼女が姿を見せることは二度となかった。

淡谷のり子がアトリエに通うのを拒絶してから、田口省吾は自殺未遂事件を起こしている。

淡谷のり子『幽霊ブルース2

淡谷のり子

『どろぼうかなと思って目を据えて見ると、蚊帳の周りを誰かが歩いている。そして人の動く箇所だけ、蚊帳が動いている。泥坊が忍び足で歩くのとはまた違った、いかにも力なく歩く様子だ。私の目に、麻みたいな白い飛白(かすり)に黒い兵児帯を〆めた男の姿が映った。/彼はグルッと周って私の枕許へ坐り、私を見下している。私はその男の顔を見て驚いた。彼はかつて私と結婚の約束までした画家である。/苦学生時代、私はモデルをしたことがあって、そのときの画家の一人に、一方ならぬ御世話になった。勉学の意志が挫けそうになると、彼は精神的、物質的に励ましてくださった。その彼が私に求婚したのだ。あまりに心から求められるので「そうですね」と生返事ながら承諾を与えたので、彼が当てにしたのも無理もない。

その彼が、今、枕許に坐って私を見つめ、そして、両手で私の首をしめようとする。しかし私には声がでない。彼は手に力を入れてグーッグーッとしめつけてくる。それが蚊帳の外からかどうかは意識にないが、蚊帳がうるさく私の顔をなでまわしていた。私は気が遠くなった。/「のりちゃん! のりちゃん! どうしたの、苦しそうにうなってるわ」/マネージャーの彼女が私をゆり起こした。/「何うなっているの?」/「私、殺されそうなの、こわいわ」/「馬鹿な! あなた夢見てるのよ」/ガタガタふるえ出した私は、どうしても寝つかれなくなってしまった。夜が明ければよい、それだけを願った。』

彼女の枕もとには、1冊のサイン帖が置かれていた。昨夜、宿の女将が「サインをお願いします」と預けていったものだ。翌朝、何気なくサイン帖をめくって、淡谷のり子は愕然とした。田口省吾のサインがあったからだ。さっそく、宿の女将に事情を訊いてみると、この離れ座敷は田口省吾のお気に入りで、ときに1ヶ月も滞在して作品の制作をつづけることがあったという。宿にも、彼の作品が何点か残されていた。

彼が馴染みだった旅館の離れに泊まったせいか、あるいは署名したサイン帖を枕もとに置いていたせいかは不明だが、彼女は自分のまわりをさまよう霊を慰めるために、田口省吾のサインの横へ寄り添うように「淡谷のり子」と書いている。

淡谷のり子

『翌朝、女中さんが、サインをしてくれましたかというのです。

何のことかと思ったら、その部屋のちがい棚にサイン帳があるんです。

ふとめくったら、その人の名まえが書いてあったので、ゾッとしました。

聞いたら、亡くなるちょっと前まで、その部屋にいたんですって。

サイン帳は、その人がなくなってから、こしらえたものだったそうです。

その人は絵かきさんで、私がモデルをしていたころ、ぜひ結婚してほしいといわれていたの。

私が裏切ったんです。恨んで、出てきたんでしょうね。』




  

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