ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > お菓子・飲み物

NHK連続ドラマ『エール』福島の実家へ鉄男を連れて帰った裕一は、なぜか先に家に居た佐藤久志に驚きました。古山裕一の行くところ久志あり、不思議です。

そんな久志は、裕一の母親のまさに抜かりなくどら焼きの手土産を持参しました。

どら焼きのお土産は大きな箱ですね。

佐藤久志

「ここのどら焼きあんこがとてもおいしいんです」

どこのどら焼きでしょうか。

昭和の初期のどら焼きと言えば上野の「うさぎや」が真っ先に思い浮かびます。大正2年創業で、100年以上の歴史を持つ老舗の店です。餡のみずみずしさやすっきりとした甘み、皮の柔らか過ぎないふんわり感など、素朴ながら全てのあんばいが丁度良いのです。

たぶん「うさぎや」のどら焼きではないかと思いまはす。

池波正太郎の「うさぎや」のどら焼きの話

作家、池波正太郎の「うさぎや」のどら焼きでその当時の面白い話しがあります。

少年の頃から勤めていた店の主人が、池波正太郎の家に近い「うさぎや」にどらやきを帰りがけに買って来いと頼むことが毎月に二回ほどあったそうです。翌日、主人のところにそれを持って行くと、その中から二個を半紙に包んで、ご褒美にくれたとのことでした。

戦争がひどくなると砂糖が統制されると、「うさぎや」のどらやきも一日に販売出来る数に制限があり、早朝から行列に並んで買いに行ったらしいです。戦時中のどらやきは、とても貴重なものでした。大人になってからも遣いに行った池波正太郎は、褒美をくれるのを惜しそうにする主人の顔を見たさに、毎回どらやき二個をもらっていたというのです。

戦争中はスイーツが手に入り難い

1937年(昭和12年)に盧溝橋事件による日中戦争開始をきっかけに日本は経済を本格的に引き締め始め、物の生産、流通、消費などの経済活動において、軍による需要が優先されるようになりました。

また、時が経つにつれて、戦争が日本にとって不利になってきたことにより、物が不足するようになってきました。

この動きにスイーツも影響を受けました。

政府は、軍による利用を優先させるために、物の生産、流通、消費などを制限する政策を相次いで打ち出しました。

盧溝橋事件と同じ年の1937年輸出入品等臨時措置法が施行され、輸出入の制限を行い、それを通じて物の生産、流通、消費などを制限する幅広い権限が政府に与えられました。

その翌年である1938年(昭和13年)、国家総動員法が施行され、人、物を、戦争遂行のために総動員することを目的に、物の流れ、貿易、価格など、経済のあらゆる分野をコントロールする権限を政府が持つようになりました。

菓子の主原料である砂糖と小麦を例にとると、193710月に設置され、経済分野のコントロールに中心的な役割を果たしてきた企画院の主導の下、1940年(昭和15年)5月になされた閣議決定「消費規正に関する件」に基づき、翌月から配給制が導入されました。

古関裕而「暁に祈る」映画が封切られたのが1940(昭和15)です。

戦時中のどら焼きが貴重で手に入らない中、佐藤久志はお土産にどら焼きを持参するとは流石はプリンス久志です。



NHK連続ドラマ『エール』喫茶バンブーで何話だか忘れたけれど、店主梶取保(野間口徹)の妻恵(仲里依紗)が音(二階堂ふみ)に「何飲む?」と聞くと「ソーダ水」と音。スーツっとソーダ水が差し出されてきた場面があった。

えっソーダ水?

昭和の初めにあったの?

戦後の飲み物ではないのか?なぜか不思議と気になってしまったのでソーダ水について調べてみました。


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ソーダ水と炭酸水

ソーダ水は、クエン酸と重曹で作ったもの。ちなみに炭酸水は、天然でとれるものか純粋に炭酸を加えたものです。

日本初のソーダ水は資生堂パーラー

なんとソーダ水は明治時代にすでに販売されていました。

資生堂パーラーは1902年(明治35年)東京銀座の資生堂薬局内に「ソーダファウンテン」として誕生しました。

日本初のソーダ水や当時はまだ珍しかったアイスクリームを販売してたちまち名物になったということです。クリームソーダも販売されていました。

1928年(昭和3年)から本格的にレストランを開業、西洋料理の草分けとして、また銀座のシンボルとして芸術家や文化人をはじめとする多くのお客さまをお迎えして、現在に至っております。

なんと日本で最初のソーダ水の販売は資生堂パーラーでした。

昔の文献には

【喫茶店では、第一に資生堂を挙げねばならない。ここは日本におけるソーダを水の元祖で事 実うまい。...ユーロツプは中部ヨーロツパ人らしい二十七八の女が帳場をやつてゐた。...有名な ウーロン茶の台湾喫茶店は始めて女給を置いたところだが、震災後は店先の一部をみのやに貸し てゐる有様で、昔日の俤はない。『モナミ』の建物は銀座で一番最初に出来たスパニッシュ。モ ダンボーイ・ガールの根城のやうな観がある。...『千疋屋』は果物やだけにフルーツは新鮮でう まいので有名だ。『ソーダ水十銭』の看板に、女子供も容易く這入れる。】

なんと昭和の初めには現在とほとんど変わらない喫茶店があったようです。

喫茶店バンブーは梶取保(野間口徹)と妻恵(仲里依紗)の名コンビ、家庭的な喫茶店、注文すれば何でも出てきそうな魔法のお店ですね。

NHK連続ドラマ『エール』ではコロナのため627日でドラマ中段し、最初の場面からの再放送となってます。

コロンブスの新人歌手オーディションで最後はおおいに盛り上がっていたのに残念ですね。

今日は喫茶店バンブー店主梶取保(野間口徹)と妻恵(仲里依紗)と古山家の人々との憩いの場所、喫茶店とコーヒーに関してのお話しです。

時代は昭和10年頃、その頃は憩いの場所が東京のあちこちにあり、現在のように落ち着ける場所の提供をしていました。

さて、あの独特なコーヒーの味が日本に根付くようになったのか、喫茶店がどんなふうに親しまれるようになったのかみをていきたいと思います。

日本におけるコーヒーと喫茶店の歴史

日本にコーヒーが伝来したのは今から約500年前の江戸時代、徳川綱吉の頃、長崎の出島に於いてオランダ人がコーヒーを振る舞ってくれたのが最初だと言われています。

1804(文化1)は、日本人自身の手によるわが国最初のコーヒー飲用体験記が大田蜀山人により記されています。

「紅毛船にてカウヒイ"というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくて味ふるに堪えず」(瓊浦又綴)

当時の日本人の嗜好にはなじまなかったようです。

その後、長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになります。

1877(慶応2)には輸入関税が決定しコーヒーが正式に輸入されるようになります。

1876(明治9)写真家の下岡蓮杖が浅草に『油絵茶屋」、1874(明治7)神戸元町「放香堂」、1886(明治19)東京日本橋「洗愁亭」にてコーヒーが提供されるようになってきます。

1888(明治21)東京に日本で最初のコーヒーのお店「可否茶館」がオープン。

1891(明治24)年、文筆家・石井研堂が自著『明治事物起源』の中で、東京・神田の氷屋で「氷コーヒー」というメニューがあることを紹介しています。アイスコーヒーも既にこの頃には販売されています。

明治の終わりごろになり、日本に喫茶店の文化が根付いて来ます。

銀座にカフェパウリスタやカフェプランタンなどの喫茶店が次々とオープンしていき、オシャレに関心が高い人や、芸術家などが集まる人気スポットとりました。

カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として人気がありましな。

カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」としてまた、この頃、暖めた牛乳を提供する「ミルクボーイ」も登場し、学生などに人気を博しました。

1935(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続け、サービスや提供形態の多様化が進みました。

銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着したのです。

日中戦争が勃発。戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938(昭和13年)には輸入制限が始まりました。

1939年第二次世界大戦が始まると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していきました。

そのような中でも大豆や百合根を原料とし代用品をもちいて細々と経営を続ける店も見られました。

また喫茶店から別の業種へ転向した店も多く見られ、「千疋屋」「ウエスト」「コロンバン」「中村屋」などはその転向が成功して現在に至っています。

喫茶バンブーはどうなるの?

NHK連続ドラマ『エール』は戦争の話しもあまりないまま中段となりました。

古山裕一モデルの古関裕而が露営の歌を作曲するちょうど直前の時代でドラマは中段。

喫茶店も日中戦争頃はコーヒーが輸入禁止となり、営業が困難になるはずです。

さあて、今後、喫茶バンブーはどうなるのか?なんだか心配ではあります。



NHK連続ドラマ『エール』の喫茶店バンブー店主梶取保(野間口徹)と妻恵(仲里依紗)と古山家の人々とのシーンが面白い。なんだろう、この軽快な心地の良さは。ドラマで喫茶店のシーンになると気持ちが落ち着きます。

喫茶バンブーは不思議な喫茶店。次々とコーヒー等の飲み物、スイーツがなにげなく出てきます。


ドラマを観てると、ほんとさりげなく、品を変え手を変え登場してぎす。

マスターの保さん、注文されるとなんでも作ってだしてくれます。

ドラマの現在の年代は昭和11年頃です。

ついドラマは現代って、つい思ってしまいます。

古山家の華ちゃんが喫茶バンブーで美味しそうに食べています。


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あれ、これなに?

みょうに気になりました。

入れ物の形からして、黒っぽい色からして

コーヒーゼリー?

でも、コーヒーゼリーって昭和の初めにありました?

コーヒーゼリーの歴史

コーヒーゼリーはコーヒーとゼラチンがあれば作れるスイーツです。

1817年にはイギリスの料理本てレシピが紹介されています。

1896年にはアメリカでは「The Boston cooking schoo」の料理本にレシピが掲載されたりもしました。

1907(大正3)43日、日本では読売新聞家庭欄にてレシピが紹介されています。

コーヒーゼリーはかなり昔から日本にもあったようです。

日本では1963(昭和38)ミカドコーヒーが軽井沢店で「食べるコーヒー」として売り出し、大人気となりました。

1970年代頃には一般的にスーパーで販売されるようになったと言われています。

昔からあるコーヒーゼリーですが、世界では現在は作らていないようです。今では日本のみで食べられる限定スイーツになっています。

それにしても古山家の華ちゃんは可愛いいですね。

喫茶バンブーのマスター保さんを

「保(たもつ)

と呼びすてです。

(二階堂ふみ)に「呼び捨てはいかんよ」とたしなめられますが、平気。

マスターの保さんも気にせず、嬉しそうです。

なんだかこの空気感いいですよね。

NHK連続ドラマ『エール』では双浦環のパリの回想シーンになっていました。双浦環(柴咲コウ)と恋人今村嗣人(金子ノブアキ)2人のドラマ。


うむ、まてよ双浦環は三浦環のことではないの?三浦環は既婚者のはず、さては不倫の話なのかとへんに疑ってしまいました。


パリのレストランが出て来ました。レストラン「マキシム」(Maxim's)。パリの8区マドレーヌ地区、ロワイヤル通り3番地に今もあるレストランです。189347日に設立された。パリでもっとも有名な建物のひとつです。


今日は環と嗣人の恋愛の話しはさておき、美味しいお菓子タルト・タタンのお話しです。


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タルト・タタン


レストラン「マキシム」の名物にタルト・タタンがあります。


タルトタタンはりんごの甘酢っぱい味が忘れられない美味しいお菓子。


タルト・タタンが最初に作られたのは、19世紀後半のフランスのラモットにあるタタンホテルにおいてでした。


ステファニーとカロリーヌのタタン姉妹が経営していたホテルのある日の出来事でした。


調理の担当者ステファニーが伝統的なアップルを作り始めたが、リンゴをバターと砂糖で炒めていたところ、長く炒めすぎてしまった。


焦げるような匂いがしてきたので、ステファニーは失敗を何とか取り返そうと、リンゴの入ったフライパンの上にタルト生地をのせ、そのままフライパンごとオーブンた。


焼けた頃にフライパンを出してひっくり返してみると、おいしいデザートができあがっていた。


ステファニーはオーブンから温かいままかつてない一品をホテルの客に出し、新たな伝統菓子が誕生したのでした。


なんと失敗から生まれたお菓子がタルト・タタンだったのです。


タルト・タタンはホテル・タタンの看板菓子となり、ソローニュ地域に広まりました。


レストラン経営者ルイ・ヴォーダブルはソローニュへ来てタルト・タタンを食べ、彼の超高級レストラン「マキシム」のメニューに加えたため、タルト・タタンは世界に広まることとなったそうです。


なんでも、やってみるものですね。失敗から出来たお菓子が今では全世界で食べられているタルト・タタンなのでした。


「失敗は成功のもと」の典型的な例ですね。

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