ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 村野鉄男 中村蒼 野村俊夫

NHK連続ドラマ『エール』主人公・古山裕一(窪田さん)の幼なじみ・村野鉄男役で出演している中村蒼さん。

「東京恋物語」では、鉄男のはかなく切ない恋が描かれました。

鉄男は東京にいると聞き、捜してきた元恋人の希穂子(入山法子さん)と、音(二階堂ふみさん)が働くカフェーで再会するも、冷たい態度をとられてしまう……

福島の料亭で出会い、かつて一緒に暮らしていた希穂子を、今も思い続けるいちずな鉄男を演じた中村さんは、「鉄男と希穂子が福島で暮らしていた頃の回想シーンはすごく幸せそうですよね。その後、2人が別れてしまったことを知りながら演じていたので、その分余計に切なくなりました」と振り返っています。

ほんとに鉄男と希穂子の恋。成就してくれたらなと心から思いました。

別れ際の希穂子の背中がやけに可哀想でした。

村野鉄男モデルは作詞家野村俊夫。

実際、彼女はどうなったのでしょうか。

ここに興味深い話があります。


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郡山市の詩人内海久二さん、野村や古関裕而との交流も深い人からの話です。

内海久ニさん

《昭和四十一年私は原稿料が入ったので、西日本に旅に出ました。熱海温泉に泊まろうとしたところ、当時は観光とか新婚旅行のメッカとなっていまして、どこも満員だったのです。そこで困ってしまいましたが、タクシーの運転手さんが、「網代温泉ならあるかもしれません。」というので、網代に行きましたが、どこも満員で、仕方なく運転手さんはある小料理屋を探してくれました。 そこには五十五歳くらいの女将さんがいまして、「お客さん、福島の方ですか?」というのです。方言で分かるのですね。私は「郡山です」といいましたら、「つかぬ事をお聞きしますが、野村俊夫さんを知っていますか」というのです。私は「知っていますよ」というと、その方はスーと裏の方に行ってしまったのです。そこで私は思いだしたのです。昔、三浦通庸さんは写真が好きで、「野村のやつが民友新聞を辞めて、東京に行く時、馴染みの芸者と一緒に撮った写真がある」といっていまして、その写真はもうセピア色になって、駅前の佐藤時計屋さんの家にありました。その写真の芸者の顔とその女将さんの顔がだぶって見えました。不思議な縁ですね》

芸者、希穂子さんは網代温泉の小料理屋の女将になっていたんです。

まあ、でも彼女もいろいろんなことがあったのかも知れませんが網代の小料理屋の女将をされていたとは、でも元気で生きてこられて良かったなと思いました。

内海久ニさん

《その時は野村さんが存命中だったので、帰りに先生の住まいの池上に寄り、この話をして冷やかそうと思いました。その後私は旅を続け、城崎温泉まで行き、宿泊後の翌日の新聞を見たところ、先生の訃報記事が載っていました。》

野村俊夫1966(昭和41)1027日にお亡くなりになっています。

今日はNHK連続ドラマ『エール』裕一の友人の村野鉄男(中村蒼)モデル作詞家野村俊夫のヒット曲「東京だよお母さん」のお話なしをします。


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「東京だよお母さん」は1957年(昭和32)発表、作詞・野村俊夫、作曲・船村徹。島倉千代子が歌い、発売当初60万枚の売り上げを記録した大ヒット作です。

島倉千代子の情感のこもった歌声に、お母さんと娘さんが一緒に東京見物をする、優しい気持ちが伝わってきていい歌だなと思っていました。

「東京だよお母さん」

        歌詞

1.久しぶりに手を引いて 親子で歩けるうれしさに 小さいころが浮かんできますよ おっかさん ここが ここが 二重橋 記念の写真を撮りましようね

2.やさしかった兄さんが田舎の話を聞きたいと 桜の下でさぞかし待つだろう おっかさん あれが あれが九段坂 会ったら泣くでしょ兄さんも

3.さあさ着いた着きました 達者で長生きするように お参りしましよう 観音様ですおっかさん ここが ここが浅草よ お祭りみたいににぎやかね

ただ、これは戦後生まれの私が感じたことであって戦前生まれの人たちは全く違って感じていたのです。

実は我が子を想う母の歌だったんです。

戦前生まれの人と戦争を知らない世代と歌の感じかたがこうも違うのかと驚きました。

野村俊夫の「東京だよお母さん」の歌にこめられた想いは以下の通りです。

戦争で子供を失った田舎の母親が東京に出てきて母の行きたいところを案内します。

母の行きたい場所は二重橋、靖国、浅草の三つです。

そうです母の戦争で亡くなった兄への想いが消えないのです。母は戦争の記憶と深く結びついた場所をお参りする。

そういう歌だった。

母と娘は二重橋に行って並んで写真は撮ってはいるけれども、しかし息子が、兄さんが亡くなったことで、本当に心はなぐさめられてはいない。

それで九段に行きます。

息子が、兄が英霊として祀られている九段に行きます。それでもなおそのお母さんの哀しみは癒されません。

最後は浅草の観音様にお参りする。

親娘の姿がこの歌には実によくうたわれています。

戦死した兄が眠る靖国神社を詣でる情景が描かれた歌詞はガダルカナル島で戦死した野村の弟鈴木忠治郎(五男・福商昭和10年卒)を悼む歌詞でもあったと言われています。

この歌が作られた昭和32年は、まだまだ戦争の傷痕があちこちに残っていました。

戦後10年以上経ちましたが、多くの戦前生まれの人達の戦争の傷は癒されることなく残っていました。

野村俊夫の作詞した「東京だよお母さん」はその当時の人の共感を得て大ヒットとなったのです。

古関裕而や野村俊夫の生きた時代は「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」と日本は戦争にあけくれていた時代でした。

古関裕而を語るには戦争を避けて通れませんし、彼自身が戦時中には多くの軍歌を作った事実は避けて通れないのです。

NHK連続ドラマ『エール』のドラマでは今のところ戦争にかかわる話はほとんどでていません。

NHKが公共放送局たらんとするならば、ドラマがフィクションであろうが、ドラマが古関裕而の生きてきた人生を描こうとするのならば、戦時中を生きた人々のためにもきちっと戦時中の古関裕而も描かなければいけないのです。





NHK朝の連続ドラマ『エール』では川俣の教会で音(二階堂ふみ)幼なじみの鉄男(中村蒼)から音楽を続けるように心からお願いされた裕一(窪田)は、あらためて自分の音楽の道と家族のために権藤家を継ぐ道との間で思い悩み、人生の選択を迫られる。

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おっとガキ大将の鉄男の登場です。鉄男らしい友を思う気持ちが一途に伝わっていました。


中村は自身が演じる鉄男についてこう話しています。


「鉄男は友達のために怒り、ひとの幸せを自分のことのように感じられる人。自分もそういう人間でありたいので憧れます」


まさに、裕一のことを考えての鉄男と裕一だけのことを思う音の行動でした。


裕一は果たして音楽の道を進むのでしょうか?

ここが人生の選択ときです。


村野鉄男(中村蒼)モデル野村俊夫


明治37年(1904年)1121日に福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれました。


野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へと進学したのですが、病気や家庭の事情により中退しました。


中退後、福島県の富豪・角田林兵衛の家に2年間、奉公していたのですが、密かに勉強していた事が奉公先にバレてしまい、「そんなに勉強したいのなら、家で本格的に勉強しなさい」と言われ、実家へ返されてしまいます。


その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、20歳の時に福島民友新聞社へ入社し、報道部の新聞記者として奔走しながら、文芸欄も担当しました。


昭和5年、幼なじみの作曲家・古関裕而が日本コロムビアの専属契約するために上京します。


野村俊夫は古関裕而に誘われて、福島民友新聞社を辞めると、昭和63月に姉テウを頼って上京しました。


野村俊夫は、仕事をしながら純粋詩を書くために上京したのですが、福島時代に作詞した「福島行進曲」が古関裕而のデビューレコードに採用され、フリーの作詞家として活動を開始しました。


リベラルな思想を持っていた野村俊夫は、国の意向に背くような歌詞ばかり書いていたので、ことごとく検閲で棄却され、レコードの仕事が出来なくなってしまいます。


妻と2人の娘を抱えていた野村俊夫は、生活のために方針を転換し、昭和14年に戦時小唄「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞してヒットさせます。


昭和14年の「上海夜曲」が大ヒットし、野村俊夫は日本コロムビアの専属となって、ようやく安定した生活が送れるようになりました。


昭和15年には、福島出身の古関裕而・伊藤久男と手がけた「暁に祈る」が爆発的にヒットしました。


野村俊夫・古関裕而・伊藤久男の3人が福島県の出身だったことから「福島三羽ガラス」と呼ばれ、戦時中に数多くの曲を手がけました。


戦後は昭和23年に、作詞家・古賀政男とのコンビで「湯の町エレジー」を大ヒットさせます。

その後は、ジャスラックの理事に就任して、音楽家の権利拡大に奔走する一方で、作曲家の古関裕而・古賀政男らとともに数多くの歌を作り、島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供しました。


野村俊夫は、昭和40年にジャスラックの常務理事を辞任します。経営問題の責任を取って辞めたらしいです。


昭和41年(1966年)930日に十二指腸潰瘍の手術を受けたのですが、手術後の腸閉塞により、昭和411027日に死去しました。62歳でした。


『ほんとにほんとにご苦労ね』


作詞 野村俊夫

楊柳(やなぎ)芽をふく クリークで

泥にまみれた 軍服を

洗う姿の 夢を見た

お国のためとは いいながら

ほんとにほんとに ご苦労ね

(注:「クリーク」は「小川」を意味する。)

来る日来る日を 乾麺麭(かんぱん)で

護る前線 弾丸(たま)の中

ニュース映画を 見るにつけ

熱い涙が 先に立つ

ほんとにほんとに ご苦労ね

今日もまた降る 雨の中

何処が道やら 畑やら

見分けもつかぬ 泥濘(ぬかるみ)で

愛馬いたわる あの姿

ほんとにほんとに ご苦労ね

妻よ戦地の ことなどは

なにも心配 するじゃない

老いた両親(ふたおや) 頼むぞと

書いた勇士の あの音信(たより)

ほんとにほんとに ご苦労ね


この歌どこかで聞いたことはないですか?軍歌だから聞いたことないと言われるかも知れませんが、1970年代にはお笑いグループのドリフターズが『ほんとにほんとに御苦労ね』と『軍隊小唄』の両方の歌詞を組み合わせて替え歌したコミックソング『ドリフのほんとにほんとに御苦労さん』を発表しています。歌い出しは「♪いやじゃありませんか花子さん♪」みなさんも聞いたことがあるでしょう。


この元歌の歌詞を作ったのがNHK朝の連続ドラマ『エール』のあのガキ大将鉄男。村野鉄男(中村蒼)なんですよ。村野鉄男が、なんだか少し身近に感じられるようになったでしょう。

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