ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 双浦環 柴咲コウ 三浦環

NHK連続ドラマ『エール』では音楽学校の記念公演に向け「椿姫」の稽古がスタートした。千鶴子(小南満佑子)との争いの末に主役に選ばれた音(二階堂ふみ)は、双浦環(柴咲コウ)から自分に足りない技術を死ぬ気で磨くように激励される。


『エール』では音と双浦環のやりとりの場面がいろいろと演出されているが、実際には古関裕而の妻金子と三浦環の間にはこんなやりとりがあったのだろうか?


古関裕而と妻金子と三浦環、ベルトラメリ能子の深い絆


調べてみても、金子と三浦環の繋がりはほとんででてこなかった。また、帝国音楽学校と三浦環の繋がりもでてきていない。


ただ、古関裕而の妻金子は金子は帝国音楽学校に昭和5年(1930)年秋に入学していますが、長くは通わずに中退しています。


昭和6年(1931)年暮れに長女を出産していますので、多分そのころ中退したのではないかと思われます。


金子はその後ベルトラメリ能子(よしこ)の門下生となり、声楽の勉強を続けます。


このベルトラメリ能子は三浦環の妹弟子にあたります。


もしかすると、三浦環の紹介で彼女の教授を受けるようになったかは不明です。


ベルトラメリ能子も三浦環と同様、オペラ研究のため、イタリアに留学。ナポリに3年、ローマで国立音楽学校、オットリーノ・レスピーギに理論、ペリット・ド・ラピカらに声楽を学ぶ。

ローマでイタリアの詩人アントニオ・ベルトラメリと恋におち、1928(昭和3)結婚したが、1930(昭和5)死別。1931年(昭和6年)一時帰国して日本コロンビア専属歌手となりました。


古関裕而の妻金子、三浦環、ベルトラメリ能子、3人の女性はほんとたくましく、積極的。


古関裕而は昭和5年より日本コロンビア専属作曲家となっており、三浦環もコロンビアの専属歌手であった。もしかしたら、全て三浦環が古関裕而の世話をしてくれて金子に彼女を紹介してくれたのかも知れません。


1935(昭和10)古関は「船頭可愛や」を発表、大ヒットとなりましたが、この歌を聴いた環は「これは素晴らしい。ぜひ私もレコードに入れたい」と申し入れ、古関は大喜びで吹き込みに立ち合ったそうです。


古関裕而


(女史は)美声の上に、エクスプレッション(表現、言い回し)の巧妙なことは、さすがに世界的歌手だと思った。これは勿論青盤レコードになった」


自伝『鐘よ 鳴り響け』より


1939(昭和14)古関が「月のバルカローラ」を作曲して献呈したところ、これもまた女史が吹き込みレコードになりました。


三浦の歌った「月のバルカローラ」(作詞服部竜太郎)は「月影青い海の夜/渚のほとりに佇(たたず)めば」のロマンチックな歌詞で、その抒情性豊かなメロディーは、古関音楽の芸術歌曲の本領を遺憾なく発揮した名曲で、今なおソプラノ歌手たちがチャレンジし続ける芸術歌曲でもあります。


古関裕而と妻金子と三浦環は、親しい間柄でお付き合いされていたのではないかと想像させられます。


 青盤レコード 

 コロムビアは外国の著名な芸術家にだけ青いラベルを張り、流行歌と区別していました。「月のバルカロール」は後年、「月のバルカローラ」と改められました。バルカローラとはイタリア語の船唄の意味です。古関の青盤レコードは三浦環の歌った「船頭可愛や」と「月のバルカローラ」の2枚だけです。


NHK連続ドラマ『エール』では美しい双浦環(柴咲コウ)と大作曲家小山田耕三(志村けん)が何度か登場しています。


二人のモデルは三浦環さんと山田耕作さんなんですが、実際は二人の年齢は2歳しか違っていません。しかも、三浦環さんが山田耕作さんの先生をしていたそうです。


随分とドラマと現実は違うようです。


ただ、三浦環さんは双浦環役、柴咲コウさんと同様にとても美しい方でした。


三浦環さんは「自転車美人」と呼ばれていました。


■ 三浦環「自転車美人」


明治の終わりに『魔風恋風』という新聞小説が人気を集めていた。主人公は帝国女子学院を卒業する間際の美少女、萩原初野。


主人公が登場する最初の情景はこうだ。


「此の時しも坂の曲角に立つ人々の眼は、皆一様に輝いて下の方に向いた。此方に立つ群衆も、そりやこそ御出だと首を伸し、人の背後なるは足を爪立てた。/鈴(ベル)の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結ひ流しにして、白リボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長けれど風に靡(なび)いて、色美しく品高き十八九の令嬢である。/両側に列ぶ幾万の目は、只だ此の自転車を逐うて輝くのであるが、娘は学校にのみ心急ぐか、夫(それ)とも群集の前を羞かしいのか、切(しき)りにペダルを強く踏んで、坂を登れば一直線に、傍目も触らず正門を指して駈付けんとすると、今しも腕車を曳き込んだ雑踏の間から、向う側に移らんとしたらしく、二人の書生が不意に躍出した。/曲角の出合頭、互に避くる暇もない、後なる書生に自転車が衝突(つきあた)つたと思ふ間も無く、令嬢の體は横樣に八九尺も彼方に投げられ、書生は仰向きに其處(そこ)に倒れたのである」


小杉天外『魔風恋風』より


小杉天外(18651952)はすでに忘れられた作家だが、1900年代から20年代、明治末から大正期に流行作家として知られていた。『魔風恋風』は1903(明治36)年2月から9月まで「読売新聞」に連載された小説である。単行本は1904年に春陽堂から3分冊で発売され、ベストセラーとなった。


色彩鮮やかな書き出しによって自転車で通学する萩原初野が登場し、転倒することで悲劇的な運命まで暗示している。


 『魔風恋風』の「自転車美人」のモデルが三浦環(当時は柴田環)だった。小杉天外の新聞連載は19032月から9月、環が自転車美人と騒がれたのは1900年から数年間だから、間違いなく天外は環の姿をモデルにしたのである。


「あさが来た」颯爽と自転車にのる女性 三浦環。ケイのblog


http://keijidaz.livedoor.blog/archives/53249411.html


三浦環と山田耕作

三浦環1900(明治33)年9月に東京音楽学校へ入学する。17歳だった。自伝ではこう書いている。


三浦環


「上野の音楽学校への通学ですが、私は前髪を赤いリボンで結んで、紫の矢絣の着物に海老茶の袴、靴を履いて自転車で芝から上野に通いました。当時女が自転車に乗るのは珍しく、殊に女学生で自転車に乗るのは私と、後で女の小学校の校長さんになった木内キヤウさん位だったので大変な評判で自転車美人だなんて新聞は書きたてる」


吉本明光『三浦環のお蝶夫人』より


山田耕筰(18861965)が東京音楽学校へ入学したのは1904年、環はこの年に卒業し、奨学金を支給されて研究科に入り、同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽を教えた。声楽科に入学した山田耕筰の先生となったわけだ。


山田耕作


「当時はまた、三浦環女史が、自転車美人の評判を高くしていた。美校の先生が牛の背で通う同じ上野の山内を、その頃文明開化の尖端であった自転車を、しかも妙齢の美女、環さんが走らせるのだから、評判にならないはずはない。しかし、私たちにとっては、それはいい悪戯の目標でしかなかった。/ある日私たちは山内で、自転車に乗った三浦さんに行き合った。/「それッ!」/と私の目くばせをうけるまでもない。咄嗟に美校と音校の連合軍は、腕を組んで自転車の行く手を遮ってしまった。三浦さんが右へかわそうとすれば、悪童たちはその方へ寄る。左へかわせば左へ追う。スクラムを組んだまま道路を右へ行き、左へ行き、この動く関所は自転車の通行を許さなかった。追い詰められた三浦さんは、とうとう操縦の自由を失って、精養軒わきの浅い空溝へ自転車もろとも落ち込んで終った」


山田耕筰『自伝若き日の狂詩曲』より


三浦環


「また上野の音楽学校の男生徒と美術学校の生徒はとても茶目、私のことを『タマちゃん、タマちゃん』と云ってひやかしているうちはよかったのですが、だんだん悪戯が嵩じて、しまいには往来を横に一列になって通せんぼうをする、私がそれをよけて右へ行くと右へ、左へ行くと左へ立ちふさがって、とうとう上野の精養軒のわきの溝の中に、自転車ぐるみ私を落っことして手を叩いて大笑いするのです。憎らしいのなんのって、その悪戯者の中では山田耕筰さんなんかが餓鬼大将だったのです。(略)もっとも先生と云っても私と山田さんとは年が二つしか違わない。いくら女の方が早く大人になるとは云え二つ違いの兄さんなら粋なのだけれど二つ違いの生徒では、手古摺らされるのは当り前だったかも知れませんね」


先生の三浦環さんをからかう、山田耕作さんいたずら好きで随分と餓鬼大将だったようですね。その点は志村けんさんと似てるかみも知れません。NHK連続ドラマ『エール』で見ると小山田先生と双浦環さんは年齢がかなり開いてるとみえますが、モデルの三浦環さんと山田耕作さんが2歳しか離れていなかったとは初めて知りました。


NHK連続テレビ小説「エール」で柴咲コウが演じる、世界的オペラ歌手・双浦環(ふたうら・たまき)。音が音楽学校で再び環と出会います。


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今回も柴咲コウさんの歌唱を聞けるのか楽しみです。


日本のプリマドンナ三浦環


日本のプリマドンナ・三浦環に世界のプリマドンナの名声と喝釆をもたらしたものは、まさしく極め付きの名作「マダム・バタフライ」(螺々夫人)でした。


彼女はこの「蝶々夫人」を演じるために生まれ、事実、それを演じ抜いて逝った永遠のオベレッタでした。


公演回数2000回、その超人的な美声とスタミナの秘密はいったい何だったのだろうか。


三浦環の活躍


三浦環は明治17年、東京に生まれ、東京音楽学校在学中、日本人による最初のオベラ公浪「オルフェオ」に参加した。そして、東京音楽学校卒業後ただちに帝国劇場専属のオペラ歌手となり、その四年後、キュービットの矢として飛んで来たのが「マダム・バタフライ」だったのです。


彼女は日本での成功に自信を得ると、以後ヨーロッパやアメリカをはじめ、みずからバタフライそのものと化して世界中をかけめぐったのでした。


三浦環の集中力は凄かった。


第一次世界大戦が始まったばかりのころ、ロンドンで「マダム・バタフライ」を上演することになった。


初日、ドイツのツェッペリン飛行船の空襲にあった。


台本では、いとしのビンカートンの乗った軍艦が長崎に入港、合砲が一発鳴ることになっていたが、大砲は、なんと二発、三発と続けて嗚るのである。彼女はかまわず歌い続けたのである。


絶唱の果て、ふっと気づくと、劇場にはほとんど誰もいなかった。そして「マダム、逃げないと死ぬ。空襲だ!」と誰かが叫んでいた。


三浦環の声は生卵育ち


1918年、イタリアのオペラ歌手カルーソーとホテル「ニッカー」で記念の晩餐会を開いたときのこと


カルーソーは


「マダム三浦、わたしの声はマカロニ育ちですが、あなたの美声は何育ちでしょうか」


とたずねた。


環は


「わたしは蝶々夫人の第一幕の始まる前に、算台裏で生卵を二つ飲みます。つぎの幕のときにも二つ、最後の幕の前にも二つ飲みます」


と答えた。


当時、生卵を飲むのは世界中で日本人だけだったので、カルーソーは二の句がつげなかったという。


三浦環の声帯とスタミナの源はビフテキ


彼女が、その命ともいえる声帯を守るために、毎日ビフテキを食べていた。


声帯にはビフテキが良いのだそうです。


おまけにスタミナもつき、2000回という超人的公演記録は、毎日ビフテキを食べたからそ達成できたものでした。 


三浦環の美声とスタミナは生卵とビフテキによってもたらされたものでした。


しかし、生卵とビフテキを毎日食べるなんて、カロリー高過ぎ、これも凄いことですね。

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