NHK連続ドラマ『エール』第69回、6月18日放送分は双浦環(柴咲コウ)モデル三浦環と今村嗣人(金子ノブオ)モデル藤田嗣治のパリでの恋人を演じた。
なぜ?
三浦環と藤田嗣治が恋人?
確かに三浦環と藤田嗣治、年齢的には三浦環が2歳上、恋人でもおかしくはありません。
しかも、三浦環はオペラで、藤田嗣治は絵画で世界に認められた日本人です。
話しは盛り上がります。
脚本的には面白い。
しかし、史実では二人が出会った形跡は全くありません。
ロンドンのオペラハウスで三浦環が初めて蝶々夫人役を演じたのは1915年。
たいへんな喝采を浴びた。
そのころ、パリのモンパルナスで暮らしていた藤田嗣治は困窮にあえいでいた。
第1次世界大戦の影響で日本からの送金が途絶えてしまったのだ。寒さをしのぐために、絵を描いたキャンバスを燃やして、暖をとったこともあったという。
2年前に欧州に来てから、まだ、藤田の絵は1枚も売れていなかった。
全くの関係もない2人。
会うことも全くなかった。
■if三浦環と藤田嗣治が出会うとしたら
戦争中は二人とも日本にいます。
また、音楽と絵画の道は違いますが、二人と日本を愛する気持ちは強いものがありました。
■藤田嗣治
(1886年11月27日〜1968年1月29日)
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。
国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。
同時に自身はクリスチャンとしての思想を戦争画に取り入れ表現している。
終戦後、戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と非難された。
藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると
「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」
との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。
渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。
日本に捨てられたのだ」とよく語った。
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。
■三浦環
(1884年2月22日〜1946年5月26日)
三浦環が愛国者だったという話は、不思議のようだが本当だ。
これは屈託ない大らかな性格にもよるが、永年の外国暮らしの間に体験し、あこがれた理くつ抜きの祖国愛なのであろう。
平野疎開中の環は、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけた。今、平野寿徳寺の墓碑面に、環自筆の「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ」の文が刻まれている。
戦争中、多くの芸能人が軍慰問に駆り出されたが、この姿勢は、そんな消極的なものではない。
日本の陣中慰問も、ひたぶるに祖国を歌い、環の歌を歌っただけのことであろう。ここまで考えると、環はやはり、信念と自尊の明治の女といえるのではないか。
■もしも2人が日本で会っていたら
ドラマの展開、もし2人が恋人になるとしたら日本の中で出会うしかありません。
藤田嗣治は絵画で、三浦環は音楽で世界に認められた人物、考え方もよく似ています。
2人とも日本を愛する気持ちは変わりません。
そんな2人だから話しをすれば、きっと心が通いあったことだと思います。
しかし、残念ながら2人が帰国した時は2人とも50代。
ドラマのような恋人同士になるのは、ちと難しかったかも知れません。