ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 双浦環 柴咲コウ 三浦環

NHK連続ドラマ『エール』第69回、618日放送分は双浦環(柴咲コウ)モデル三浦環と今村嗣人(金子ノブオ)モデル藤田嗣治のパリでの恋人を演じた。

なぜ?

三浦環と藤田嗣治が恋人?

確かに三浦環と藤田嗣治、年齢的には三浦環が2歳上、恋人でもおかしくはありません。

しかも、三浦環はオペラで、藤田嗣治は絵画で世界に認められた日本人です。

話しは盛り上がります。

脚本的には面白い。

しかし、史実では二人が出会った形跡は全くありません。

ロンドンのオペラハウスで三浦環が初めて蝶々夫人役を演じたのは1915年。

たいへんな喝采を浴びた。

そのころ、パリのモンパルナスで暮らしていた藤田嗣治は困窮にあえいでいた。

第1次世界大戦の影響で日本からの送金が途絶えてしまったのだ。寒さをしのぐために、絵を描いたキャンバスを燃やして、暖をとったこともあったという。

2年前に欧州に来てから、まだ、藤田の絵は1枚も売れていなかった。

全くの関係もない2人。

会うことも全くなかった。

■if三浦環と藤田嗣治が出会うとしたら

戦争中は二人とも日本にいます。

また、音楽と絵画の道は違いますが、二人と日本を愛する気持ちは強いものがありました。

藤田嗣治

(18861127日〜1968129)

日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。

国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。

同時に自身はクリスチャンとしての思想を戦争画に取り入れ表現している。

終戦後、戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と非難された。

藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると

絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい

との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。

渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。

日本に捨てられたのだ」とよく語った。

その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。

三浦環

(1884222日〜1946526)

三浦環が愛国者だったという話は、不思議のようだが本当だ。

これは屈託ない大らかな性格にもよるが、永年の外国暮らしの間に体験し、あこがれた理くつ抜きの祖国愛なのであろう。

平野疎開中の環は、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけた。今、平野寿徳寺の墓碑面に、環自筆の「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ」の文が刻まれている。

戦争中、多くの芸能人が軍慰問に駆り出されたが、この姿勢は、そんな消極的なものではない。

日本の陣中慰問も、ひたぶるに祖国を歌い、環の歌を歌っただけのことであろう。ここまで考えると、環はやはり、信念と自尊の明治の女といえるのではないか。

もしも2人が日本で会っていたら

ドラマの展開、もし2人が恋人になるとしたら日本の中で出会うしかありません。

藤田嗣治は絵画で、三浦環は音楽で世界に認められた人物、考え方もよく似ています。

2人とも日本を愛する気持ちは変わりません。

そんな2人だから話しをすれば、きっと心が通いあったことだと思います。

しかし、残念ながら2人が帰国した時は2人とも50代。

ドラマのような恋人同士になるのは、ちと難しかったかも知れません。


NHK連続ドラマ『エール』古山裕一の妻、音(二階堂ふみ)の音楽の指導先生役として登場する双浦環(柴咲コウ)。脚本家も日本を代表するオペラ歌手三浦環さんをモデルに描いた人物だと思われます。

現代、三浦環さんと言う名前出すだけで「お蝶夫人」を演じて世界を公演して回った凄い人と言う良いイメージを持ちます。

しかし、彼女の生きた時代は芸術は重要とされておらず、男尊女卑の時代でした。

当初は世間を騒がすアイドル歌手的な存在でしかありませんでした。三浦環(旧姓柴田環)さん16歳で音楽学校に行くなら結婚をするように言われます。

昔と今とでは音楽や芸術に関する価値観が非常に違っています。

三浦環(旧姓柴田環)の父は彼女の音楽学校入学を大反対しています。

「女は女学校を卒業したらお嫁に行くもの、お琴や長唄などの芸事はお嫁入りの資格として習うものだ、」

まさに女性蔑視、ただ、この時代の父親はみな似たような考えですね。

女性はお嫁に入り家庭を守るのが一番の幸せだと考えられています。

「音楽家だなぞというが、ありゃ西洋の芸者じゃないか、私は自分の娘を芸者にすることなぞ大反対だ」

とこんな感じなんです。音楽や美術などの芸術に対する評価はかなり低い。


しかし、その当時は音楽らしい音楽は日本にはありませんてした。

1928年(昭和3年)佐藤千夜子が31歳のとき、わが国最初のレコード会社「日本ビクター」で 「波浮の港」を吹き込み、レコードアイドル歌手第1号となったのが最初です。

日本ではまだ芸事をするのは芸者しかいなかったのです。

「環がそんなに音楽学校に入りたがっているなら希望を叶えてやってもいい。その代りお父さんが選んだ養子を貰いなさい」

なんだか凄い話しになってきました。

柴田家には男子がいなく、養子を取るようにいわれたのでした。

音楽学校に入るのなら結婚しなさいと言われます。

当時の家長の権限は大きく。父親の命じたまま結婚せざるを得なかったようです。

環は

「父親の選んだのは藤井善一という陸軍三等軍医正、12歳上の人でした。私は上野の音楽学校にはいれさえすればそれでよい。お養子のことはお父さんの希望通りにいたしました。」

と述べています。

今から120年前の日本の話です。随分と今とは違って結婚とか音楽とかの見方や見識が違うものだと思います。

今日は三浦環の初めての結婚の経緯を書いてみました。時代、時代でものの見方や考え方や価値観が違うものですね。NHK連続ドラマ『エール』もいろんな時代背景を考えながら観ていくともっと楽しくなるのかも知れません。

「生卵を飲む」と言うと、一番最初に思い出すのはやはり不朽の名作「ロッキー」の映画ではないでしょうか。ロッキーと言えば生卵、生卵と言えばロッキー。

 「生卵を飲んで精を出す」という概念、これは日本古来のもの、ロッキーが映画で飲んだので驚きました。

それ以上に驚いたのがアメリカ人。

ロッキーがコップで生卵を飲んだ。

アメリカ人はみんな「なんてクレイジー」なやつだ。

当時の全米を震撼させたのでした。

日本人が思う以上にロッキーの「覚悟」を感じられるシーンになっていたそうです。

シルベスター・スタローンも生卵を飲むならギャラを増やしてくれという話ををしてギャラを増やしました。

日本人的にはなんで?と思うかもしれませんが当時のアメリカでは当然の要求だし、当然ギャラは増えました。

シルベスター・スタローンは保険に入り、生卵を飲むシーンには必ず医者が立ち会うという体制だったみたいです。

なんて大袈裟なことでしょう。

このロッキーを超えたクレージーな人物がいます。

「マダムバタフライ」の三浦環女史です。

彼女も生卵を飲んで欧米人を驚かせています。

三浦環は「お蝶夫人」を演じる間になんと6つの生卵を飲んだんです。

三浦環 「お蝶夫人」より

1918(大正7)528日の夜でした。赤十字の慈善の会だったのです。

そしてオペラが済んでから記念の晩餐会がホテル・ニッカーボッカーで催されました。

ちょうど私の前の席がカルーゾー(有名なテナー歌手)でしたが、その時の御馳走にマカロニが出ました。

私の前に大きなとてつもなく大きなお皿が出ましたので、どんな御馳走が出るのかと思ったらマカロニだったのです。それが大きなお皿に山盛り配られたので、私はとても食べきれず、どうしようかと困ってフト前を見ると、カルーゾーはフォークを片手に、器用にくるくるとマカロニを巻きつけて、盛んにぱくぱく食べています。

そして見る間に山盛りのマカロニを平らげた上、お代りをしているのです。

私はそれを見て、これは食べ残しては恥かしい。

それにマカロニは声によくて、マカロニを食べていれば美しい声が出るといわれるので我慢して無理矢理にみんな食べてしまいましたが、苦しいのなんのって、今でもあの時のマカロニの苦しさを覚えています。

その時のことでした。

カルーゾーが私に「マダム三浦、私の声はマカロニから出ますが、あなたの美しい声は何を召上って出すのですか」

「マエストロ・カルーゾー、私の声は卵から出ます」

「卵ですって?卵をどう料理して召上るのですか」

「卵を生のまま飲みます。私が『お蝶夫人』をうたいます時は、第一幕に出る前に、舞台裏で卵を2つのみます。次の幕の時も2つのみます。最後の幕の時も2つのみます。ですから『お蝶夫人』は6つの卵でうたうのです」

「卵を生のまま飲むんですって!しかも六ツも飲むんですって!よくマダム三浦のお腹の中で、ひよこが鳴きませんね」 

生卵をのむのは世界で日本人だけ、だから生卵をのむのを不思議がったうえ、6つものんでは多すぎると、ユウモラスで定評のあるカルーゾーにひやかされて、私はうんざりしてしまいました。それ以来私は卵を3つ減らしました。一幕に1つずつにしたのです。』

完全栄養食品といわれる卵。栄養素をそのまま取り込みたいなら、生卵で食べるのが一番よさそうですよね。

熱に弱いビタミンB群やたんぱく質もそのまま摂取できます。

しかし、生卵6つを飲むとは三浦環のエネルギーは凄かった。

年間で100以上のステージに上がらなければならない彼女にとっては栄養補給の最大の方法が生卵を飲むことだったようです。

しかし、生卵を6つ飲んでいたとは三浦環女史クレージー過ぎます。

三浦環、旧姓柴田環。軍医の藤井と結婚し7年後に離婚し柴田環に戻っています。

16歳で結婚し現在は23歳。音楽界で活躍し美しいので羨望の的、あちこちから再婚の話しが持ち上がります。

ちょうどその頃、元亭主の藤井と富士見町のお茶屋で逢った現場を新聞記者に目撃されてしまいます。しかも他の人物と勘違いされ新聞記事にされてしまいました。

報知新聞「雨の夜の相合傘」という見出しの根も葉もない、あくどい記事の嘘のゴシップ記事です。

記事を書かれて困った柴田環はいろんな人に相談しています。


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柴田環と元亭主藤井

柴田環

「あなたが私に逢いたければ、私の家にいらっしゃればこんなことにならなかったんでしょう。こんな記事をそのままにしておくと、私は音楽学校を辞めなければならないし、私のことは音楽学校を辞めさえすれば片付いて、あとは音楽家としての生活に困りはしないけれど、三浦政太郎さんが気の毒ですわ、まだ私と結婚するって決った訳ではないし、こんな人違いの記事で大学を辞めなきゃいけないことになったらどうするの」

元亭主藤井

「困ったことになったもんだ。三浦君には何とも申し訳がないが、わしだって軍務に服しているんだ。それにゆうべも話した通り、わしも近々女房を貰うことに決った。その矢先き、あの記事にある、柴田環を待合につれ出したのは三浦政太郎ではなく、藤井善一だ、と名乗ってみなさい。わしの縁談はぶち壊された上、軍務の方もクビだ」 

私は泣いて頼んだですが、ラチがあかない。仕方がない困ったを繰り返す元亭主藤井。

柴田環は父にも相談しています。

彼女が父のところへ駈けつけると、父もびっくり仰天、そりゃ困ったことが出来た、と早速使いを出して三浦政太郎に来て貰って、三浦に話をしました。

三浦は落付いたものです。

「新聞に一度出たものを今更、あの記事は間違っているといったところで後の祭です。新聞社に談じこめば、記事の訂正は出すでしょうが、虫眼鏡で見なくちゃわからないような、ちっちゃな活字で出します。だから読者なんか見やしません、記事の取消しなんて、当事者だけの気休めで、世間の口をふさぐにはなんの役にもたちませんよ」

柴田環の父

「そう落ち付いておっては困る。環はいわば身から出た錆で、いたしかたがないとして、人違いをされた君が迷惑だ。親の身として君に対して申し訳けがない。法律上の手続きはわしの方で一切するから、一ツ名誉毀損の訴訟をしようではないか」 

お父さんは公証役場を開いている、法律の専門家だから、こんな風にして事件を解決しようと考えたのでした。だが三浦政太郎は飽くまでも事件をこれ以上大きくしたくない考え。

三浦政太郎

「私の身の潔白を法律の力で証明したってそんなことは何の役にもたちません。私が潔白なことは私自身が一番よく知っているのですから。世間の奴等が、何とかいうなら勝手にいわせておけばいいのです。それよりも、かねがね環さんにも話し、あなたにもお願いしてあるんですが、環さんとの結婚を許して下さい。環さんと結婚出来れば、こんな記事なんて問題じゃありません」

柴田環の父

「結婚のことは、環さえ承知なら、わしは別に異存はないが。なんだっていうじゃあないか、君のお父さんが環と結婚することは大反対だというじゃあないか」

三浦政太郎

「ええ、父は不承知ですが、いよいよ環さんが僕と結婚してくれると決まれば、父の方はいくらでも話がつきます」

柴田環の父

「そうか、君のお志は有難い。そうしてくれれば藤井君にもキズがつかないし、環も救われるが、だが君、環は普通の女と違って、音楽の方が忙しいので、妻としての務めが満足に出来ないよ。現に今度の問題の藤井君ともそのために別れたんだから」

三浦政太郎

「その点御心配御無用だと思います。僕は音楽家としての環さんを尊敬しています。そして音楽家はどういう生活をしなければならないか、ということをよく理解しているつもりです。環さんのような有名な音楽家、これは音楽家に限らず、有名な芸術家はみなそうですが、芸術家は社会の花です、公園の花を手折って書斎の花瓶に活けてはいけないのと同じように、社会の花を、妻だからといって家庭にとじこめることは公徳を無視した封建思想です、芸術に対する大きな冒涜です……」 

環は三浦のこの話の途中で感極って泣き出してしまいました。人違いの濡着をきせられたのに、自分自身さえ潔白なら世間の口はどうあろうと構わぬという立派な信念、芸術に対する正しい、そして深い理解、なんていう見上げた方だろう。それまでとかくぐらついていた私の心は一瞬にして決まりました。三浦政太郎との結婚はこうして決定したのでした。 

柴田環は三浦政太郎と結婚して三浦環となります。

三浦環2回目の結婚です。

しかし、嘘のゴシップ記事で結婚するとは驚きですね。

元亭主と間違えられた三浦政太郎さんと環さんは幼なじみです。

ただ彼女は最初は彼のことが好きではなかったみたいです。

三浦環

「遠縁の人でちいさい時から時々逢っていて両方ともよく知っていました。彼は一高に通学している頃から私が好きだったのだそうです。けれど三浦は非常に内気な性質でどっちかというと陰気な方で、おまけに無口なのです。それで私が藤井と結婚したのを知って、とても悲観しちまったんだそうで、ますます陰気になる。」

と述べています。

三浦政太郎さんも環が新聞に離縁したことが出ると手紙で結婚を申込んでいました。

三浦政太郎さんは三浦環さんは初恋の人。

最初からは相思相愛ではなかった二人ですが、ひょんなことから結婚することになりましたが、この結婚は大成功でした。三浦環は世界に知れわたるプリマドンナになりますし、三浦政太郎も日本茶に於けるビタミンCの発見をしています。切磋琢磨して分野は違うが活躍した二人、仲の良い最高のパートナーだったと思います。


※「」の部分は三浦環 吉本明光編 「お蝶夫人」より抜き出しております。



NHK連続ドラマ『エール』ドラマはいろんな展開をしていますが、ドラマのキーマンとなっている双浦環(柴咲コウ)さんモデルの三浦環さん。

「蝶々夫人」を2000回演じ、「お蝶夫人」を演じるために生まれてきた人物であると称され、「マダム・バタフライ」として世界中に名声を轟かせたオペラ歌手です。

今日は三浦環さんの初めての結婚の話しをしてみたいと思います。


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三浦環初めての結婚

三浦環、旧姓柴田環。最初の結婚は1900(明治33)16歳の時、相手方は12歳年上の藤井軍医28歳との親の決めた結婚でした。柴田家には男子がおらず、婿養子として迎えています。

結婚は家同士の結びつき。家長の父親が、家柄や財産等で相手となる家を決めるものでした。娘や息子は、決められた相手と結婚するものであって、自由恋愛による結婚は例外的でした。

男性中心社会の明治・大正時代に女性の地位は低く、女に生まれたからには結婚して家を出て、婚家において良妻賢母となるのか、または婿養子を取るのかがあるべき姿とされていました。

明治時代の民法では、女性が結婚できる年齢は15歳からです。

しかし、15歳以下でも結婚する人が多くいたようです。

三浦環さんもその例にしたがい親の決めた相手と結婚しています。

三浦環 「お蝶夫人」より

「環さんは美人だ、とみなさんが評判する、それに東京で一番ハイカラな虎ノ門の女学校に通っていたので非常に目立つ、それで叔母さんが心配して、お父さんに、環ちゃんに間違いのないうち早くお嫁さんになさい、としきりにすすめるのでこの養子問題となったのでした。お父さんのお眼鏡に叶った養子というのは、藤井善一という陸軍三等軍医正、私より十二歳上の人でした。私は上野の音楽学校にはいれさえすればそれでよい。お養子のことはお父さんの希望通りにいたしました。」

三浦環、結婚して7年後の1907(明治40)離婚。

ご主人の藤井さんが仙台へ転勤になります。当然、一緒に行ってくれる夫に対し三浦環は行かないと宣言します。

「藤井が仙台へ転任することになったので、藤井は当然私が一緒に仙台へ行くことと思ったのでした。けれど私は音楽を捨てることが出来ない。」

夫にかしずくということは、結局一人の男を幸福にすることだ、これは女として当然のことだが、女なら誰にも出来ることだ、音楽家として歌をうたうことは社会を幸福にすることだし、日本の文化を高めることである。

「あなたには御不自由でほんとに済まないと思うんですが、お一人で仙台へ行って頂戴。私は東京であなたのお帰りをお待ちしながら、音楽をやっていますから」

「うん、お前の話はよくわかった。実はわしがお前と結婚した時は、お前がこんなに偉くなろうなんて考えもつかなかった。わしにとってはお前が偉くなることよりも、わしの世話女房になってくれることを望んでいるんだよ」

藤井はそう言って離婚を三浦環に伝えます。

三浦環の初めての結婚は7年にて終了しました。

昔の日本は家と家の結びつきなので、なかなか離婚出来なかったのではないかと思いますが、そうではありませんでした。

明治初期の日本の離婚率は、なんと3.38もありました。これは、現在の1.73の倍近いし、現代のアメリカの数字より上です。資料によれば、江戸時代の離婚率は4.8もあったらしいとのこと。現在離婚率世界一位のロシアの4.5よりもはるかに多かったんです。

日本は昔は離婚が多い国だったんです。

昔は三行半(みくだりはん)という言葉があります。これもみなさん誤解されている方が多いのですが、この三行半は、夫が妻に対して一方的に突き付けるものではありません。離婚というものは、双方の承諾がなければできませんでした。決して、夫だけにその権利があったわけではないのです。 

また、三行半は、「離縁状」というだけではなく、「再婚許可証」でもありました。江戸時代でも重婚は罪に問われました。だからこそ、離婚の証拠がないと再婚ができないのです。だから、離婚したいと思った妻から夫に対して「早く三行半を寄こせ」と要請した例も多いんです。

三浦環初めての結婚の終了ですが、世間が離婚したと知ると再婚の申し出が次々にきたそうです。

ほんと三浦環がモテモテだったと言うか、当時から男性陣が節操がないと言うか。

再婚の話しは次回またお届けします。

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