ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 小山田耕三 志村けん 山田耕作

 NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)は梅(森七菜)に「せっかく歌を歌える機会があるのになぜ生かさないのか」と言われ自分には向いてないと思った音楽挺身隊に参加することになりました。

 音は懐かしい音楽学校の仲間たちとも会え、慰問にも喜んでもらえ楽しみも感じたのですが

 軍人とともに軍服を着た威圧感を放つビックボス小山田耕三(志村けん)が登場、違和感を感じる音(ドラマを予想してみました)音とビックボスの対決はあるのか?

 小山田耕三の史実のモデルは山田耕筰です。音楽挺身隊を設立したのは大作曲の山田耕筰でした。彼は「赤とんぼ」や「からたちの花」などの童謡の作曲家として知られていますが、戦時中は軍部に積極的に協力し将校待遇となっていました。

 しかも彼や軍部の真の目的は音楽統制でした。「音楽は軍需品」をスローガンに日本全体を軍事一色に染めあげようとしていました。

山田耕筰と音楽挺身隊

 当時の日本では軍部が勢力を持っており、ドイツを模倣して日本文学報国会や大日本言論報国会などの組織を作り、文化関連の活動を統制していたました。

 内務省や厚生省、警視庁、大政翼賛会の後押しで1941(昭和16)11月日本音楽文化協会は発足します。

活動内容は「日本人の作品を必ず演奏会に加える」といった音楽指導のほか、士気高揚と情操純化のための音楽会の開催、工場への音楽隊の派遣、演奏会開催の受理・不受理の決定などでした。音楽も国が統制する、それが目的だったのです。

 山田耕筰は副会長としてその推進組織として音楽挺身隊を設立しました。

 音楽挺身隊は、銃後国民の慰安と鼓舞激励のために演奏家協会全会員を動員して作られたもので、3,000の隊員を傘下に、市民慰安会、農村漁村への音楽慰安隊、産業戦士の慰労演奏などを行うことを趣旨とし、山田は率先してその先頭に立ち指揮をとったのです。

 1943(昭和18)には警視庁の管理下にあった演奏家協会は情報局管理下の日本音楽文化協会へと統合され、国家による統制経路はここで完全に一本化される。

 1944(昭和19)にはこの協会の会長となった山田は、ついに音楽統制の頂点に立っています。

 日本音楽文化協会の総則には「本会ハ肇国ノ精神ニ基キ音楽文化ヲ内外ニ宣揚スルコトヲ目的トス」とあり、音楽による国民精神の昂揚、音楽政策の樹立遂行への協力、国家的及び公共的行事への協力など、目的達成のための事業が述べられていました。

 協会が発行した「音楽文化新聞」は、当局に許可された唯一の音楽メディアとして、「音楽は軍需品」をスローガンに音楽界を導いていったのです。

山田耕筰の思想

 ドイツに留学していた山田耕作は、ナチス統治下の様子に感動していました。音楽と同様に国家も国民も一体となると言う統一美に理想を感じたようです。

 日本に帰国した後、山田耕筰は中国との全面戦争を期に、愛国の念を一気に燃えたたせてゆきます。

 1937(昭和12)77日に起こった廬溝橋事件では、日本軍に追われ逃げまどう中国の人々の目をおおう悲惨、残虐ばかりが当地のニュース映像で流されるのに憤怒しました。「正しき意味に於ける宣伝というもののいかに緊要であるかをつくづく思わされたのである。--日本が世界を知る程度は、世界が日本を知るよりも遙かに勝っている。東洋の一孤島である日本は実は余りにもその真姿を世界に知られていないのだ。--要するに日本を世界の津々浦々まで知らしめねばならないというのが、今日吾々国民の持つ切実感だ。--世界の報道機関を有効適切に動員させるのも其の一つ。映画によるものも其の一つ。美術、音楽等によるものも其の一つ。--それを敢行する決意とそれを実行に移す巨大な財的用意さえ調えば、誰一人としてこの文化戦の勇敢なる戦士としての参加を拒む者があろうか。」と新聞に書き送ったのでした。

 中国を日本支配下に治めるかを論じる文章も発表している。「わが日本の国力伸張に伴い、海外に雄飛するのになんの躊躇があろうか。どしどし進出すべきだ。ただ、武力だけでは足らない。武力は山野の伐採である。いまだかって世界のどこの植民地も文化工作なしに成功したためしはない。朝鮮統治の成功もこれがうまくいったからだ。北支、中支の統治にも文化戦線の推進が肝要である。」

 彼は愛国主義者であり国粋主義者でした。

古関裕而と金子とは相容れない世界だった。 

 古関裕而も金子も音楽を統制するものだとは考えもしなかった。音楽は庶民のためのものであり、庶民の歌を作曲したかった。庶民に寄り添った作曲をしていた古関裕而と金子は山田耕筰が作った音楽挺身隊の意図とは相いれなかったものだと思います。

 NHK連続ドラマ『エール』で小山田耕三役の志村けんさんはどんな演技をするのか非常に楽しみですね。果たして私が予想したドラマの展開になるのか今日の放送が気になります。


NHK朝の連続ドラマ『エール』今回の朝ドラは展開が早い、次から次へと場面が切りかわり、ドラマが展開していき、ハラハラ、ドキドキから安心、不安と観るものの気持ちを揺すぶり続けるようである。僅か朝の15分なんだが、作るほうもたいへんな作業だなと思う。僅か11秒でも大切な時間なのだ。


5003



特に先日のコロナウィルスでお亡くなりにになった大作曲家、小山田(志村けん)さんの登場シーンはいつも圧巻であった。


■ 志村けんさん登場シーンから


小山田(志村さん)はコロンブスレコードのディレクター・廿日市(古田新太)を自室に呼び出した。


 小山田「忙しいの、悪かったね。どうした汗かいて。暑いか?(机の上に置いた新聞を指さし)君、この男、知ってるか?」


 廿日市「(裕一が国際作曲コンクリート2等に輝いた記事を読み、音が裕一を売り込んできたことを思い出す)」


 小山田「知ってるのか?」


 廿日市「いえ、あの、この男が何か?」


 小山田「君のところでな、契約してほしいんだよ(つづく)」


初登場となった前回第25話のラスト約1分に続き、この日、志村さんの出演シーンはラスト約50秒。


前回は秘書(川島潤哉)から裕一の快挙を知らされ、小山田は「(新聞を手に取り)(裕一が)本物か、まがい物か、楽しみだね(新聞を机に投げ置く)(つづく)」。


この日も志村さんのセリフがドラマを締める同じような構成となった。まさにラスト1分、814分の男である。


野球でも最後に締める、おさえのエースがいた。人呼んで830分の男。志村けんは『エール』の814分のエースである。

NHK朝の連続ドラマ『エール』でコロンブスレコード入社の依頼をする小山田耕三(志村けん)これが最後のテレビ出演となりました。裕一の窮地を救う『救いの神』役、最後に相応しい役柄となりました。


コロナウィルスで亡くなられたとはいまだに思えません。


テレビからひょこっと飛び出してきて『だいじょうぶだ〜」って言われそうな気がします。


にこにことした笑顔と楽しそうなギャグの連発、もう見ることが出来ないですね。


心からご冥福をお祈りします。


5003



テレビドラマ初出演の志村けんさんのコメント


志村

『コントとドラマで、そんなに大きな違いはないんだけど……、笑わせなくていいよね。コントは自分たちで考えて、ここはこうでと、ストーリーが全部わかってるから、あまり台本読まないんだけど、ドラマは脚本、演出があっての芝居だし、間違うと、みんなに迷惑かけちゃうから、役柄になってセリフをどう言おうとか家で台本読んだりしてますよ。だけど、いざ撮影になるとセリフとんじゃうの(笑)」


「でも、ついつい何かしたくなっちゃう(笑)」


『僕の出ているシーンは、困ったことにあまり笑いがないんですよ。俺、譜面も読めないのに、役柄はみんなが憧れる作曲家で、ちょっと意地悪っぽいところもある。いつもの志村けんらしくない、こんなこともやりますよってところを見てもらえれば、うれしいね」


志村けん(しむらけん)さんのプロフィール


東京都東村山市出身のコメディアン。1950220日生まれ、A型。荒井 注脱退に伴いザ・ドリフターズに加入、間も無く『8時だヨ!全員集合』で「東村山音頭」「ヒゲダンス」などでお茶の間の人気は絶頂に。その後も「バカ殿様」「変なおじさん」といったキャラクターを生み出した。テレビでは『天才!志村どうぶつ園』にレギュラー出演していたが、2020329日、新型コロナウイルスによる肺炎で他界。享年70

音楽、特にブラック・ミュージック、ディスコ・ミュージック好きとして当時から広く知られていたことから、弊社『jam』でアルバム評を執筆することに。「ヒゲダンス」のトラックはテディ・ペンダーグラス、「ドリフの早口言葉」はシュガーヒル・ギャング+ウィルソン・ピケットで、いずれも自身によるセレクトであるというエピソードが知られている。また中学時代は熱烈なビートルズ・ファンで、1966年の武道館公演を見に行った逸話を披露したりもしていた。


古関裕而はお坊ちゃん育ちで、穏やかな性格の楽天家だった。


誰もがそう口をそろえている。口数は少なく、まさに妻の金子とはデコボココンビだったものの、うちに秘めた情熱は激しかった。


一生涯、妻の金子を愛し続けた生真面目な男の姿が目に浮かぶ。


5003


 

恋文で批判した山田耕作


裕而は、そのやり取りのなかで山田耕筰(文面では耕作)さえも激しく批判している。

「彼の芸術は立派だかも、知らないが、あの、腐つた品性を、読んだ時、彼の作品にも、その悪性がしみ込んで居るかと思ふと」

「自分は、芸術に於て、山田耕作氏以上にならう、否、断然山田耕作氏を抜かうと思つてます」


クラシック作曲家を目指していた古関は、それまで山田を崇拝していた。それなのに、どうしてこんなことになったのか。


それは、雑誌で山田の女性問題が報道されたからだった。金子との清く正しい交際を目指していた裕而は、山田の醜聞が許せなかったのだ。


山田耕作とはどんな人物だったのだろうか。


山田耕作と受難の永井郁子女子


28歳となった大正3年(1914年)、ドイツ留学から山田は帰国。


この年、岩崎の主催する東京フィルハーモニー会に管弦楽部が創設されました。


山田東京フィルハーモニー会を組織し、指揮を担当します。


三菱財閥の岩崎弥太郎の紹介で永井郁子と結婚したにもかかわらず、昔なじみの村上菊尾という女性が忘れられず、翌年には離婚。女優の村上菊尾(本名・河合磯代)とスピード再婚してしまいました。


これでは永井郁子さんもたまったものではありません。


紹介した岩崎弥太郎のメンツも台無しになり岩崎は大激怒。


資金援助を打ち切られ、オーケストラは解散せざるをえなくなりました。


その菊尾とも山田が70歳と文化勲章を受章した後、離婚し、辻輝子を入籍。


今で言う熟年離婚であろうか。


山田耕作は後にこう語っている。


『「良妻は母に似る」と昔からいっている。その意味において辻輝子はまことに良妻である。陽気でいて細心、苦難をものともせぬところなど、母そっくりである。


 再度の結婚生活に失敗した私は、ようやく晩年になって、家庭というものの幸福を満喫している。私を憐んで、亡き母がこうしてくれたものとしか思えない。』


こう書いてきたが、山田耕作は自分の意思の通り生きた男。


ある意味、恋愛に対しては純粋だったのかも知れない。


古関裕而から、すれば男のエゴで妻と離婚するいいかげんな男に見えたのかも知れないが、本人は幸せな生き方だったのかも知れない。


古関裕而と山田耕作と志村けん


古関裕而のように一人の人を一生涯愛し続けて生きるいき方と、山田耕作のように自分の意思の思うように結婚を繰り返す生き方と志村けんのように美女と恋愛を重さねるも一生涯独身で生きるいき方、男にはいろんな生き方があって良いと思う。


人生の最後に後悔のない人生だったなと思えることが最高の男の生き方ではないたろうか。


志村けんさんも悔いのない生き方をされたのだと思います。心からご冥福をお祈りします。

↑このページのトップヘ