ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 木枯正人 野田洋次郎 古賀政男

NHK朝の連続ドラマ『エール』 木枯(野田洋次郎)の誘いで裕一(窪田正孝)は一緒に夜のカフェーへ行きます。


女給たちの接客を受けて動揺する裕一だったが、木枯は「大衆が求める歌を作るには、大衆を知らなきゃ始まらない」と話し、ギターを奏で歌い出しました。




おっ〜古賀政男の名曲『影をしたいて』です。いい詩です。


RADWIMPSのボーカルだけあって、いい声してます。


やはり、日本の歌はいいですね。


『影をしたいて』


作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎


1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に

  月にやるせぬ 我が思い

  つつめば燃ゆる 胸の火に

  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに

  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば

  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ

  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて

  遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)

  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の

  儚(はかな)き影よ 我が恋よ


この名曲、日本人の誰が聞いても良い曲なんですが、最初から大ヒットしたのではありませんでした。


■ 『影をしたいて』大ヒットまでの長い道のり


昭和初期の深刻な不況のなか、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。


昭和3年(1928)年夏、友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。


その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固めました。帰京後は、その創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会を通じて、音楽活動を続けて行くことになります。


昭和3年(19281125日に催された明大マンドリン倶楽部の第13回定期演奏会では、プロ歌手の佐藤千夜子が出演して、『波浮の港』など4曲を歌いました。


佐藤千夜子は、当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれて、出演を承知したのです。


彼女は、翌年6月の第14回定期演奏会にも出演し、『野薔薇』など4曲を歌いました。


このとき、古賀政男作曲の『影を慕いて』が、ギターの合奏で演奏されました。それを聴いて、政男の作曲の才能を見抜いた佐藤千夜子は、それを歌謡曲にすることを勧めました。


歌謡曲となれば、歌詞を作らなければなりませんし、歌詞が生きるようにメロディを編曲することも必要になります。なかなか思うような作品に仕上がらず、彼は悩みました。


そんな折、スペインの世界的ギター奏者アンドレアス・セゴビアが来日、政男は同年1026日の演奏会を聴きに行きました。自伝によると、セゴビアの名演に酔いしれ、「その興奮が収まらないうちに、私は一気に『影を慕いて』の詞と曲を作り上げた」とあります。


歌詞は、失恋して自殺しようと青根温泉の山中をさまよったときの心情がモチーフになったようです。 


できあがった曲は、昭和5年(19301020日、佐藤千夜子の唄で録音され、日本ビクターから発売されました。ところが、このレコードは期待されたほど売れず、評判にもなりませんでした。B面だったことも影響していたかもしれません。


古賀政男は気落ちしましたが、この曲を聴いた日本コロムビアの営業マンが彼の才能に気づき、専属作曲家として引き抜きました。


そして、『影を慕いて』を、当時まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生だった藤山一郎に歌わせました。昭和7年(1932)3月にレコードが発売されると、空前の大ヒットとなり、以後、古賀政男は順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

NHK朝の連続ドラマ『エール』では木枯(野田洋次郎)はレコーディングで自分の思ったようにならず不機嫌な様子。裕一(窪田正孝)を連れて気晴らしに夜のカフェーを訪れる。


女給たちの接客を受けて動揺する裕一だったが、木枯は「大衆が求める歌を作るには、大衆を知らなきゃ始まらない」と話し


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カフェーで女給の接待?


昭和の初期、カフェーは現在の珈琲を飲むだけのカフェではなく、男たちを接待するための水商売、現在で言うとキャバレーやキャンパスパブのような仕事だったようです。


現在のカフェとあまりにも違い過ぎるのでカフェーの歴史を概略します。


銀座とカフェー


1911(明治44)年、銀座には「カフェープランタン」「カフェーライオン」「カフェーパウリスタ」と、カフェの開店が相次いだ。「カフェープランタン」は日本初のカフェといわれ、フランスのカフェに倣い美術家や文学者の社交の場として開業、当初は会員も募り、洋画家の黒田清輝、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎などの文化人が名を連ねた。写真は「カフェープランタン」の内部の様子。「カフェーライオン」は「精養軒」経営、「カフェーパウリスタ」ブラジル産の珈琲を提供した。


■ 夜のカフェー


「関東大震災」後頃から、女給(ホステス)が接待する形態のカフェ(以下「カフェー」)も誕生(のちにキャバレーなどに発展する)。


昭和に入ると大阪資本の大型「カフェー」が銀座に進出、派手なネオンが輝くようになった。


「銀座会館」「クロネコ」「美人座」などの店名が明るく夜空に輝いていた。


「銀座会館」は大阪の「カフェー」で成功した榎本正が1930(昭和5)年、東京・銀座に進出した最初の店で、その後、銀座でもいくつかの「カフェー」を開店している。


1930(昭和5)年頃には銀座に約140軒の「カフェー」があり、うち女給が50人以上の大型店も10軒以上あったという。


一方、銀座の純粋な喫茶店は、1935(昭和10)年を境に「純喫茶」であることを鮮明に打ち出すようになった。


「カフェープランタン」は、この年に「カフェー」の文字を排し、「茶房 ル・プランタン」としている。


カフェーは夜の接待業、珈琲店は純喫茶と呼ばれ別れるようになったんですね。


それが、現在では接待業のカフェーがなくなりカフェと純喫茶は、ほとんど同じようになったみたいです。


当時、カフェーの女給はいろいろと問題になっていたようで、『女給』と言う映画となり奥様方の話題となっていたとか。


『女給』映画


この当時のカフェーをとりあげた小説としては、昭和五年、半年余りに亘って『婦人公論』に連載された広津和郎の『女給』が大きな反響を呼び、映画化された上、その主題歌が大ヒットしています。


映画のポスターです。


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なんとなく妖艶な女給の感じが伝わってきます。


■ 女給の唄


歌: 羽衣歌子

作詞:西條八十

作曲:塩尻精八


わたしゃ夜さく 酒場の花よ

赤い口紅 錦紗のたもと

ネオン・ライトで 浮かれて踊り

さめてさみしい 涙花


わたしゃ悲しい 酒場の花よ

夜は乙女よ 昼間は母よ

昔かくした 涙のたもと

更けて重いは 露じゃない


弱い女を だまして棄てて

それがはかない 男の手柄

女いとしや ただ諦めて

辛い浮世に 赤く咲く


雨が降る降る 今夜も雨が

更けてさみしい 銀座の街に

涙落ちるも 恋しいむかし

偲べ偲べと 雨が降る

NHK朝の連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)と同期の作曲家・木枯正人(野田洋次郎)のモデルは古賀メロディ-として有名な大作曲家古賀政男だった。古賀政男は昭和6年日本ビクターの専属となると歌謡曲のヒット曲を連発し、レコード業界で劣勢だった日本ビクターをいっきに巻き返させた。


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昭和六年歌謡曲界を席巻した古賀政男。


昭和六年四月重要産業統制法が公布された。政府は、一般大衆を切り捨てる政策をとりカルテルを促進させ財閥の擁護を図った。


この年は、昭和モダンの翳で泣く女給の涙を歌った『女給の唄』東京音楽学校(現芸大)出身のバリトン歌手徳山璉が堂々と歌った『侍ニッポン』などが流行した。


いづれも作詞は西條八十。昭和六年、九月十八日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の行為とみせかけて関東軍は軍事行動を開始した。これが満州事変に発展した。


このような暗い世相を背景に古賀メロディーが一世を風靡した。


1月『影をしたいて』『日本橋から』6月『キャンプ小唄』『月の浜辺』10月『酒は涙かため息

か』12月『丘を超えて』


古賀政男はヒット曲を連発した。


これまで劣勢だった日本コロムビアは,いっきに巻き返すことになる。


歌唱者の藤山一郎は、当時、東京音楽学校(現芸大)の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。


豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。クルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現した功績がある。


また、その一方で、スピントの効いた張りのある美声で『丘を越えて』に代表されるように古賀メロディーの青春を高らかに歌った。だが、あまりにもレコードが売れたため、学校当局が知ることになり、藤山一郎(増永丈夫)は、一ヶ月の停学処分となった。


昭和6年は古賀メロディ-の年であったと言っても過言ではなかった。


ほとんど同時期に専属契約した古関裕而と古賀政男だったが、スタートして大きく水をあけられてしまっていた。

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