NHK朝の連続ドラマ『エール』 木枯(野田洋次郎)の誘いで裕一(窪田正孝)は一緒に夜のカフェーへ行きます。
女給たちの接客を受けて動揺する裕一だったが、木枯は「大衆が求める歌を作るには、大衆を知らなきゃ始まらない」と話し、ギターを奏で歌い出しました。
おっ〜古賀政男の名曲『影をしたいて』です。いい詩です。
RADWIMPSのボーカルだけあって、いい声してます。
やはり、日本の歌はいいですね。
■『影をしたいて』
作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎
1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦れつつ 忍び泣く
2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し
3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ
この名曲、日本人の誰が聞いても良い曲なんですが、最初から大ヒットしたのではありませんでした。
■ 『影をしたいて』大ヒットまでの長い道のり
昭和初期の深刻な不況のなか、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。
昭和3年(1928)年夏、友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。
その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固めました。帰京後は、その創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会を通じて、音楽活動を続けて行くことになります。
昭和3年(1928)11月25日に催された明大マンドリン倶楽部の第13回定期演奏会では、プロ歌手の佐藤千夜子が出演して、『波浮の港』など4曲を歌いました。
佐藤千夜子は、当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれて、出演を承知したのです。
彼女は、翌年6月の第14回定期演奏会にも出演し、『野薔薇』など4曲を歌いました。
このとき、古賀政男作曲の『影を慕いて』が、ギターの合奏で演奏されました。それを聴いて、政男の作曲の才能を見抜いた佐藤千夜子は、それを歌謡曲にすることを勧めました。
歌謡曲となれば、歌詞を作らなければなりませんし、歌詞が生きるようにメロディを編曲することも必要になります。なかなか思うような作品に仕上がらず、彼は悩みました。
そんな折、スペインの世界的ギター奏者アンドレアス・セゴビアが来日、政男は同年10月26日の演奏会を聴きに行きました。自伝によると、セゴビアの名演に酔いしれ、「その興奮が収まらないうちに、私は一気に『影を慕いて』の詞と曲を作り上げた」とあります。
歌詞は、失恋して自殺しようと青根温泉の山中をさまよったときの心情がモチーフになったようです。
できあがった曲は、昭和5年(1930)10月20日、佐藤千夜子の唄で録音され、日本ビクターから発売されました。ところが、このレコードは期待されたほど売れず、評判にもなりませんでした。B面だったことも影響していたかもしれません。
古賀政男は気落ちしましたが、この曲を聴いた日本コロムビアの営業マンが彼の才能に気づき、専属作曲家として引き抜きました。
そして、『影を慕いて』を、当時まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生だった藤山一郎に歌わせました。昭和7年(1932)3月にレコードが発売されると、空前の大ヒットとなり、以後、古賀政男は順調に花形作曲家の道を歩むことになります。