ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山音 二階堂ふみ 古関金子

 NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)が音楽挺身隊に参加し慰問をしているシーンが出てきました。

 主人公、古山裕一(窪田正孝)妻、音(二階堂ふみ)のモデル古関裕而の妻、金子さんの戦争中はどうであったのか。

古関金子は防空群長で大活躍

 音のモデル古関金子さんもドラマの音とそっくり、明るくて活発でした。金子さんも積極的に世田谷代田の地元の組織に入っては隣組をまとめていました。彼女は防空群長を務めていたのです。防空群長とは「10戸内外で1群を編成し、自衛防空(アメリカからの空襲に備える)こと」が役割でした。

 そのために彼女は隣組防空群での「(焼夷弾)落達場所ニ対スル包囲鎮滅」のための人員の配置を考え、アメリカ軍の空襲に備えての「実戦的訓練」では隣組の仲間とバケツで水を汲み、バケツリレーし消火する訓練を指示していました。

 また、金子は防空群長として警防団と一緒にメガホンを片手に町内を点検しました。「訓練警戒警報発令」と連呼し、「明かりがもれていますよ」と注意して回りました。

 「警防団の人だったらまたね、という感じだったんだけど、彼女に言われると声が美しすぎてすぐ明かりが漏れないようにしたものよ」

「鐘よ鳴り響け」古関裕而伝より

と言われていたようです。

なかなか古関金子さんらしいエピソードである。

古関裕而は「戦争中も折あるごとに歌っていた。警戒警報発令中でも、準備万端整えてからまっ暗な部屋で私の伴奏で歌ったりしていた。陸軍病院に慰問して歌ったこともある。だから彼女が体力の回復をはかることは歌のためであった。 」と語っています。

 陸軍病院は、隣町の太子堂にあった東京陸軍衛戌病院。代沢国民学校の学童たちも定期的にここに慰問に行っていました。

 彼女も慰問のため学童たちと病院に行って歌っていたようです。

■1945310日東京大空襲

 古関金子は「三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。」と語っています。

 防空群長の金子は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で12の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、家は焼けなかった。

 古関金子は「私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。」と語っています。

 1945年(昭和20年)310日の深夜008分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下しました。「東京大空襲」です。

 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となり、一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼりました。

 頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

 防空法では「空襲から逃げずに、焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とされていたのです。10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」の政府方針は変わらなかった。

 古関金子は政府の方針通り空襲に勇敢にも立ち向かい消化に成功したものの世田谷でなければ命を失くした可能性が高い。彼女は運が良かったようです。

 NHK連続ドラマ『エール』音(二階堂ふみ)は吟(松井玲奈)に連れられて、さぼりがちな婦人会に半ば強制的に参加することになるが、婦人会の班長、克子(峯村リエ)に圧倒されます。

 しかし、婦人会の班長たちはみんな白い割烹着(かっぽうぎ)ですね。今は白い割烹着を見ることはほとんどありませんが、昔のお母さんはみんな白い割烹着を着ていました。お母さんと言えば白い割烹着なんです。

割烹着とは

 割烹着は、衣服の汚れを防ぐために羽織って着るエプロンの一種。日本で考案されたもので、着物なの上から着用できます。

 赤堀割烹教場(1882年〈明治15年〉創立)の赤堀峯吉(初代、峯翁)が、受講者である良家の妻女のよそ行きの着物を保護するために考案したものです。

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大日本婦人会とは

 昭和期には白い割烹着は一般の主婦にすっかり浸透していました。1932年(昭和7年)に大阪で発足した国防婦人会は「国防は台所から」というスローガンを掲げ、千人針、出征兵士の見送り、廃品回収による献金、軍人遺族の慰問などの諸活動をおこなったが、そのトレードマークになったのが割烹着に襷掛(たすきがけ)という会服で、彼女たちは奉仕の場面だけではなく公式の場にも、割烹着姿で臆せずでかけていった。この会服は「着物競争」に陥りがちな愛国婦人会にくらべ、より広汎な大衆動員を可能にしたといえる。1941年(昭和16年)には愛国婦人会と大日本連合婦人会を吸収、統合して大日本婦人会となった。しかし、戦況が悪化し本土決戦が近づくと、それにそなえて大日本婦人会は解散、また、急速に物資が欠乏して木綿も入手できなくなったため、婦人の服装ももんぺ姿へと変わっていきます。

 それにしても日本のお母さま方はいつの時代も強いものですね。音さんは婦人会に圧倒されましたが、音さんが参加するグループではありません。

 しかし、白い割烹着の乙女たちはまさに

真白き富士の けだかさを

こころの強い 楯として

御国につくす女等(おみなら)

輝やく御代の山ざくら

地に咲き匂う 国の花♪

 古山裕一モデル古関裕而は日本の銃後の婦人のために作曲した「愛国の花」でした。

終わりに

 男が始めた戦争に女性が翻弄された被害者であっただけではない。戦争責任はないかもしれない。だが、銃後で旗を振り、兵隊さんを送り出したのは誰だったか。千人針を縫い、慰問袋を送り、出征兵士の留守家庭の妻の貞操を監視したのは誰だったか。そう意味では女も戦争の共犯者となった。それが戦争。

 しかし、国家総動員された戦争は歴史を見ると日本だけが悪いとかアメリカが正しいとか言うつもりはない。

 世界史は戦争の繰り返しである。人類はずっと戦いを続けてきた。次の戦争では人類が滅亡するのかも知れない。それでも人類は戦争をやめないのか?人類はただ愚かな存在でしかないのだろうか。

NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)こと古関裕而さんの奥様、音(二階堂ふみ)こと金子さんが甘い物好きでメロンパンを鞄にしのばせていたそうです。

ご主人の古関裕而さんも酒は飲まないが甘い物には目がない。

近所の香風の和菓子が大好物だったようです。

2人とも好みも同じで羨ましい夫婦ですね。


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さて、今日は奥様の大好物のメロンパンの話しです。

しかし、メロンパンを鞄にしのばせるとは面白いなと思いましたら、どうようなおこないが20年前にも流行っていました。

1998(平成10)頃、女子高生の間でメロンパンを通学カバンに入れていたブームがあったそうです。

なんとも不思議な現象。

女子高生の間ではメロンパンを鞄に入れると「メロンパンで幸せになれる」という噂が流れていました。

ひたすらカバンに入れておく派と、彼のことを考えながら食べれば両思いになれる派に分かれたようです。

まあ、いずれの世代でもメロンパンを好きな人は多いと思います。

ところでメロンパンのどこが「メロン」なのか?

考えてみるとメロンパンと言いながらメロンの味もしないパンがほとんど。

メロンパンのルーツを調べてみました。

メロンパンの由来

メロンパンの原型が日本で生まれたのは、大正の終わりから昭和の初め頃といわれています。

明治時代後期、広島のパン屋さんが最初に作ったと言われています。(諸説あり)


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当時のメロンパンは、今のような丸い形ではなく、アーモンドを縦に割ったような楕円形で、パン生地の上に乗せたビスケット生地の表面に、筋目を入れて焼いていました。

焼きあがった姿は、まるで「真桑瓜(マクワウリ)」にそっくり。

真桑瓜は、お盆のお供え物としてよく使われる、ウリ科の植物です。

当時、この食べ物こそが「メロン」と呼ばれていたため、そっくりなパンが「メロンパン」と名付けられた、という説が有力です。

大正時代に入ると、その真桑瓜型のメロンパンに対し、今度は丸い生地のパンが関西地方で売り出されました。名前は「サンライズ」。

まんまるで、日の出のような形だったことから付けられた名前です。

このサンライズ、よく見ると西洋から入ってきたマスクメロンにもそっくりです。

昭和の初期にはパン屋にはメロンパンがあった。

「ワールドホップス」というパンの原料メーカーの元社長である梅沢八郎という人物の証言を載せている。1927(昭和2)年には、たいていのパン屋にメロンパンがあり、当時からメロンパンと呼ばれていたそうです。

日本の菓子パンの歴史は「木村屋總本店」が1874年(明治7年)に発売したあんパンに始まり、同じく木村屋總本店が1900年(明治33年)に発売したジャムパン、1904年(明治37年)に「中村屋」が売り出したクリームパンと続いていく。

また1913年(大正2年)には東京で「丸十製パン」を創業した田辺玄平によって、ドライイーストが製造されるようになり、いろいろな種類の菓子パンが作られるようになる。

そうした菓子パンブームの中で、おそらくメロンパンも生まれたのだろうと想像されます。

メロンパンはカロリーが高い

ちなみにメロンパン1個は240キロカロリー。油で揚げてあるカレーパンでさえ220キロカロリーだ。ご飯1膳、チキンナゲット5個、肉じゃが1人前より、メロンパン1個のほうがカロリーが高い。

メロンパンが好きだと言って食べ過ぎには注意しましょう。

 

NHK連続ドラマ『エール』放送休止になってなんだか随分と経ってしまいました。早く本放送が始まらないか待ち遠しいものです。

NHKより「本放送の再開時期については、決まりしだいお知らせいたします。ご理解のほど、何卒よろしくお願いいたします。」とのこと、まだ待つしかないみたいですね。

ところで、古山音(二階堂ふみ)モデル古関金子さん子供を生んで家庭に入り、声楽を辞めたみたいですが、もうやらないのでしょうか。

音さんの性格からすると「そんなことないわよ」「夢はあきらめない」ってなると思うんですが。

古山音(二階堂ふみ)モデル古関金子声楽再開

戦後の1946(昭和21)526日に日本初の国際的オペラ歌手・三浦環が死去します。

古関金子は尊敬する三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開した。

古関金子の歌声は評価が高く、夫・古関裕而は関係者から「奥さんの為に曲を作るべきだ」と助言されており、オペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」を作った。

この3作は、古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演で、昭和24年から昭和25年にかけてNHKで放送され、好評を得ます。

奥さんのために曲を作ったご主人古関裕而もほんとうに優しい人ですし古関金子さんも子育てをしながら音楽の道を進んでいった姿は立派だなと思います。

終わりに

NHK連続ドラマ『エール』が再開し古山音(二階堂ふみ)さんが史実の古関金子さんのようにラジオでオペラを歌ってもらえるのかどうか。

また、音(二階堂ふみ)さんの美しいオペラを聴きたいものですね。

NHK連続ドラマ『エール』このドラマ、主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而、5000曲以上も作曲した人生にドラマでは共感したり、感動したり、また周りの友人や同僚たちにも興味をもったり

が、特に印象に残るのやはり、ドラマの中の女性たちの行動力だったり発言だったり。

特に古山音(二階堂ふみ)モデル古関金子、双浦環(柴咲コウ)モデル三浦環の強烈なキャラクターの行動や姿勢がドラマに面白さを加えています。

この時代にこんな女性がいたんだと思うだけで興味津々になりました。

音楽界でこの時代の人物でドラマに俳優はまだ登場していませんが強烈なキャラクターの持ち主がいます。

渋谷より子()モデル淡谷のり子です。

どんなに強烈かって、古関金子(二階堂ふみ)のキャラを倍にした感じですね。

強烈キャラ淡谷のり子

1937(昭和12)77日、盧溝橋事件を機に日中全面戦争が始まる。

生産力を軍需に集中させるため、政府は1938(昭和13)41日に国家総動員法を施行し、生産活動を全面的に統制するようになる。

企画院官僚による立案で、一種の社会主義政策、統制経済システムが完成した。

思想・文化統制も強化され、帝国日本にふさわしくない軟弱な音楽は摘発されていった。

国策遂行上、有害な音楽・芸能だと当局が認めると、次々に姿を消していったのである。

1940(昭和15)には情報局が設立され、検閲も強化される。

1937(昭和12)淡谷のり子の「別れのブルースが大ヒット。1937年はもう1曲「私のトランペット」を発売している。翌38年には「雨のブルース」「思ひ出のブルース」、39年「たそがれの小鳥」「誕生日の午後」「東京ブルース」服部良一と淡谷のり子の作品は絶大な人気があった。

しかし、情報局にとっては有害だった。

淡谷のり子のコンサートには警察官が入り込み、何度も呼び出されて処分されたのだそうだ。

淡谷のり子

【昭和十三年(1938)に、一〇年目になって、『私の好きな歌をうたう夕べ』というのを、日比谷公会堂でやった。自分の好きな歌を、じゃんじゃんうたえばいいという、この企画が、嬉しくてたまらず、自分で演出から何から全部やってしまった。/何しろもう戦争が始まっていたので、ステージに花など飾ってはいけないという『軍』のお達しが出ていたというのだが、ええ構うことはない、飾ってしまえということで、景気よく皆飾りつけて、花に埋まったステージで、私は思う存分うたいまくった。/音楽会はものすごく成功したのだが、たちまち警察に呼び出された。第一、花が多すぎる……この非常時にというのだ。『そんなゼイタクなことをしちゃいけない』/で、警視庁でまた始末書を書かされる破目になった】

と語っている。

歌に生き、恋に生きたブルースの女王、歌手・淡谷のり子。津軽弁で「からきじ」と呼ばれる強情っぱり青森有数の大店に生まれた淡谷のり子は、やりたいことがあると絶対に意思を曲げない「からきじ」だった。

生家の没落の後、母と妹ときのみきままで上京。東京で「歌」という生きがいを見つ けたものの、その前には想像を絶する困難が次々に降りかかる。

そこで、のり子は「からきじ」魂を発揮し、文字通り体を張って現実を打破していく。

「からきじ」魂もここまでくると見事なものです。

淡谷のり子の強情で頑固で全く生き方を変えない人生に清々しさまでも感じるのでした。

終わりに

NHK連続ドラマ『エール』は中段して以前の分の再放送になっています。

いつ始まるのかわかりませんが、出来ましたら渋谷より子()モデル淡谷のり子の登場で女性たちのさらなる活躍を観たいものだと思います。



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