ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山音 二階堂ふみ 古関金子

 NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)は オペラ「ラ・ボエーム」の稽古で、皆と明らかな実力の差を感じた音は、追いつこうと努力するが、どうしてもうまくいかない。ついに舞台を断念します。

 音のモデル古関金子も理由は違いますが、声楽を断念しています。

 古関裕而の妻、金子は、1946(昭和21)7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれてから、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、1949(昭和24)より放送された古関作曲の3篇の放送オペラ『朱金昭』(チュウ・チン・チョウ)、『トウランドット』『チガニの星』は古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演でNHKで放送を最期に声楽から引退しました。

 ドラマと違って声楽の才能は認められていたのですが子育てにて、あきらめざるを得なかったようです。

 古関裕而は「妻は次第に家庭的に忙しくなり、残念ながら歌を歌う機会を逸してしまうが、家庭を守りながらも、私の仕事のよき理解者であり、よきアドバイザーであった」

と言っていました。

 しかし、家に閉じこもっていないのが古関金子さんです。

 昭和26年に投資信託が始まり、投資信託が大きな注目を浴びていた頃。

 古関金子は1952(昭和27)、山一證券の渋谷支店で投資信託をはじめて購入しました。

 それが、おりからの朝鮮戦争の特需もあって、大当たりしました。

金子さん音楽以外の別の楽しみを見つけたのです。

 それをきっかけに、金子は自分でも直接株を買うようになり、なんと半年で100万円ほどの利益をあげてしまいました。

 小学校教員の初任給が、6000円弱だった時代の話です。

 これで金子は、すっかり株取引の虜になってしまいました。

試行錯誤を重ねながら、やがて婦人   投資家として成功。金融メディアにも盛んに登場して、「百戦錬磨の利殖マダム」などともてはやされるようになりました。

 しかし、1953(昭和28)3月のスターリン・ショックによる暴落で、儲けを全て吐き出し、さらに10万円も損をしてしてしまった。

 普通の人は、ここで止めてしまうのだが、古関金子は人任せにしたのが間違いだったと思い、本気で株式投資の勉強を開始した。

 実際の成績は不明だが、長期的には株価は右肩上がりの時代に、古関金子は信用取引も行っていたようなので、相当な利益を出していたとも言われる。

 古関金子「確実なものとしては東芝、三菱造船、それから割合資本金の少いものとして、新春から妙味のあるものは、これは沢山あって選ぶのも大変ですが、まあヂーゼル機器、関西ペイント。資本金の少い方ではありませんが、三菱電機、松下電産などのトランジスター関係、それからソニー、特にビデオテープ、あれには大変興味を持っております。第一ホテルやコロムビアも安値で拾って間違いないんじゃないでしょうか。」と述べています。

「婦人投資家新春放談」『日本証券新聞』195911日付より

 さすが古関裕而の奥様、金子さんはパワフルレディでした。

 本人の語るところによれば、1960年代初頭には、「株式新聞」「日本経済新聞」「株式市場新聞」「暮らしと利殖」、山一の「週報」「特別ニュース報」、野村の「速達ニュース」、日興の「マネービル新聞」、大商の「投資ウィークリイ」などに目を通し、週に4回のペースで、証券会社に通っていたそうです。

 ご存知のとおり、その後の高度経済成長により、日本の株価はぐいぐい伸びていきます。さきほど上げられている株も優良なものが多いですから、金子はある程度、投資で成功していたのでしょう。

 もっとも、金子も最初は株取引に抵抗感があったようです。芸術家の自負もあり、「なんとなく下俗」に感じていたのだとか。ところが、そんな気持ちは、巨額の利益の前に吹き込んでしまいました。そしてついに「株は芸術なり」と宣言するにいたるのです。

 自分が楽しんでいますこの頃では、「株は芸術なり」と云って憚りません。

出典:古関金子「株は芸術」『週刊株式』創刊号より

 古関裕而の奥様は音楽から、いつのまにか金融の世界に入っていたようです。

 NHK連続ドラマ『エール』では音が株をやっていたなんてドラマになることはないとは思いますが、なんでもとことんやらなければ気のすまないのが音さん古関金子の性格だったようです。

 NHK連続ドラマ『エール』の主人公古山裕一の妻(二階堂ふみ)音はオペラ「ラ・ボエーム」の稽古で、皆と明らかな実力の差を感じた。

 稽古後も、ベルトーマス先生(広岡由里子)とのレッスンや自つさかお宅での練習で必死にがんばるが、てもうまくいかない。

 音楽の才能に悩む音の姿がドラマでは展開しました。

 実際の音のモデル、古関裕而の妻、金子の戦後はどうだったんでしょうか。

古関金子の戦後

 古関金子は戦後の昭和21526日に日本初の国際的オペラ歌手・三浦環が死去すると、古関金子は尊敬する三浦環の意思を引き継ぎ、声楽の勉強を再開しました。

 そうなると金子は声楽の道に一直線。

 古関裕而が自分たち夫婦のことを「ウルトラ夫婦」と言っていたが、妻の声楽の才能も夫に負けてはいなかった。

 しかも夫とは違って社交的ときています。

 古関裕而より妻金子の方がパワーがあったのです。

 負けず嫌いの妻、金子は弱音を吐くことはありません。

音のモデル古関金子の真の姿

 ここに息子、古関正裕さんの証言があります。長くなりますが引用します。

(古関裕而と妻金子)は昭和6年に、世田谷代田に家を構えます。

当時近くに帝国音楽学校という音楽学校があり、金子はそこでベルトラメリ能子(よしこ)に師事し、本格的に声楽の勉強を始めます。当時一緒に声楽を勉強していた学生に、後に歌手になる伊藤久男がいたほか、ベルトラメリ能子の門下生には蘆原邦子もいました。

母の声楽の才能は抜きん出ていて、その声は中山晋平にも絶賛されていたようです。

ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子で、カヴァレリア・ルスティカーナとかトスカとかの舞台を踏んだようです。

戦後、私が生まれると、子育てに専念するために声楽を止めたので、私は母がよく歌っていたのは覚えています。』

 息子さんの証言が一番真実なのではないかと思います。

 古関金子さんの名誉のためにも「古関金子の声楽の才能は誰にも負けることはなかった。」と主張します。

 ドラマでは、他の声楽歌や音楽に対する音の悩みを描いてますが、これは脚本家の演出だと思います。

 ドラマでは有名な作曲家、古山裕一の妻だからオペラの主役に選ばれたと言うことにもなっていますが、モデル古関金子に関して、またオペラの世界では、そんなことはありません。

 頑張れ音!モデル古関金子は才能溢れた人。モデルに早く近づけ音!と応援したくなりました。

 オペラは実力の世界、そんな甘い世界ではないのです。

 真に音楽関係者からの古関金子の歌声は評価が高かったのです。

 音楽関係者から夫・古関裕而に「奥さんの為に曲を作るべきだ」と助言されて古関裕而はオペラ「朱金昭」「トウランドット」「チガニの星」を3編を作りました。

 昭和24年から昭和25年古関作曲の3篇の放送オペラ『朱金昭』(チュウ・チン・チョウ)、『トウランドット』『チガニの星』は古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演でNHKで放送され、多くの方から好評を得ています。

 NHK放送オペラとして全国放送され古関裕而さんの二人で一つの作品を作り上げると言う夢が かないます。

 古関裕而と金子さん夫妻二人で寄り添い作った人生の集大成となりました。

 しかし、古関金子は、昭和217月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれてから、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、オペラ3作を最期に声楽から引退しました。

 オペラ歌手、三浦環はオペラのために人生を捧げました。古関金子は家族のためにオペラから引退しています。

 どちらが幸せかは、わかりませんが、三浦環にとっては、古関金子にとっては、その選択が人生にとって最良のチョイスだったのでしょう。

 NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)が音楽挺身隊に参加し慰問をしているシーンが出てきました。

 主人公、古山裕一(窪田正孝)妻、音(二階堂ふみ)のモデル古関裕而の妻、金子さんの戦争中はどうであったのか。

古関金子は防空群長で大活躍

 音のモデル古関金子さんもドラマの音とそっくり、明るくて活発でした。金子さんも積極的に世田谷代田の地元の組織に入っては隣組をまとめていました。彼女は防空群長を務めていたのです。防空群長とは「10戸内外で1群を編成し、自衛防空(アメリカからの空襲に備える)こと」が役割でした。

 そのために彼女は隣組防空群での「(焼夷弾)落達場所ニ対スル包囲鎮滅」のための人員の配置を考え、アメリカ軍の空襲に備えての「実戦的訓練」では隣組の仲間とバケツで水を汲み、バケツリレーし消火する訓練を指示していました。

 また、金子は防空群長として警防団と一緒にメガホンを片手に町内を点検しました。「訓練警戒警報発令」と連呼し、「明かりがもれていますよ」と注意して回りました。

 「警防団の人だったらまたね、という感じだったんだけど、彼女に言われると声が美しすぎてすぐ明かりが漏れないようにしたものよ」

「鐘よ鳴り響け」古関裕而伝より

と言われていたようです。

なかなか古関金子さんらしいエピソードである。

古関裕而は「戦争中も折あるごとに歌っていた。警戒警報発令中でも、準備万端整えてからまっ暗な部屋で私の伴奏で歌ったりしていた。陸軍病院に慰問して歌ったこともある。だから彼女が体力の回復をはかることは歌のためであった。 」と語っています。

 陸軍病院は、隣町の太子堂にあった東京陸軍衛戌病院。代沢国民学校の学童たちも定期的にここに慰問に行っていました。

 彼女も慰問のため学童たちと病院に行って歌っていたようです。

■1945310日東京大空襲

 古関金子は「三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。」と語っています。

 防空群長の金子は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で12の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、家は焼けなかった。

 古関金子は「私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。」と語っています。

 1945年(昭和20年)310日の深夜008分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下しました。「東京大空襲」です。

 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となり、一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼりました。

 頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

 防空法では「空襲から逃げずに、焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とされていたのです。10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」の政府方針は変わらなかった。

 古関金子は政府の方針通り空襲に勇敢にも立ち向かい消化に成功したものの世田谷でなければ命を失くした可能性が高い。彼女は運が良かったようです。

 NHK連続ドラマ『エール』音(二階堂ふみ)は吟(松井玲奈)に連れられて、さぼりがちな婦人会に半ば強制的に参加することになるが、婦人会の班長、克子(峯村リエ)に圧倒されます。

 しかし、婦人会の班長たちはみんな白い割烹着(かっぽうぎ)ですね。今は白い割烹着を見ることはほとんどありませんが、昔のお母さんはみんな白い割烹着を着ていました。お母さんと言えば白い割烹着なんです。

割烹着とは

 割烹着は、衣服の汚れを防ぐために羽織って着るエプロンの一種。日本で考案されたもので、着物なの上から着用できます。

 赤堀割烹教場(1882年〈明治15年〉創立)の赤堀峯吉(初代、峯翁)が、受講者である良家の妻女のよそ行きの着物を保護するために考案したものです。

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大日本婦人会とは

 昭和期には白い割烹着は一般の主婦にすっかり浸透していました。1932年(昭和7年)に大阪で発足した国防婦人会は「国防は台所から」というスローガンを掲げ、千人針、出征兵士の見送り、廃品回収による献金、軍人遺族の慰問などの諸活動をおこなったが、そのトレードマークになったのが割烹着に襷掛(たすきがけ)という会服で、彼女たちは奉仕の場面だけではなく公式の場にも、割烹着姿で臆せずでかけていった。この会服は「着物競争」に陥りがちな愛国婦人会にくらべ、より広汎な大衆動員を可能にしたといえる。1941年(昭和16年)には愛国婦人会と大日本連合婦人会を吸収、統合して大日本婦人会となった。しかし、戦況が悪化し本土決戦が近づくと、それにそなえて大日本婦人会は解散、また、急速に物資が欠乏して木綿も入手できなくなったため、婦人の服装ももんぺ姿へと変わっていきます。

 それにしても日本のお母さま方はいつの時代も強いものですね。音さんは婦人会に圧倒されましたが、音さんが参加するグループではありません。

 しかし、白い割烹着の乙女たちはまさに

真白き富士の けだかさを

こころの強い 楯として

御国につくす女等(おみなら)

輝やく御代の山ざくら

地に咲き匂う 国の花♪

 古山裕一モデル古関裕而は日本の銃後の婦人のために作曲した「愛国の花」でした。

終わりに

 男が始めた戦争に女性が翻弄された被害者であっただけではない。戦争責任はないかもしれない。だが、銃後で旗を振り、兵隊さんを送り出したのは誰だったか。千人針を縫い、慰問袋を送り、出征兵士の留守家庭の妻の貞操を監視したのは誰だったか。そう意味では女も戦争の共犯者となった。それが戦争。

 しかし、国家総動員された戦争は歴史を見ると日本だけが悪いとかアメリカが正しいとか言うつもりはない。

 世界史は戦争の繰り返しである。人類はずっと戦いを続けてきた。次の戦争では人類が滅亡するのかも知れない。それでも人類は戦争をやめないのか?人類はただ愚かな存在でしかないのだろうか。

NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)こと古関裕而さんの奥様、音(二階堂ふみ)こと金子さんが甘い物好きでメロンパンを鞄にしのばせていたそうです。

ご主人の古関裕而さんも酒は飲まないが甘い物には目がない。

近所の香風の和菓子が大好物だったようです。

2人とも好みも同じで羨ましい夫婦ですね。


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さて、今日は奥様の大好物のメロンパンの話しです。

しかし、メロンパンを鞄にしのばせるとは面白いなと思いましたら、どうようなおこないが20年前にも流行っていました。

1998(平成10)頃、女子高生の間でメロンパンを通学カバンに入れていたブームがあったそうです。

なんとも不思議な現象。

女子高生の間ではメロンパンを鞄に入れると「メロンパンで幸せになれる」という噂が流れていました。

ひたすらカバンに入れておく派と、彼のことを考えながら食べれば両思いになれる派に分かれたようです。

まあ、いずれの世代でもメロンパンを好きな人は多いと思います。

ところでメロンパンのどこが「メロン」なのか?

考えてみるとメロンパンと言いながらメロンの味もしないパンがほとんど。

メロンパンのルーツを調べてみました。

メロンパンの由来

メロンパンの原型が日本で生まれたのは、大正の終わりから昭和の初め頃といわれています。

明治時代後期、広島のパン屋さんが最初に作ったと言われています。(諸説あり)


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当時のメロンパンは、今のような丸い形ではなく、アーモンドを縦に割ったような楕円形で、パン生地の上に乗せたビスケット生地の表面に、筋目を入れて焼いていました。

焼きあがった姿は、まるで「真桑瓜(マクワウリ)」にそっくり。

真桑瓜は、お盆のお供え物としてよく使われる、ウリ科の植物です。

当時、この食べ物こそが「メロン」と呼ばれていたため、そっくりなパンが「メロンパン」と名付けられた、という説が有力です。

大正時代に入ると、その真桑瓜型のメロンパンに対し、今度は丸い生地のパンが関西地方で売り出されました。名前は「サンライズ」。

まんまるで、日の出のような形だったことから付けられた名前です。

このサンライズ、よく見ると西洋から入ってきたマスクメロンにもそっくりです。

昭和の初期にはパン屋にはメロンパンがあった。

「ワールドホップス」というパンの原料メーカーの元社長である梅沢八郎という人物の証言を載せている。1927(昭和2)年には、たいていのパン屋にメロンパンがあり、当時からメロンパンと呼ばれていたそうです。

日本の菓子パンの歴史は「木村屋總本店」が1874年(明治7年)に発売したあんパンに始まり、同じく木村屋總本店が1900年(明治33年)に発売したジャムパン、1904年(明治37年)に「中村屋」が売り出したクリームパンと続いていく。

また1913年(大正2年)には東京で「丸十製パン」を創業した田辺玄平によって、ドライイーストが製造されるようになり、いろいろな種類の菓子パンが作られるようになる。

そうした菓子パンブームの中で、おそらくメロンパンも生まれたのだろうと想像されます。

メロンパンはカロリーが高い

ちなみにメロンパン1個は240キロカロリー。油で揚げてあるカレーパンでさえ220キロカロリーだ。ご飯1膳、チキンナゲット5個、肉じゃが1人前より、メロンパン1個のほうがカロリーが高い。

メロンパンが好きだと言って食べ過ぎには注意しましょう。

 

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