ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山裕一 窪田正孝 古関裕而

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)についに赤紙が届きました。

 ドラマの主人公、古山裕一の史実モデル古関裕而にも終戦間近の1945 (昭和20)に赤紙が届いています

古関裕而と赤紙

 1945年(昭和20年)3月硫黄島でのアメリカ軍と死闘を繰り広げた栗林忠道陸軍大将が指揮した硫黄島がついに陥落します。

 古関裕而は栗林忠道大将を知っていました。1940年映画「暁に祈る」の主題歌を依頼したのが陸軍省馬政局、栗林忠道課長でした。

 その報告を古関裕而は聞いて、彼が作曲を依頼してきた当時を思い出して悲痛な気持ちになるのでした。

その数日後、赤紙こと召集令状が古関の元にも届きます。

 「横須賀海兵団に入団せよ」これには古関裕而も家族も驚きました。彼は既に36歳になっていました。

しかも兵役につく為の身体検査で

古関は丙種でした。丙種は、甲乙丙のうちでも最低ランク。甲(こう)種、第一乙(おつ)種、第二乙種以上合格。丙(へい)種身体上に欠陥があり補欠要員であった。まず召集はされません。しかも年齢は36歳と高齢です。兵士といえば、20前後が主力。36歳ともなれば老兵であり、新兵で召集するのもなんだかへんです。

 しかし、この時期の日本には全く余裕はありません。兵役に適合しない者も次々と兵役の赤紙が届いたのでした。

 古関裕而としては軍部より『特幹練の歌』の作曲も依頼されていたばかりですし、不思議に思い海軍人事局に聞いてみました。作曲家、古関裕而の本名は古関勇治です。

海軍人事局の担当

 「福島連隊区司令部が、本名の古関勇治に気づかなかったのでしょう。一度出した召集令は取り消せませんが、『特幹練の歌』にも取り組んでおられますし、体験として少し入団なされてはいかがですか。召集解除しておきましょう」

と言われました。

 軍部に作曲活動で貢献している人を「古関勇治」という本名のゆえに、あの高名な作曲家だと認識せずに徴兵してしまう日本の軍部の組織も問題があるようです。古関裕而は数か月ほど徴兵されて除隊を許され、ふたたび作曲に専念することになります。

 しかし、古関裕而の兵役は家族にとっても大変な出来ごとでした。古関裕而の妻、金子は「私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。」と語っています。

NHK連続ドラマ『エール』では太平洋戦争に突入し、主人公古山裕一も音も生活がだんだん苦しくなり、音楽も自由に歌ったりする雰囲気ではなくなりました。

 日本中が戦争に巻き込まれてしまって、もう個人のことなど考える余裕がなくなっていたのです。

戦争の相手国アメリカはどうだったのか。 

 自由の国、人権のある国アメリカですから日本とは違って個人の人権や自由が守られていたのかと思いましたがどうもそうではなかったようです。

アメリカに住む日系人

 太平洋戦争中、アメリカ西海岸に住むおよそ12万人の日系人が住む家を追われました。わずかな手荷物を持っただけで列車に乗せられ、行先も告げられず強制収容所に収容されたのです。収容所は人里離れた砂漠地帯などにあり、夏は暑く、冬は凍てつく寒さだったと言います。

収容された日系人

「冬はとても寒かった。暖房用の石炭を外まで取りに行かされました」

「監視兵の銃口は我々にむけられていた。逃げ出さないようにね」

日系人の強制収容は、アメリカの歴史に残る悲劇のひとつでした。

 真珠湾攻撃の後、日系人が日本軍の手引きをしているというデマが広がった。アジア系移民、とりわけ日本からの移民に対する差別や偏見がありました。黒人や黄色人種への差別は昔も今もアメリカには残っています。

 戦後1983年になって連邦議会の調査委員会は「日系人の強制収容は、人種偏見と日本人への行き過ぎた警戒心、そして政治指導者の誤りが招いたものだ」と結論づけています。

アメリカ国籍の日系人も強制収容

 アメリカの軍当局が日系人の立ち退きを命じた掲示にはAll Persons of Japanese Ancestry =日本人を祖先にもつすべての人々、と書かれています。つまり、アメリカ国籍をもつ日系人も強制収容されたのです。

 日本生まれの日系1世はアメリカ国籍を取ることができませんでしたが、強制収容された日系人の3分の2はアメリカに生まれの日系2世、つまりアメリカの市民権をもつアメリカ国民でした。日本人のルーツを持つというだけで危険視され強制収容所に入れられたのです。

あるアメリカ国籍を持つ日系人

 タカシ・ホシザキさん(93)。カリフォルニア州にあった自宅を追われ、ロッキー山脈の麓に建てられたワイオミング州ハートマウンテン収容所に収容されました。収容された日系人達にはさらなる試練が待ち構えていました。

 それは忠誠登録と呼ばれる調査です。収容所の日系人は、次のような質問に「イエス」か「ノー」か答えるよう求められたのです。「あなたはアメリカ軍の兵士として戦う意思があるか」「アメリカ合衆国に忠誠を誓い、天皇や日本政府の命令に従わないことを誓うか」アメリカ人としての忠誠心を問うこの調査は、日系人社会に大きな亀裂をもたらしました。

「イエス」と返答

 「イエス」と答えたアメリカの市民権をもつ日系人は、アメリカへの忠誠を示すために徴兵に応じてアメリカ軍に入隊し戦地に赴きました。

 なかでも有名なのが日系人によって構成された第442部隊です。442部隊はヨーロッパ戦線でドイツ軍と交戦し数多くの犠牲者を出しました。フランスの北部でドイツ軍に包囲され孤立していた200人あまりのテキサス兵を救出した作戦では、200人を超える日系人兵士が死亡し、600人あまりが手足を失う犠牲を出しながらも救出に成功し、勇敢な部隊としてその名を轟かせました。アメリカ軍の兵士として危険な戦地で命をかけて戦うことでアメリカ市民としての忠誠心を示したのです。

「ノー」と返答

 「ノ-」と答えた人達はより環境の悪い収容所に移されたり、投獄されたりしたのです。先ほどのホシザキさんもそのひとりでした。ホシザキさんが収容されていたハートマウンテン収容所では組織的な徴兵拒否運動が展開されていました。ホシザキさんは62人の仲間とともに徴兵を拒否し徴兵忌避罪に問われて有罪判決を受け、およそ2年間にわたって刑務所生活を強いられました。

 彼の兵役拒否の理由は「アメリカ合衆国憲法で保障されている権利を完全に無視されたのです。法律は無視され日系人の財産が奪われました。裁判もなしに強制収容所に入れられたのです。アメリカ政府は憲法を完全に無視したのです」.「自分達は憲法で保障されている自由を奪われ強制収容されている。それなのになぜ徴兵に応じなければならないのか」それが徴兵を拒否した理由だったというのです。

その後のタカシ・ホシザキさん

 日系人の442部隊が英雄として賞賛を浴びたのとは対照的に、徴兵を拒否したホシザキさん達の行動はアメリカに忠誠を誓おうという日系人からは裏切り行為と見做されました。

 徴兵を拒否した人達が、日系人団体と和解し名誉を回復したのは戦後60年以上が経ってからでした。

 戦後、恩赦を受けて刑務所から釈放されたホシザキさんは、朝鮮戦争では徴兵に応じて従軍、その後、大学で博士号を取得し科学者としての人生を歩みました。

国を愛するとは何なのか?

 日系人の強制収容から79年、移民や難民、外国人など、異なる文化をもった人達に対する寛容さを失いつつある風潮は、今、アメリカに留まらず世界各地に広がっています。

ホシザキさんは、日系人の強制収容は過去の出来事ではない、今にも通じる問題だと言います。

 強制収容所で徴兵を拒否した日系人がいたことは、日本ではもちろんアメリカでもほとんど知られていません。ホシザキさんら強制収容を経験した日系人の証言は、祖国とは何か、国を愛するとはどういうことなのかを、今の私達に問いかけているように思います。

 アメリカに中華街はあるが日本街は見当たらないのは太平洋戦争で日系人の不動産や財産を彼らが強制収容所に送られる前に手放さざるを得なかった上に、日系人は大戦後も残る日本への反感の中で、アメリカに同化して暮らさざるを得なかったからである。

NHK連続ドラマ『エール』では戦争が激しさを増すにつれ、日本は次第に苦境に立たされて食料の配給も少なくなり、音(二階堂ふみ)も日々の食事づくりに苦労するようになります。

 1940年(昭和15年)5月になされた閣議決定「消費規正に関する件」に基づき、翌月から配給制が導入されました。国からの配給があったのではとおもわれますが、配給券は配られましたが食料品はまわってきませんでした。

 戦争のため軍隊に食料品がまわされ国民のところに届ける食料はなくなっていたのです。

 食糧不足が深刻になった1943(昭和18)年ごろから庭の一部を利用して野菜やイモを栽培さいばいする家庭菜園作りが盛んになりました。学校の校庭でも、イモやカボチャを栽培しました。

   また、代用食といって、白米やパンなどの主食にかわる食事が、政府によって奨励しょうれいされました。まず、米・麦に代わり殿粉でんぷん・トウモロコシ・コウリャンが代用食として配給されました。さらに食糧事情が悪化すると、イモのつるや葉・カボチャの種まで代用食として食べられました。主なものには、「おから饅頭まんじゅう」「どんぐりパン」、稲藁いなわらを粉末にしてこれに小麦粉や海藻かいそうなどを混ぜてつくる「パン」、食べられる野草をまぜた「草だんご」などがありました。これら代用食でさえ人々はおなかいっぱいに食べることができなかったのです。

 さあて食料不足の中、音はどんな工夫をして裕一や娘の華に食事を食べさせるのかなんだか見ものですね。

 古山裕一さんと音のお隣りの喫茶バンブーも食料難です。たいへんです。

喫茶バンブーもコーヒー豆がありません。

 1938(昭和13)にはコーヒー豆が輸入規制の対象となり、太平洋戦争が始まると同時に品薄状態になります。さらには1944(昭和19)に完全に輸入停止になってしまい、コーヒー豆がありません。喫茶店でコーヒー豆がなければ店を開けられません。ところが、太平洋戦争中はコーヒー豆がなくて、別の物を使った「代用コーヒー」なるものが飲まれたそうです。

「代用コーヒー」

 「代用コーヒーの原料としてはタンポポの根、ゴボウ、ジャガイモ、サツマイモ、百合根、サクラの根、カボチャの種、ブドウの種、ピーナッツ、大豆、ドングリ、アーモンド、オオムギ、トウモロコシ、チコリ、玄米、根セロリ、パンの耳、綿の種子、オクラの種子など。これらはたいてい煎ったものを粉末にし、お湯を注いで飲んだ。

 焙煎により、コーヒーに似た風味があるために「コーヒー」という名称はついていますが、もちろん原料でコーヒー豆は使われていません。

そのため、コーヒーが苦手、カフェイン摂取を控えたいという方にも愛用されています。

たんぽぽコーヒー

 名前の可愛いたんぽぽコーヒーが代用で良く使われたようです。

たんぽぽコーヒーの見た目や風味は、コーヒーに似ているといわれます。

 キャラメルのような独特の甘みもあり、牛乳を入れるとカフェオレのような味わいにすることもできます。特にたんぽぽコーヒーは、ちようど麦茶とコーヒーの中間みたいな味します。

終わりに

 NHK連続ドラマ『エール』古山裕一と音や佐藤久志、野村鉄男の音楽の活躍も面白いですが、戦争中にどんなものを食べたのかも非常に気になるところですね。

NHK連続ドラマ『エール』では昭和16年、太平洋戦争が始まりました。

 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」1941(昭和16)1285時太平洋戦争開戦した旨、大本営のからの「大本営発表」臨時ニュースを日本放送協会(NHK)のアナウンサーが読み上げていました。

 日本軍は真珠湾攻撃 を始めたが、夜の午後820分から「ニュース歌謡」と称して「宣戦布告」(野村俊夫作詞・ 古関裕而作曲・伊藤久男歌)「太平洋の凱歌」(日本詩曲連盟作詞・伊藤昇作曲・霧島昇歌)が放送されてました。大本営から発表される「大戦果」の都度作詞・作曲家を待機させて対応し、国民 の士気を鼓舞したのです。

 翌日(129日)以後も「太平洋の凱歌」、「香港陥落」「陥ちたぞマニラ」などの歌が矢継ぎ早に作詞、作曲され一流歌手の歌唱で全国に放送されました。もうラジオは戦時一色。

 このような時期、「軍歌の覇王」と呼ばれた古関裕而と同様、NHK連続ドラマ『エール』でも主人公古山裕一も戦時歌謡を手掛けるほか、戦果を伝えるニュースとともに流すためのニュース歌謡の作曲にも携わり、忙しい日々を送っていました。佐藤久志(山崎郁三郎)は福島に帰郷して慰問活動、鉄男(中村蒼)は再び新聞記者としての仕事に追われ、3人での活動も休止となりました。そんななか、久志のもとに召集令状が届いたのです。

伊藤久男に赤紙のその後

 佐藤久志のモデルは伊藤久男です。彼には太平洋戦争も後半、1952(昭和18)赤紙が届きます。ただラッキーなことに痔の悪化で入院した病院の医師が伊藤のファンで、その計らいで、軍役を解かれています。その後、故郷の福島へ疎開。吹き込みや慰問時の度ごとに東京に出て来ていました。1954(昭和20)慰問先の山形で伊藤久男は終戦を迎えています。

 これが史実のモデル伊藤久男さんの赤紙のその後なんですが、NHK連続ドラマ『エール』では佐藤久志役は山崎郁三郎さんです。流石に山崎さんが痔だったなんてシーンは出て来ないと思います。

古関裕而にも赤紙

 1945 (昭和20)3月、硫黄島が陥落し、その数日後に古関の元へ赤紙が届きました。古関裕而さん36歳の時です。当時、36歳は老兵であったため、日本軍が逼迫した状況であったのを物語っております。

 そして、古関は横須賀海兵団に派遣されます。同年8月に終戦となります。

 古関裕而は軍歌やニュース歌謡も次々と作曲しあんなにも軍部に協力したのに最後は赤紙が届いたのです。

赤紙の拒否

 赤紙と呼ばれていた召集令状は、国からの、命令書です。拒むことは、できませんでした。

 兵役法によれば、兵役を免れるために逃亡し、または身体を毀傷し、詐病、その他詐りの行為をなす者は3年以下の懲役、現役兵として入営すべき者が正当の事由なく入営の期日から10日を過ぎた場合は6月以下の禁錮に処せられ、戦時は5日を過ぎた場合に1年以下の禁錮、正当の事由なく徴兵検査を受けない者は100円以下の罰金に処せられるとされていました。

 この時代、兵役拒否は至難の技でした。福島三羽烏も時代の波に大きくのまれるしかありませんでした。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)の恩師・藤堂先生(森山直太朗)が出征することが明らかに。生徒だった「福島三羽ガラス」古山裕一、村野鉄男、佐藤久志3人と再会したものの「みんなとは、楽しい思い出ばっかりだ。本当に幸せな教師生活だったよ」。今生の別れを告げるようでした。

 小さい頃の三羽烏それぞれが 藤堂先生がいたから今がある 優しい藤堂先生のおかげですと想いを告げる。

なんとも感動のシーンでした。

 でも、ちょっと待って下さい。水をさすようで悪いのですが、藤堂先生っていったい何歳なんですか?

藤堂先生っていったい何歳?

 小学生の時(10歳前後)の先生ですから、その時先生は少なくとも20歳以上の年齢だと思われます。そうすると小学生の時(10歳前後)より20年程経過してますから、藤堂先生は40歳は少なくとも超えているはずです。

 藤堂先生モデルだった佐藤喜美治先生は1891年生まれ、『暁に祈る」の1940年の時は既に49歳になっていました。もういい年です。

 明治の徴兵の条件として、徴兵令 第一章 総則 第一条 全国の男子年齢満十七歳より満四十歳迄の者は総て兵役に服す可きものとする。 というわけで17歳から40歳までが召集の対象でした。

 藤堂先生が徴兵に取られて出征することはないのかと思います。先生が出征して若い生徒の3人が残るのもなんだか矛盾があります。どうもNHKの脚本家の方が「暁に祈る」歌のエピソードとして感動のシーンを作りだしたく創作したものなんでしょう。ドラマの嘘です。脚本家の方はドラマはドラマと言われたいのでしょうが、あまり史実とか事実とかかけ離れ過ぎるのもどうかと思います。

 鉄男が苦労の末に作った鉄男の詩は優しく心響くものがありました。歌詞には出征に行った兵士も馬も共に戦い苦しんだとあります。

ああ 傷ついた この馬と

飲まず食わずの 日も三日

捧げた生命 これまでと

月の光で 走り書♪

こうなると軍歌ではありません。まさに哀愁感。鉄男の最高傑作でした。

日本は世界平和に貢献する必要がある

 NHK連続ドラマ『エール』では古山裕一は「露営の歌」から「暁に祈る」等次々と軍歌を作曲していきますが、日本の戦況はどんどん悪化していきます。

 太平洋戦争から終戦に向かってはさらなる悪化の一途、国民の徴兵は年齢や体格に関係なくあらゆる人が兵士として出征することになったのです。

ここに日本の軍人の数の増加を現したグラフがあります。

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「日本の100年」矢野恒太記念会

より

 いかに日本国民の多くが国家に兵士として駆り出され命を失ったか良くわかります。そして300万人以上の人が戦争の犠牲になったのです。

 国家の起こす戦争ほど怖いものはありません、しかも世界は平和な世界を作る。平和な国を守ると言う「平和」の大義名分で起こなわれるのです。

 私たちは戦争のない今の日本がいかに大切なものなのかを自覚することが必要であす。戦争を起こすことでなく外交の力や平和を世界に呼びかける市民活動によって日本が平和であり世界も平和にすることが犠牲者の花向けになるのです。世界平和の役割を日本はもっと積極的に自覚して貢献し世界に平和を拡散する必要があるのだと思います。


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