ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山裕一 窪田正孝 古関裕而

 NHK連続ドラマ『エール』では1943年(昭和18)、古山裕一(窪田正孝)のもとにも召集令状が届く。

 その頃、妻の音(二階堂ふみ)の実家、愛知県豊橋にある関内家では、信徒仲間らしい婦人が窓から外の様子をうかがいながらカーテンを閉め、母親の光子(薬師丸ひろ子)に、「次の礼拝は、瓜田さんとこでやることになったで」に伝えるシーンがある。

 光子が「大丈夫なの」と心配すると、「瓜田さんとこでやるのは初めてだで、まんだ大丈夫だわ。ほいでも、おたくは特高に目をつけられとるみたいで、たいへんでしょう」と婦人は気づかう。光子はうなずきつつ「さっきも表にいたでしょう」と言うと、「特高にバレんように、気つけておいでんね。司祭さんが大事な話があるちゅうて言うとったで」と声をひそめる。

 戦争中、宗教活動は弾圧を受けていたのです。

 今日は戦争中の宗教弾圧の問題を杉原千畝の話しから始めたいと思います。

杉原千畝とユダヤ人へのヴィザ

 第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために独断で日本通過のヴィザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官杉原千畝の話しはみなさんも良くご存知だと思います。

 日本行きのヴィザを受け取ったユダヤ人は日本では誰が受け入れをしたのでしょうかご存知でしょうか。

ユダヤ人を受け入れたのは日本ホーリネス協会だった。

 1940年(昭和15年)の初秋、兵庫県尼崎市の教会に、突然黒っぽい服装をした外国人がやって来た。その男は、神戸のユダヤ人協会の会員で、「日本の通過ビザを得たポーランドのユダヤ人が、日本に逃げて来ます。同朋を助けて下さい」と駆け込んで来た。

 教会の瀬戸四郎牧師は、所属していたホーリネス系教会の長老に相談すると、「イスラエルのために祈れ、と旧約聖書にある。瀬戸君、やりなさい」という答えが返ってきたという。

 瀬戸は仲間の牧師・箱崎登といっしょにリンゴを箱ごと買っては、難民の宿舎に配り、敦賀まで足を運んでは、「船賃を払わない難民は乗せられない」という船会社に船賃を立て替えたこともあるという 

 日本ではイスラエル回復を祈るプロテスタントのホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。

ホーリネス教団への弾圧

 ユダヤ難民の最後の一群が離日してから半年後の1942(昭和17)626日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕されました。これが、第一次検挙である。19434月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると124人が逮捕された。

 ホーリネス系教会は、反戦どころか、日本軍の大陸進出を積極的に支持してきました。だからこそ、きよめ理事の大江捨一は、「自分は戦争に就ては他の基督教信者の如く反戦主義を持てゐない。神の経綸は此の戦争を通じて行はれてゐるのである、爲に私共の教会では日支事変が勃発した時に逸早く他の教会に率先して戦勝祈祷をなし國防献金をなした」として、予想外の検挙について驚きを隠さなかった。

 「今次の大東亜戦争は之を通じて此の世界はセムの時代に転換する重大意義を持つ戦争であるから、此の戦争は尚益々拡大し遂にハルマゲドンの戦に進展するのではないかと思われる。

 イスラエル民族をしてその故国パレスチナに復帰せしむべき重大使命を果たすのが日本である。此の事は中田監督(日本ホーリネス協会の創始者)は十数年前より預言されて居りまたしが、今こそ此の神の使命を果たすべき時に日本は来てゐるのである」このような特異な終末論から旧ホーリネス教団の人々は、ユダヤ難民たちを援助した。

 『約束の国への長い旅』に「ホーリネス教団の瀬戸四郎牧師は、ユダヤ協会からたのまれて、日本政府とユダヤ難民の仲介役を引き受け」たとあるのは、ユダヤ協会側がホーリネス教団のシオニズム的教義を知っていたからだが、「ホーリネス教団の人びとの行動は、警察に怪しまれ、憲兵隊にかぎつけられました」ユダヤ難民への援助が検挙理由だったのだろうか。

ホーリネス教団の迫害理由

 ホーリネス系教会への迫害理由は、「キリスト再臨信仰」にまつわるものであり、「千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべ来るべき」という主張が、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事」という治安維持法第七条に抵触すると見なされたからである。

日本ホーリネ教団解散

 19434月、文部省は宗教団体法に基づき、日本ホーリネス教団設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。

 これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。

 そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。

日本基督教団財務局長の松山常次郎は「結社禁止は当然の処置であるとおもう。日本においてキリスト者が再臨問題をとりあげて説くことがそもそもの間違いである。」と述べた。

日本人とユダヤ人は同一民族

 ホーリネス協団の日本人とユダヤ人は同じイスラエルの民「セム族」である。「セム族」とは創世記に登場するセム、 ハム、ヤフェトの「セム」のことである。そして、世界の終わりにイスラエルが回復され、その時、日本 人が軍事的および宗教的な使命を果たすと主張。非常に興味がある話しです。

 杉原千畝がドイツで迫害されていたユダヤ人にビザを発行し日本に逃した。日本人はユダヤ人は同一民族であると考えたホーリネス教団が受け入れユダヤ人を各外国に脱出させた。

 日本人とユダヤ人は同一民族である。この考え方は根拠がないわけではない。例えば、日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っていると言う。

そのユダヤ人を救う協力をしたホーリネス教団が菊の紋の「天皇国体」を否定したとして迫害されたのである。

 太平洋戦争中、天皇が現人神であったのだから、天皇以外に上の存在は考えられないわけであるから、どんな宗教も存在する理由はない。

 ユダヤ人を受け入れ海外へ脱出させたことで特高に目をつけられた教団が、宗教団体の見せしめとしてホーリネス教団を弾圧したものだと思われる。


 NHK連続ドラマ『エール』では1943年(昭和18)、古山裕一(窪田正孝)のもとにも召集令状が届く。

 その頃、妻の音(二階堂ふみ)の実家、愛知県豊橋にある関内家では、信徒仲間らしい婦人が窓から外の様子をうかがいながらカーテンを閉め、母親の光子(薬師丸ひろ子)に、「次の礼拝は、瓜田さんとこでやることになったで」に伝えるシーンがある。

 光子が「大丈夫なの」と心配すると、「瓜田さんとこでやるのは初めてだで、まんだ大丈夫だわ。ほいでも、おたくは特高に目をつけられとるみたいで、たいへんでしょう」と婦人は気づかう。光子はうなずきつつ「さっきも表にいたでしょう」と言うと、「特高にバレんように、気つけておいでんね。司祭さんが大事な話があるちゅうて言うとったで」と声をひそめる。

 戦争中、宗教活動は弾圧を受けていたのです。

 今日は戦争中の宗教弾圧の問題を杉原千畝の話しから始めたいと思います。

杉原千畝とユダヤ人へのヴィザ

 第二次世界大戦中、ナチスによる迫害から逃れるユダヤ人のために独断で日本通過のヴィザを発行して、6,000人あまりのユダヤ人を救った外交官杉原千畝の話しはみなさんも良くご存知だと思います。

 日本行きのヴィザを受け取ったユダヤ人は日本では誰が受け入れをしたのでしょうかご存知でしょうか。

ユダヤ人を受け入れたのは日本ホーリネス協会だった。

 1940年(昭和15年)の初秋、兵庫県尼崎市の教会に、突然黒っぽい服装をした外国人がやって来た。その男は、神戸のユダヤ人協会の会員で、「日本の通過ビザを得たポーランドのユダヤ人が、日本に逃げて来ます。同朋を助けて下さい」と駆け込んで来た。

 教会の瀬戸四郎牧師は、所属していたホーリネス系教会の長老に相談すると、「イスラエルのために祈れ、と旧約聖書にある。瀬戸君、やりなさい」という答えが返ってきたという。

 瀬戸は仲間の牧師・箱崎登といっしょにリンゴを箱ごと買っては、難民の宿舎に配り、敦賀まで足を運んでは、「船賃を払わない難民は乗せられない」という船会社に船賃を立て替えたこともあるという 

 日本ではイスラエル回復を祈るプロテスタントのホーリネス系のキリスト者が逃れてきたユダヤ人たちを受け入れた。

ホーリネス教団への弾圧

 ユダヤ難民の最後の一群が離日してから半年後の1942(昭和17)626日早朝、ホーリネス系の教職者96名が逮捕されました。これが、第一次検挙である。19434月に第二次検挙が行われて、第一次と第二次を合計すると124人が逮捕された。

 ホーリネス系教会は、反戦どころか、日本軍の大陸進出を積極的に支持してきました。だからこそ、きよめ理事の大江捨一は、「自分は戦争に就ては他の基督教信者の如く反戦主義を持てゐない。神の経綸は此の戦争を通じて行はれてゐるのである、爲に私共の教会では日支事変が勃発した時に逸早く他の教会に率先して戦勝祈祷をなし國防献金をなした」として、予想外の検挙について驚きを隠さなかった。

 「今次の大東亜戦争は之を通じて此の世界はセムの時代に転換する重大意義を持つ戦争であるから、此の戦争は尚益々拡大し遂にハルマゲドンの戦に進展するのではないかと思われる。

 イスラエル民族をしてその故国パレスチナに復帰せしむべき重大使命を果たすのが日本である。此の事は中田監督(日本ホーリネス協会の創始者)は十数年前より預言されて居りまたしが、今こそ此の神の使命を果たすべき時に日本は来てゐるのである」このような特異な終末論から旧ホーリネス教団の人々は、ユダヤ難民たちを援助した。

 『約束の国への長い旅』に「ホーリネス教団の瀬戸四郎牧師は、ユダヤ協会からたのまれて、日本政府とユダヤ難民の仲介役を引き受け」たとあるのは、ユダヤ協会側がホーリネス教団のシオニズム的教義を知っていたからだが、「ホーリネス教団の人びとの行動は、警察に怪しまれ、憲兵隊にかぎつけられました」ユダヤ難民への援助が検挙理由だったのだろうか。

ホーリネス教団の迫害理由

 ホーリネス系教会への迫害理由は、「キリスト再臨信仰」にまつわるものであり、「千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべ来るべき」という主張が、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事」という治安維持法第七条に抵触すると見なされたからである。

日本ホーリネ教団解散

 19434月、文部省は宗教団体法に基づき、日本ホーリネス教団設立認可の取り消し処分と教師を辞任させるように、日本基督教団の富田満統理に通知した。

 これを受けて、日本基督教団は、獄中にある教師と家族に、教会設立認可の取り消しと、教師の自発的な辞職を求める通知を行った。

 そして、日本基督教団内のホーリネス系の教会は強制的に解散させられた。

日本基督教団財務局長の松山常次郎は「結社禁止は当然の処置であるとおもう。日本においてキリスト者が再臨問題をとりあげて説くことがそもそもの間違いである。」と述べた。

日本人とユダヤ人は同一民族

 ホーリネス協団の日本人とユダヤ人は同じイスラエルの民「セム族」である。「セム族」とは創世記に登場するセム、 ハム、ヤフェトの「セム」のことである。そして、世界の終わりにイスラエルが回復され、その時、日本 人が軍事的および宗教的な使命を果たすと主張。非常に興味がある話しです。

 





杉原千畝がドイツで迫害されていたユダヤ人にビザを発行し日本に逃した。日本人はユダヤ人は同一民族であると考えたホーリネス教団が受け入れユダヤ人を各外国に脱出させた。

日本人とユダヤ人は同一民族である。この考え方は根拠がないわけではない。例えば、日本の皇室の紋章である「菊の紋」が、古代イスラエル神殿の壁にも残っていると言う。

そのユダヤ人を救う協力をしたホーリネス教団が菊の紋の「天皇国体」を否定したとして迫害されたのである。

太平洋戦争中、天皇が現人神であったのだから、天皇以外に上の存在は考えられないわけであるから、どんな宗教も存在する理由はない。

ユダヤ人を受け入れ海外へ脱出させたことで特高に目をつけられた教団が、宗教団体の見せしめとしてホーリネス教団を弾圧したものだと思われる。


 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一に赤紙が届きましたが国に対して曲作りで多大な貢献をしていると兵役が解除となります。

 NHK連続ドラマではモデルを古関裕而としながら作曲家の史実を大きく書きかえています。

 東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌「若鷲の歌」(予科練の歌)1943(昭和18)のことですが、古関裕而に赤紙が届いたのは1945(昭和20)のことです。

 また、国に作曲で貢献しているからと言って即日兵役を解除されることはなく古関裕而は横須賀海兵団に入隊した後、数ヶ月後に解除されています。

 朝のドラマを面白くさせるのはいいのですが、実在の作曲家、古関裕而を描いたドラマだと明言しながら、ここまで史実を変えてしまうのはいかがなものでしょうか。

 ところで今日は1945(昭和20)終戦の年の古関裕而はどうだったのかをみていきたいと思います。

■1945(昭和20)310日東京大空襲

 古関金子は「三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。」と語っています。

 防空群長の金子は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で12の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、家は焼けなかった。

古関裕而の赤紙届く

 1945年(昭和20年)326日硫黄島でのアメリカ軍と死闘を繰り広げた栗林忠道陸軍大将が指揮した硫黄島がついに陥落します。

その数日後、古関裕而に赤紙こと召集令状が古関の元にも届きます。

 古関金子は「私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。」と語っています。

 古関裕而は兵役を解除され横須賀から自宅に無事戻ってきました。

古関裕而と金子、娘2人の疎開

 終戦間際の19456月、東京にいた古関は、娘2人を福島市の実家に疎開させました。

 7月には同市飯坂町の二階堂家に疎開先を変えた。古関の知人の実家であった当時の二階堂魚店の奥座敷で1945年7~11月に暮らした。金子は7月中旬から腸チフスにかかり、8月中旬まで福島市内の病院に入院。

 1945815日正午に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会から放送された、

『朕(チン)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告ク 

 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 

 古関は玉音放送を東京・新橋駅で聞いている。

 玉音放送を聞いて古関裕而はどんな風に思ったのだろうか。

古関裕而の飯坂生活

 古関は8月から飯坂生活を始め、地元の人々に音楽を指導した。飯坂小の新校歌発表会では金子が歌い、長女がピアノ伴奏した。

 二階堂さんは

「古関一家が仲良く歌を歌う光景を覚えている」と語った。

 194511月、現在の飯坂小の校歌を作曲している。二階堂さんは「今も校歌は忘れない。古関一家が懐かしい」と目を細めた。

戦後初めての作曲は福島市の飯坂小学校校歌だった。

 福島市飯坂町の市立飯坂小で、同市出身の作曲家、古関裕而直筆の校歌の楽譜が見つかった。終戦直後の1945年10月に作られ、今では歌われなくなった「幻の四番」の歌詞も書かれている。古関は県内だけでも100校以上の校歌を作曲しているが、古関裕而記念館の氏家浩子学芸員は「戦後の混乱期、国民学校時代に作られた校歌は珍しい」と話している。

 作詞は、同市出身の作詞家、野村俊夫。「誠の道を進み行く」など、校訓の「至誠力行(しせいりょっこう)」から着想した歌詞が並ぶ。ただ、四番は「御民の誓い一筋に」など、戦後の民主主義にそぐわない部分があり、今は三番までが歌われている。

古関裕而の仕事に対する姿勢

 古関裕而は戦前も戦後も変わらず作曲を続けた。どんなことがあろうとも作曲する姿勢は本人のソフトな見かけにもよらず、福島人の頑固な性格によるものだろうか。

 雨にも負けず風にも負けず、た仕事一途に邁進する古関裕而さん、仕事のスタイルは変えない頑固な福島人に素敵な魅力を感じます。


              

 

NHK連続ドラマ主人公、古山裕一コロンビアの依頼を受け作曲をしたのが「若鷲(わかわし)の歌」だった。別名「予科練の歌」です。

 海軍飛行予科練習生は略して「予科練と言われた。その海軍のパイロット養成学校の少年飛行兵士の生活を描いた1943(昭和18)916日公開の東宝映画『決戦の大空へ』の劇中歌が「若鷲の歌」でした。

 映画が終わって出てきた大勢の小学生が「若い血潮の予科練の――」と歌いながら出てくるのです。「若鷲の歌」は短調ながら単純明快で暗さのない曲は多くの少年たちの心を掴んで離しませんでした。

国策映画のため全国的に映画は封切られ、映画はヒットしませんでしたが「若鷲の歌」は少年たちの間で評判を得、少年から大人に広がり、あっと言う前にヒットしたのです。

 1944年(昭和19年)8月時点でのレコードの販売枚数は233000枚の大ヒットとなりました。

 1943(昭和18)418日連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将がブーゲンビル島上空で戦死しました。以後、日本の敗戦色が濃厚になった戦中にこれだけレコードが売れたことに驚くべきことです。

予科練生の約19千人が戦死

 「決戦の大空へ」は、海軍省が全面協力して、軍人はもちろん、飛行機や学校も全て本物を使った宣伝映画であり、実際、その宣伝効果は大きく、この映画を見た全国の少年たちが予科練を志願しました。予科練は、少年たちの憧れの的でした。とにかく七つボタンの制服が格好良かった。

 「決戦の大空へ」映画の主人公たちが予科練を卒業した日が奇しくも昭和18815日でした。その2年後、我が国は、ポツダム宣言の受諾を表明する。15年間に約24万人が予科練に入隊し、うち約19千人が戦死。特攻隊として出撃した人が多かった。

予科練より特攻戦死者の遺書

『僕はもう,お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。
お母さん,良く顔を見せて下さい。
しかし,僕は何んにも「カタミ」残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを
泣かせるからです。
お母さん,僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕のあいさつです。母上様。』

(資料出処:予科練平和記念館)

この遺言は,予科練から特攻隊へ入隊し,昭和25年5月4日に弱冠19歳と云う若さで,特攻作戦のため出撃され沖縄で特攻戦死された福島県出身の茂木少尉が大好きな母上様に宛てた最後の御手紙です。

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)のもとに東都映画の三隅(正名僕蔵)と言う人物がやって来ます。

 三隅は航空兵を目指す若者たち予科練生の成長を描く映画を企画していると言い裕一に主題歌を依頼するのでした。

 ※予科練(海軍飛行予科練習生の略)予科練では14〜17歳の少年を募集し、航空兵としての基礎訓練をしていた。

東宝映画「決戦の大空へ」

 史実では東都映画は東宝映画です。製作担当の三隅となっていますが、実際の「決戦の大空へ」映画製作担当者は山下良三さんで三隅ではありません。

 また、東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌の依頼は東宝映画からコロンビアに依頼がされていました。この部分は脚本家の創作でないかと思います。

 当時の娯楽の代表は映画と演劇で一般市民に対する影響力も強く、軍部としては利用しない手はなかった。また、検閲によって軍部に批判的なものは一切できず、逆に国策にあった内容のものを強制された時代でもありました。

 映画制作会社は、昭和17年に戦時企業統合により、新興キネマ・大都映画・日活製作部門が合併した大日本映画製作株式会社が誕生し、松竹、東宝の3社体制となっていました。

 東宝映画はこういうテーマに積極的で、軍部が資金を提供してくれるし集客も支援してくれる国策映画を推進していました。

 映画「決戦の大空へ」も国策映画で当時の日本を包んでいた戦争参加意欲推奨の映画で海軍省が後援しています。

 海軍が太平洋戦争時、不足していた航空兵を補うため、PR用に製作されたプロパガンダ映画!でした。

 この映画の主題歌を東宝映画がコロンビアを通して作詞西条八十、作曲古関裕而に依頼したのです。

「若鷲の歌」通称「予科練の歌」

 1943(昭和18)当時の二人の年齢は西条八十氏が51歳、古関裕而が34歳でした。

 西条八十の詩が先に出きていましたが古関裕而は作った曲に納得がいかず出来上がっていなかった。

 そこで二人のとった行動は映画の舞台となる現場、つまり土浦海軍航空隊に行くというものでした。ところが、そこへ向かう汽車の中で古関裕而はある単調でリズミカルな曲が浮かび、作曲したそうです。

 到着した二人は、予科練生に同行した歌手の波平暁男氏に歌って聞かあせて、最初に作ったゆったりした曲と途中の汽車中ので急遽作った曲の二つのうちの良いほうを選んでもらったそうです。

 予科練生の全員が汽車の中で作った曲が良いと選んだそうです。

 それが今も残る ♪赤い血潮の予科練が、七つボタンは桜に錨・・・♪で始まる「若鷲の歌」だった。

 当時のことを振り返り、福島県の元予科練の男性は「あの曲には哀愁があり、皆が良いと思った」と語っています。

映画「決戦の大空へ」封切られる

 「決戦の大空へ」昭和18916日に公開されます。

 横浜宝塚劇場でも封切られています。当時の宣伝文句『二十三日より堂々封切 東宝映画空の決戦譜 決戦の大空へ  主演=高田稔・原節子・小高まさる 黒川弥太郎・英百合子・里見藍子 「土浦海軍航空隊」へ僕だって行くぞ、そして僕はあの西南太平洋の決戦場へ必ず加わるんだ! 』確かに海軍の航空兵募集の広告です。

 映画には大女優「永遠の処女」原節子が出ていました。

 原節子は軟弱な弟の姉であると同時に、休暇のたびに彼女の家を訪れる少年兵たち皆の姉のような役です。『ある少年兵がは原節子の扮する姉に服のボタンを付けてもらったことを話しながら、「実の家族のように扱ってもらえた」「そう思うと、 自分が生命を捨てて守る日本が、いっそうありがたいものに思えてくるのであります」と語る。また「自 分が生命を捨てて守る日本」という。「銃後の姉」や「銃後の母」のために戦うと誓います。』まさに国策映画でした。

しかし、映画が終わり映画館を出ると誰もが

若い血潮の 予科練の

七つボタンは 桜に錨

今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ

でっかい希望の 雲が湧く

古関裕而の作曲した「若鷲の歌」の歌を歌って帰って行ったのです。

 映画「決戦の大空へ」はヒットしませんでしたが主題歌「若鷲の歌」は大ヒットし、その後も現代まで歌い続けられることになります。

古関裕而の後悔の念

 作曲を担当した古関裕而は日劇に『決戦の大空へ』を観に行った際、映画が終わって出てきた大勢の小学生が「若い血潮の予科練の――」と歌いながら出てくるのに対して驚いたと語り、短調ながら単純明快で暗さのない曲は多くの少年たちの心を掴んだと語っていました。

 しかし戦後古関裕而は『「若鷲の歌」を歌いながら、南に飛び立ってまいりますというお手紙を頂戴したこともあります。本当にいま考えますと、胸が痛んでまいりますね。』語っています。

 自分の会社(コロンビア)に依頼されたとはいえ、軍部の航空兵を補うためのプロパガンダ映画の主題歌「若鷲の歌」を作曲したことで、多くの若者を死地に追いやったという後悔はいつまでも古関の心から離れることはなかったようです。

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