ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:エール > 古山裕一 窪田正孝 古関裕而

 NHK連続ドラマ『エール』のブログを毎日書いていると、ふと書けなくなってしまった。

 この朝のドラマ、これは何のドラマがわからなくなったからだ。

NHK製作者は『「栄冠は君に輝く(全国高等学校野球大会の歌)」「六甲おろし(阪神タイガースの歌)」「闘魂こめて(巨人軍の歌)」などスポーツシーンを彩る応援歌の数々、戦後、人々を夢中にさせたラジオドラマ「君の名は」「鐘の鳴る丘」、「長崎の鐘」「イヨマンテの夜」などヒット歌謡曲の数々で昭和の音楽史を代表する作曲家・古関裕而氏と妻で歌手としても活躍した金子氏をモデルに音楽とともに生きた夫婦の物語を描きます。』と述べていたのだが

 確かに始まって見ると、実名で古関裕而の作曲した歌が出てくるが、作曲した曲の順番も、その背景も全く史実とは異なって出てくる。

 なんだか古関裕而の夫婦の物語を描いているとは思えないのだ。

 朝ドラが始まった1場面から息子の古関正裕さんも次のように述べている。(オリンピック開会式当日に自身作曲の演奏前、裕一が緊張からトイレに籠ってしまうシーン)『自分の渾身を込めた自信作の演奏を前に、心地よい緊張感はあるかも知れませんが、不安に怯えるような、苛まれるような心境など有るわけがない、招待席で、愛用の8ミリカメラで開会式の様子を撮影するのに夢中でした』初回の「エール」を見て、正裕さんは目を疑い、耳を疑ったようです。『古関裕而は物おじせず、プレッシャーには強く、とくに一発本番のようなときに一番本領を発揮する、そんなタイプでした』

 古関裕而が戦後、作曲が出来なくなったとドラマの展開だったが、福島に疎開していて、その場所で校歌を作曲していた。ドラマが描いたような人物とはまた違っていた。

 佐藤久志モデルの伊藤久男にしても性格は豪放磊落。終戦後は山形にいて、酒好きのため毎日酒を飲んでいた。ただ、当時は酒がなく、かわりにメチルアルコールを多量に飲んだため身体が変調をきたし、廃人同然になっていたようです。

 あまりにも、NHK連続ドラマ『エール』は史実無視のご都合主義で、視聴率稼ぎのドラマと思われてもしかたがないのでは。しかし、NHKは視聴率は関係ないのではないかと思います。

 では、このドラマは何なのかと考えると、一つの結論に達しました。

NHK連続ドラマ『エール』は古関裕而の夫婦のパラレルワールドを描いたドラマであると。

 パラレルワールドで、この現実とは別に、もう1つの現実が存在する」という「もしもこうだったらどうなっていたのか」という考察を作品の形にする上で都合がよく、パラレルワールドにして描いた作品、それがNHK連続ドラマ『エール』ではないか、それが一番ベターな朝ドラマの見方ではないかと思います。

 もう1つの歴史を扱う作品として見ると、ほんとうに、なんの矛盾も感じず気持ち良くドラマが観れます。

 NHK連続ドラマ『エール』物語は古山裕一(窪田正孝)高校野球の名曲「栄冠は君に輝く」を作曲するシーンへと進みます。

「栄冠は君に輝く」名曲の誕生秘話

 1945(昭和20)815日終戦となります。アメリカ軍が日本を占領し物事が全て変わったかと言うとそう言うことではありません。

 戦後の日本は戦前の制度を引きずったまま、混乱の社会が日本の日常でした。

 教育に関しても、戦前のままでした。戦後直後の日本の学制は、最長6年間の尋常小学校を義務教育とし、その後は2年間の高等小学校や原則5年間の旧制中学校、高等女学校、実業学校など複数の進路に分かれる複線型学校体系でした。

 日本の教育制度が軍国主義を生んだと考えたGHQは、その解体を政府に働きかけ、米国の教育使節団の勧告により昭和22年に学校教育法が制定。一律に6・3・3制とする単線型学校体系となりました。

 学制改革が変更になったのを全国民に知らせるのに絶好の機会だったのが高校野球でした。

  1948年(昭和23年)、名称も全国高等学校野球選手権大会となった。

これを記念して大会歌をつくることになり、朝日新聞社が全国から歌詞を募集しました。

「全国高等学校野球選手権大会歌募集」

 朝日新聞に「全国高等学校野球選手権大会歌募集」が紙面に載りました。

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『我が国スポーツの最大行事である全国中等学校優勝野球大会が学制改革に伴い今年から高等学校に切り替えられることになったのを機会に、新しく「全国高等学校野球選手権。大会」の歌を次の規定で募集します。30年の長い歴史を誇るこの大会の精神と伝統を守りつつ、しかも新しい時代ととに発展させて行きたい念願です。

1.内容=なるべく平易な言葉を用い清新はつらつたるもの

1.長さ=三節以内

1.締切=75

1.発表=720

1.賞金=入選一篇5万円(税共)

1.送り先=大阪市北区中之島、朝日新聞大阪本社企画部「野球大会歌係」(応募原稿には住所、氏名、職業、年齢を明記のこと、原稿は返送しません)

1.審査=特設の審査員会で行う

朝日新聞社』

 昭和23年の5万円はたいへんな金額です。現在の貨幣価値で言うと約500万円です。この金額は当時一軒家が買える金額でした。

 その結果が720日の紙面に載っています。

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 5,252の作品が集まり、入選したのは金沢貯金支局勤務の加賀道子さんに決定しました。

 紙面ではさらに、『なお、作曲はラジオ「鐘の鳴る丘」で全国的に親しまれている作曲家古関裕而氏に依頼することになった』と載っています。

 「栄冠は君に輝く」作詞者、加賀大介、作曲家、古関裕而となっていますが、入選者と作曲家が違っています。

 これはなぜ?

入選は加賀道子

 これは加賀大介が自分の名前を使わず、婚約者の道子の名前を使って応募したものでした。

 その当時のことを加賀大介は「ぼくは文学者だ。文学の道を究めて芥川賞を獲るんだから、新聞社の賞金の高い応募作に、加賀大介の名前は使いたくないんだ」と述べています。

 加賀道子さんは当時を振り返って

『加賀大介は草野球に熱中し、はだしで運動場を走り回る活発な少年だった。だが16歳のとき、夢を奪われた。試合中、足先のケガがもとで骨髄炎になった。道子は夫から聞いた話を明かす。「野球は早慶戦を欠かさずラジオで聞いていて。手術のときもラジオを入れてほしいと」。実況を聞きながら右足の膝下を切断した。グラウンドに立てなくなった大介は文学に打ち込んだ。石川・能美市の自宅前に小学校がある。道子は言う。「時々、運動場に行って小学生が野球をしているのを見ていました」。大介の心が躍ったのは、33歳の486月だ。「夏の甲子園」大会歌の募集を知った。「ものすごく野球が好きでね。文芸をやっていましたので『野球』という話で飛びついたんだろうと思います。ただ『栄冠は君に輝く』の題目は、前々から温めていたものでした」一気に詞を書き上げた。道子は「自分も健康で野球をしていたのにできなくなった残念な気持ちが歌詞に十分、出ているといつも思います』と語っています。

■20年間作詞者は妻の道子だった。

 「栄冠は君に輝く」入選発表後、この事実は20年間も明かされずに過ぎます。

 全国高等学校野球選手権大会が第50回の記念大会を控えた昭和432月のこと。朝日新聞記者が、「『栄冠は君に輝く』が発表されてから丁度20年になりますのでお話を」と取材を申し入れたのがきっかけ。道子は悩みに悩むが、もう秘密を持ち続けることに耐え切れず、その記者に真実を話し、222日の朝日新聞にこの事実が掲載される。『「作詞者は夫でした」加賀さん20年ぶりに真相語る』

  この50回記念大会に加賀大介は招待されるが出席していません。そしてその後も甲子園に行くことは一生なかったと言います。

 加賀大介も婚約者の名前を使ったのは流石に気がひけたようです。



    

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)と池田二郎(北村有起哉)の二人が、力をあわせて、あの名作NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を作っていくことになります。

 1947(昭和22)7517時、菊田一夫脚本、古関裕而音楽にて始まりました。

 ラジオドラマは,最初は土日の夕方の15分番組でしたが、大人気となり130分・週5回の放送となりました。

 やがて、舞台化されたり(創作座公演,有楽座,19487月など),映画も三部作が制作されるなど( 名映画 第一篇~第三篇,佐々木啓祐監督,佐田啓二主演,松竹,1948~49 ),メディアによる相乗効果もあり「鐘の鳴る丘」 は一大ブームとなったのです。

 その結果,最終的には1950(昭和25)12月まで、何と790回も続く長寿番組となりました。

「鐘の鳴る丘」への非難の声

 「鐘の鳴る丘」は人気番組ゆえに思わぬ反響も惹き起すこととなったのです。

 ドラマ内で の子どもたち(浮浪児)の言葉遣いや,粗暴な行動が青少年に悪影響を及ぼ すということで非難の声が上がったのでした。

 青少年の非行防止のために作られた番組ということからすると,まさに皮肉な事態だが,新聞の投書など にも取り上げられ,雑誌ではその是非・賛否をめぐって多くの特集や座談会 が組まれるなど,大きな論争の的となりました。

 社会派ドラマが文字通り社会問題化したのです。

  マス・メディアのコンテンツの青少年への悪影響をあぐる問題は,いつの時代にも「定番」の論争。

 ラジオという音声メディアしかない時代の反響は凄まじいものがありました。

 ことばの問題についてNHK側の演出担当者が、「ことばが悪いという投書が一日に平均50通も来た」と証言しています。

 そのかわり、全体の投書はそれをはるかに上回りその90%は番組に対する好意的な意 見だとも述べています。

 「悪いことば」というのは,具体的には「ばかやろう」 とか「ぶっ殺しちゃうそ」「しけてる」というようなもので,浮浪児の実態 を描こうとすれば避けられないものでした。

また、ドラマでもそうだったが、主題歌の「とんがり帽子」にも言葉が悪いと言われだしたのです。

 「とんがり帽子」の歌詞をみてみたいと思います。

「とんがり帽子」の歌詞

「とんがり帽子」

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子


緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

風がそよそよ丘の上

黄色いお窓は俺(おい)らの家よ


緑の丘の麦畑

俺らが一人でいる時に

鐘が鳴ります キンコンカン

鳴る鳴る鐘は父母の

元気でいろよという声よ

口笛吹いておいらは元気


とんがり帽子の時計台

夜になったら星が出る

鐘が鳴ります キンコンカン

俺らはかえる屋根の下

父さん母さんいないけど

丘のあの窓おいらの家よ


おやすみなさい 空の星

おやすみなさい 仲間たち

鐘が鳴ります キンコンカン

昨日にまさる今日よりも

あしたはもっとしあわせに

みんな仲よくおやすみなさ


「俺(おい)ら」は品がない言葉

 これが菊田一夫が作詞したものですが、これのどこが悪いのか良くわかりません。

  しかし当時小学生として,このラジオドラマを実際に聴いていた作詞家の阿久悠は,主題歌「とんがり帽子」について次のように証言していました。

 「大ヒットのドラマであり,社会の強い関心になっているにもかかわらず、この歌を歌うと奇妙に学校で怒られました『俺(おい)ら』が教育的でないと言うのです。『俺らが一人でいる時に』『俺らは元気』『俺らは帰る屋根の下』,四番ある歌詞の中に,『俺ら』は五回出て来る。ぽくらは教育的に反発し,『俺ら』を百回も連呼し たのである」

 確かに俺ら、普通に読むと「おれら」と読みますが実際の歌も歌詞も「おいら」となってます。

 「おいら」と言うと、なんだか可愛いらしいイメージもあるのですが。自分とか僕、私が一般的なのでしょう。

 俺と言う言葉を調べてみると「俺」という字は長らく常用漢字になかったが、2010年常用漢字表改定で追加された。追加する字を決める際、「品がない言葉だ」「公の場で使うべきでない」として反対する意見もあったが、最終的に追加されたそうです。

 やはり、「おいら」は「品がない言葉」として見られていたようです。

  NHKの担当ディレクターは,この主題歌についてこんな発言もし ていました。「あのメロディは変えないつもりですが,歌詞は変えてみたい と考えています。例えば,『おいらの家よ』という悪い言葉ではなくもっと 品のあるような...

 しかし,実際には歌詞が改変されたという事実はありません。

戦争孤児は誰が作ったのか

 おとなの起こした戦争で戦災孤児となってしまった、なんの責任もないないのに親もなく、スリやカッパライをして精一杯生きている子供たちを、おとなたちが助けることもしないで戦災孤児だとか浮浪児とか言って阻害してしまう。

 あげくの果ては言葉使いが悪いと言うおとなたち、どうなっているのでしょうか。

 誰も戦争孤児になりたくて、浮浪児になりたくてなったわけではない、彼らは、おとなたちの戦争の被害者なのですから、もっとおおらかに優しく接するのが人と言うものではないでしょうか。

 菊田一夫は「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」と作った「鐘の鳴る丘」ですが、社会や世間では自分たちのことしか考えられない、おとなの人が大勢いたようです。

 今も昔も変わらず、世間は冷たいものです。自分だけ良ければよいとか、自分の周りだけは綺麗な世界でいたいとか、それが人、おとなの世界、社会の実体なのかも知れませんね。

 NHK連続ドラマ『エール』ではドラマは終戦後となっています。

 池田二郎(北村有起哉)が闇市を歩くと戦災孤児たちの姿が、なかには二郎のズボンのポッケから財布をぬすとする孤児までいました。

 池田二郎の史実のモデルは菊田一夫です。

国に捨てられた戦災孤児と「鐘の鳴る丘」

 戦争が終わった時に、戦争孤児は12万人とか

 昭和20310日の東京大空襲は、沢山の戦災孤児を生み。

 戦後の街に戦災孤児は溢れていました。

 政府の資料では(厚生省児童局企画課・調査日:昭和22年(1947年)126)太平洋戦争で孤児になった子供の数(昭和2321日に数え年20歳未満)は123,511人となっています。(数え年17歳は14,486人)

もの凄い戦災孤児がいました。

 大人が始めた戦争に悲惨な思いをするのは、いつも子供たちです。なんだか酷い話しです。

 当然、子供たちは戸籍もなく、自分がどこの誰かもわからない状況です。

 国からの配給もなく援助もありません。

 彼らの生きる選択はこそ泥、置き引き、スリを働くしかありませんでした。ちなみに彼らは「チャリンコ()」と呼ばれていました。

 両親を戦災で無くし、寄る辺も無く生きるすべをなくした多くの少年少女が、土管の中や橋の下で暮らし、生きていくためにはしかたがなかったのです。

 しかも、国は悪事を働く戦災孤児たちを取り締まろうとしていました。

 国に捨てられた子供たちに未来はありませんでした。

 そんな子供たちに明るい未来を見せ、社会に子供たちを助けるように呼びかけたのが「鐘の鳴る丘」です。

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」このドラマのきっかけは、アメリカ駐留軍のカトリはック的な施策が始まりです。1917年にカトリックのフラナガン神父によってアメリカで「少年の町」が創設されます。

 「この世に悪い子はいない。愛を持って接すれば、非行少年も必ず立ち直る」というその精神を、菊田一夫が日本人向けにアレンジしたものが「鐘の鳴る丘」だったのです。

戦後の暗い世の中に「とんがり帽子」古関裕而の作曲した、どこまでも明るい音楽がラジオから流れはじめていました。1947(昭和22)7517時、暑い夏でした。

緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

風がそよそよ丘の上

黄色いお窓はおいらの家

 家庭のラジオから商店の店先から街頭ラジオから、全国に流れていったのです。

 菊田一夫は、悲惨な苦しみを乗り越えて、明日への希望を繋ぎつつ明るく生きていこうとしている少年の心を、巧みに描きました。 

 「鐘の鳴る丘」は、復員兵修平と浮浪児たちが、浮浪児を食いものにする山田一家に立向かい、村人の偏見と闘いながら「少年の家」を建設し、やがては北海道開拓にも従事するにいたる、浮浪児自立の物語です。

 菊田一夫は「憐憫」と「取り締まり」(犯罪者視)の間におかれていた浮浪児・戦争孤児たちに、幸福に生きられるように、親を探し出し、養父母を見つけ、開拓農場建設に従事させようとしたのです。

 浮浪児やチャリンコなど随所にいましたが、進駐軍の進駐の広がりとともに、こうした戦災孤児の養護施設が増えてゆきました。

 菊田一夫は、さらに「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」というメッセージを世の中に伝えたのでした。

 古関裕而も戦災孤児のために出来る限り、明るい曲を作り、彼らの応援歌としたのがNHKラジオドラマ「鐘が鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」だったのです。

 古関裕而も戦争中の辛く苦しい思いから、ようやく明るい作曲作りへと意欲を燃やすようになりました。

 NHK連続ドラマ『エール』では池田二郎(北村有起哉)が終戦後、登場し闇市が出て来ました。

 終戦後の日本は食糧難に苦しんで居り、闇市で高値の食べ物を手に入れるしかありませんでした。

「配給制度」はあるが配給する食糧がない

 日本は戦争中、「配給制度」をとっていました。米、味噌、醤油、砂糖などの食料、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日常品までが、配給されていました。

 各家庭に、あらかじめ人数分だけの引換券(切符)が配布され、これを商品と引き換える方式です。こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは法律違反でした。

 ちなみに、このころはライターはなく、ガスコンロわにも自動着火装置などついていませんでしたから、マッチは生活必需品だったのです。ティッシュペーパーなども存在していませんでした。

 敗戦とともに、この配給制度はマヒしました。米の配給はわずかで、さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が配給になりましたが、それも遅配や欠配が続きました。

 人々は配給を頼っていては、食べるものを手に入れることができなかったのです。配給に頼れない国民は、法律違反とわかっていても、「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしかありませんでした。

 特に都会の住民が食料を手に入れるのは困難で、しばしば農村に買い出しに行くことになりました。それでも現金を持っている人はいいのですが、現金がない人は、衣類を売って現金を手に入れ、その金で生活物資を買いました。着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚はがしていくようだったので、「タケノコ生活」と呼ばれました。

山口判事餓死事件

 戦後の混乱の時期、ある事件が発生しました。

 1947(昭和22)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡したのです。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。

 山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。

 法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。

 逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。

なぜ闇米を食べないのか?

 戦後の194610月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。

山口良忠

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」

山口矩子

「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」

山口良忠

「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。判事が法律を守り餓死する、あってはならないような事件でした。

奥さんにも会いましたが栄養失調で病床に倒れていた。

山口矩子

「私は主人を信じてついて行きました」

 山口良忠の死は米AP通信が東京発で配信し、ワシントン・ポストなどが掲載していた。

戦後の日本は餓死者で溢れていた。

 これが戦後の日本の姿だったのです。皆さんが山口判事の立場だったらどうしますか。

昭和20年11月18日付『朝日新聞』

[社説]

「貧者を飢えしむるな」

〔一面〕

食糧問題に四緊急措置、生鮮食料品の統制を二十日に全面的に撤廃。食糧問題に四緊急措置食糧問題に四緊急措置

〔二面〕

始っている死の行進、餓死はすでに全国の街に。

多い時には日に六人、恐怖の夜の宿上野駅(路上生活者の死者)。

 本当に戦後の日本は餓死者で溢れていたようです。

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