ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: エール

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)はビルマのインパール作戦に従軍することになる。 1944年(昭和19年)3月帝国陸軍はインドのインパールに向けて進軍を開始していた。

 インパール作戦こそ食料・弾薬の補給が全くない精神論だけで突撃(竹槍作戦)をし約3万人の命が奪われた大惨事となった地上最悪の作戦でした。

 日本のマスコミではインパール作戦が開始する前に陸軍の竹槍作戦を痛烈に批判した記事が出ていたのです。

■1944年(昭和19年)223日付の『毎日新聞』朝刊に掲載記事

 『「勝利か滅亡か 戦局はここまで来た」

「戦争は果たして勝っているのか」

「ガダルカナル以来過去一年半余、我が陸海将兵の血戦死闘にもかかわらず、太平洋の戦線は次第に後退の一途を辿っている事実をわれわれは深省しなければならない」

「日本は建国以来最大の難局を迎えており、大和民族は存亡の危機に立たされている。大東亜戦争の勝敗は太平洋上で決せられるものであり、敵が日本本土沿岸に侵攻して来てからでは万事休すである」

「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」

「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」

「ガダルカナル以来の我が戦線が次第に後退のやむなきに至ったのも、アッツの玉砕も、ギルバートの玉砕も、一にわが海洋航空戦力が量において敵に劣勢であったためではなかろうか」』

 社説「今ぞ深思の時である」

でも精神主義についての批判が行われた。

 『「我らは敵の侵攻を食い止められるのはただ飛行機と鉄量とを敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るにこの戦局は右の要求が一向に満たされないことを示す」

「勝利の条件にまず信念があることに相違はないが、それは他の条件も整った上でのことであって、必勝の信念だけでは戦争に勝たれない」』

記事には陥落したばかりのマーシャル・ギルバート諸島から日本本土や台湾・フィリピンへ至る米軍の予想侵攻路が添えられていた。

 この日の一面のトップ記事は東条首相が閣議で上記の「非常時宣言」を発表した記事が載っており、その下に置かれた「竹槍では間に合わぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」の見出しはこれに対し真っ向から挑戦する見出しであった。

 この記事を書いた記者、新名は開戦時から海軍を担当、181月から約半年間はガダルカナルで従軍して前線の惨状をつぶさに見聞きし、またマーシャル・ギルバート陥落では大本営が20日間も報道発表をためらって大騒動を演じている様子を見ており、日本の窮状と大本営作戦の内容を把握してい。

 精神論だけでは戦争には勝てない、まことに正論です。

毎日新聞発売・頒布禁止

 陸軍報道部は、毎日新聞に処分を要求。更に内務省は掲載新聞朝刊の発売・頒布禁止と差し押さえ処分を通達した。(ただし、この時点で問題の朝刊は配達を終えていた)

そこへ火に油を注ぐように、同日夕刊トップでは「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と題する記事が掲載された。

 『日本の抹殺、世界制圧を企てた敵アングロサクソンの野望に対しわれわれは日本の存亡を賭して決起したのである。敵が万が一にもわが神州の地に来襲し来らんにはわれらは囚虜の辱めを受けんよりは肉親相刺して互に祖先の血を守つて皇土に殉ぜんのみである。しかも敵はいまわが本土防衛の重大陣地に侵攻し来つてその暴威を揮ひつつある。われらの骨、われらの血を以てわが光輝ある歴史と伝統のある皇土を守るべき秋は来たのだ。』

 記事の趣旨は戦争自体を肯定した上で戦況が悪化している現状を伝え、その打開策を提言したものでした。

毎日を廃刊にしろ

 東條は「統帥権干犯だ」として怒った。夕刊記事の執筆は新名ではなく清水武雄記者によるものだったが、この責も新名が引き受けた。

 新名は責任を感じ、吉岡文六編集局長に進退伺いを提出したが、吉岡はこれを受理せず、31日、自身が加茂勝雄編集局次長兼整理部長とともに引責辞任した。

 この記事は読者から大きな反響を呼び、毎日新聞では全国の販売店や支局から好評との報告が入った。

 海軍省報道部の田中少佐は「黒潮会」で「この記事は全海軍の言わんとするところを述べており、部内の絶賛を博しております」と述べた。  

 東條は内閣情報局次長村田五郎に対して「竹槍作戦は陸軍の根本作戦ではないか。毎日を廃刊にしろ」と命令した。

 村田は「紙の配給を停止すれば廃刊は容易」とした上で「日本の世論を代表している新聞のひとつがあのくらいの記事を書いたことで廃刊になれば、世論の物議を醸し、外国からも笑われます」と述べ、東條を諫めた。

 24日には陸軍報道部が朝日新聞に「陸軍の大陸での作戦は海軍の太平洋での作戦と同じくらい重要」という内容の指導記事(政府・軍部が予め内容を指示した記事)を掲載させた。

古関裕而の決心

 インパール作戦の前に竹槍作戦を痛烈に批判されたにもかかわらず、大本営はインパール作戦を実施する。これはなぜなんだろうか。

 大本営自体がもはや正常な判断ができる存在ではなくなっていた。

 それにしても、無謀な作戦に従って突撃を繰り返した兵隊たちはなんて悲惨なことだったんだろう。

 国家に逆らえない個人は虫けらのように死んでいくしかなかった。

 こんな戦争を見せられて古関裕而はただただ、この頃のことは語らないと決心したのです。

 2020828日朝日新聞デジタルでコロナ対策のアベノマスクの記事

 『政府の新型コロナウイルス対策は成果を出しているのか、反省点はないのか。28日の記者会見で問われた安倍晋三首相は、「アベノマスク」と揶揄(やゆ)された布製マスクの全戸配布問題に言及した。

「マスクについても様々なご批判もいただいたが、マスクの配布を始めることによって、需要と供給の関係から、相当供給も出てきた。ネットでも価格も大きく変わってきた」と強調。その上で、首相は「ただ国民の皆様から厳しい批判もあった。そうしたものは受け止めなければならない」と述べた。』

 (朝日新聞デジタルより引用)

 政府のコロナ対策は、本当にたよりないものであり、ひどかった。

中でも象徴的なものがアベノマスクでした。

 政府が承認したアベノマスク、マスクが市場に出回っていたのにも関わらず中止の決定はされず総額507億円が消えてしまった。

 誰でもが、きっと思ったでしょう、こんな無駄なもの、市場にマスクが出た時点で、問題が出た時点で中止すればいいじゃないかと

しかし、一度だした政府の指示が中止にならない、どんな損害を与えようと責任を取らない、それが縦社会日本の構造なのです。

 コロナの場合は亡くなる方が高齢者ばかりですが、これを戦時中の戦争では多くの若い方が亡くなったのです。

「アベノマスク」と「インパール作戦」

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一は3度目の従軍としてビルマに向かいました。そこで日本の最大な無謀な作戦「インパール作戦」に参加します。

 まさに現代のアベノマスクを象徴するような出来事が「インパール作戦」です。

 日本側作戦名:最高統帥機関・大本営ウ号作戦(インパール作戦)を認可は、1944年(昭和19年)3月、日本陸軍、第15軍司令官牟田口廉也のもとに第31師団、第15師団の三兵団がインパールに向かって進軍した。

 3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落とした。

 食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた。

 第 31 師団長佐藤幸徳中将は、作戦継続困難を進言するも拒絶、作戦継 続が厳命された。

 佐藤師団長は61日補給集積地まで独断退却した。陸軍刑法第 42 条に違反する行為であった。

 この判断は全く正しく退却した部隊は助かった。しかし、佐藤は直ちに罷免された。

 作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。

 大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年715日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍は、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。

 ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなか

これが帝国陸軍の無謀な「インパール作戦」の概略です。

 戦後、牟田口司令官「インパール作戦は、上司の指示だった」と述べている。

 大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」

「アベノマスク」っ「インパール作戦」

 「アベノマスク」の事柄も「インパール作戦」と同じ日本の縦社会が及ぼした弊害です。頭の良い官僚も、「アベノマスク」の配布は無意味だった、または無駄使いだったとわからないわけはない。ただ、上が出した指示はおいそれと変更できないのです。

 現代も同様、昔と変わらない縦社会の原理原則が日本社会には、今も、存在し続けています。

 上司が決めた決定は絶対で変更出来ない。部下がどんなに提案し、良い意見を具申しても全く耳もかさないこんな上司が驚くことに、現在でもいっぱいいます。

 いつまで経っても、日本の縦社会が変わらないのに、ただただ驚くばかりですが、そろそろ社会も組織も変えないとまずいのではないでしょうか。


 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)に音楽協会を通じて軍から慰問の依頼が。

 自分よりも若い人たちが死を覚悟し、訓練に励む姿を目の当たりにしてから安全な場所で音楽を続けることに後ろめたさを感じている裕一は、複雑な感情を抱きながらも戦地に赴く決意を固めていた。

 古山裕一モデル古関裕而は音楽の作曲家として3回も外地に従軍しています。最後の3回目が最も危険なインパール作戦への従軍でした。

インパール作戦

 大本営は、インパール作戦に特別報道班の派遣を決定し、小説家の火野葦平、画家の宮本三郎、作曲家の古関裕而の特別報道班に任命しました。

 ただし、画家の宮本三郎は病気のため、画家の向井潤吉が代わりに派遣されています。

 画家に小説家に作曲家を選んだのはインパール作戦の成功を記録し国内で報道するのが目的だったようです。

 ビルマ戦線において、19443月に帝国陸軍がインパール作戦を開始。

 援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指して進軍していました。

 第15軍司令官牟田口廉也のもとに、「烈」(第31師団)、「祭」(第15師団)、「弓」(第33師団)の三兵団が編成されていた。

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「コヒマの闘い」戦闘継続困難

 北から進攻した第31師団、17,000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」である。

連合軍の調書によると、コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長は、コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。

 佐藤幸徳師団長

 「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」

 3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。

「レッドヒルの丘」多くの日本兵の血が流れる

 作戦開始から2か月が経過した19445月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。

 さらに牟田口司令官は自ら最前線に赴き、南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮を執る。全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りだった。

 レッドヒルと呼ばれている丘インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。

 この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。

 牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。

無謀なインパール作戦

 19446月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入っていた。この地方の降水量は世界一と言われている。当時の降水量のデータを解析すると、その前のひと月の降水量は、すでに1,000ミリを超え、30年に1度の大雨。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていたと見られる。

 司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。65日、牟田口司令官のもとにビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始した。

 2人が作戦中止の判断を避けたあとも、戦死者はさらに増えていった。大本営が作戦中止をようやく決定したのは71日。開始から4か月がたっていた。

 しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったのだ。

全く、帝国陸軍の人間を人間とも考えない作戦指示は乃木大将の旅順攻撃と全く同じだ。あの時の反省もなにもなかったのだろうか。

特別報道班

 日本で聞いていた状況とは、全く違うようだった。特別報道班はラングーンで戦況の説明を受けていたが、一向にインパールが陥落する様子は無かった。火野葦平と向井潤吉が一足先に現地の様子を見に行くことにした。

 やがて、前線の様子を観に行っていた向井潤吉が戻ってきて、日本軍の悲惨な様子を報告した。

インパール作戦の被害と失敗の責任

 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。

 牟田口司令官「インパール作戦は、上司の指示だった」

日本軍の最高統帥機関・大本営

インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。

 その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、

 服部卓四郎作戦課長

 「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ

 「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」

 インパール作戦の認可を多くの大将の印鑑があるのにも誰も責任を取らない。

現場の責任者の責任であると言う。

日本の組織は昔も今も変わらないなと、ふと思う。

 責任は現場にとらせ、上層部は責任を取らない。これではいくら歳月が経過しょうと組織は良くならない。

インパールの大惨事

 牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国。

 その後、結婚し家族に恵まれたが、戦争について語ることはなかった。

 当時23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。

 「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか。」

この頃のことは語らない

 インパール作戦中止後、古関裕而はサイゴンへ向かわされた。85日に母親が死んだという電報が届いたため、古関裕而はサイゴンに到着すると、このまま帰国したいと申し出た。

 司令部は「母親が死んだ事も把握しているが、軍の行事を変更することは出来ない」と拒否した。

日本の軍隊は個人の事など全く考えない組織である。

 古関裕而はこの頃の話しをほとんどしていない。



NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)の家に梅(森七菜)と五郎(岡部大)は結婚報告に訪れた。五郎はキリスト教に入信した。

 彼は梅と結婚ができた幸せをかみしめつつも、馬具職人として軍に協力していることへの葛藤を語り始める。

 五郎は裕一の前に正座をして「先生には、戦争に協力するような歌を作ってほしくありません!」「先生の歌を聴いて、軍に志願した若者がたくさんいます

 「戦争に行く人が増えれば、無駄に死ぬ人が増えるだけです!」と悲痛な面持ちで訴える。

 裕一は五郎の言葉に色をなすとその場に立ち上がり「命を無駄と言うな!」と激怒する。

■NHKが古山裕一の戦争責任を問うのか

 ドラマではこのようにな展開に。五郎の発言は一見正論のような意見だが、唐突な発言でした。

 五郎さん、それをなぜ、そのシーンで師の古山に話しをするのか。ただ師の古山を苦しめただけだではないのでしょうか。

 「若鷲の歌」は直接、軍部より依頼があったわけではなく、映画会社からの依頼だったし、古山裕一が軍部に協力しょうとしたわけではなかった。

 戦争中の国民の行動や経済はあらゆるところで軍部と繋がっていた。大なり小なり国民の全てが軍部に協力していたことになる。

戦争とキリスト教

 ドラマでは五郎はキリスト教に入信したことにを伝えている。キリスト教は少年たちが「罪のない子供たちがかわいそう」「戦争は絶対に悪」だから戦争中、戦争反対だとでも言っていたのだろうか。

 キリスト教は、「神様はすべての人を愛しておられる」「聖書に殺してはならないと記されている」からキリスト教は戦争反対だと言ったのでしょうか。

 いいえ、戦争中の宗教界は全て国家に協力したのです。もちろんキリスト教会も一緒でした。キリスト教会も日本が勝つことを祈り、国家に協力したのでした。

 だから五郎が国に対して協力する師古山に歌を作るなと言うならキリスト教会に対しても、仕事の先生岩城に対しても、国家に協力するなと言うべきなのです。

古関裕而の戦争責任

 「決戦の空」東宝映画の主題歌をコロンビアより依頼され作詞、西条八十、作曲、古関裕而で「若鷲の歌」を作り大ヒットとなり、少年が予科練に多く志願し、その後19千の若い命がなくなったのは事実である。

 しかし「若鷲の歌」は国から映画会社へ映画会社からレコード会社へレコード会社から古関裕而へ依頼があり作曲した「若鷲の歌」が国に協力したとは言い過ぎではないだろうか。古関裕而としては依頼の仕事をしたにすぎない。

 第二次世界大戦に対する戦争責任論がいろんなところでドラマのあちこち見え隠れするが、日本が負けたから戦争責任なのだろうか。

 国に協力するのは国民としてあたり前のことだと思うし、一国民の作曲家、古関裕而にまでドラマで戦争責任を問うのはいかがなものかと思ってしまう。

■NHKの戦争責任

 古関裕而は日本放送協会(NHK)に対しニュース歌謡等多大な貢献をしたていた。その彼をNHKがドラマで戦争責任を問えるのか。

 ラジオを通して日本国民を戦争に誘導していたのは今、ドラマを放送しているNHKではないか。

 NHK自体の戦争責任は重大である。このことはドラマでは語られないのだろうか。

第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白

 戦後、日本基督教団は第二次世界大戦下における責任について以下のように述べています。

 『わたくしどもは,196610月,第14回教団総会において,教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは,これを主題として,教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え,また祈りました。

まさにこのときにおいてこそ,わたくしどもは,教団成立とそれにつづく戦時下に,教団の名において犯したあやまちを,今一度改めて白覚し,主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。

 わが国の政府は,そのころ戦争遂行の必要から,諸宗教団体に統合と戦争への協力を,国策として要請いたしました。

明治初年の宣教開始以来,わが国のキリスト者の多くは,かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが,当時の教会の指導者たちは,この政府の要請を契機に教会合同にふみきり,ここに教団が成立いたしました。

わたくしどもはこの教団の成立と存続において,わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え,深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。

 「世の光」「地の塩」である教会は,あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ,キリスト者の良心的判断によって,祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

しかるにわたくしどもは,教団の名において,あの戦争を是認し,支持し,その勝利のために祈り努めることを,内外にむかって声明いたしました。

まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき,わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって,この罪を懺悔し,主にゆるしを願うとともに,世界の,ことにアジアの諸国,そこにある教会と兄弟姉妹,またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

 終戦から20年余を経過し,わたくしどもの愛する祖国は,今日多くの問題をはらむ世界の中にあって,ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは,教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく,日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように,主の助けと導きを祈り求めつつ,明日にむかっての決意を表明するものであります。


1967326日復活主日

日本基督教団 総会議長 鈴木正久』

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一まで赤紙が、モデル古関裕而に赤紙が届いたのは昭和25年終戦の年です。

 軍部が作曲家名古関裕而と知らず、本名古関勇治を招集したのだとしても、彼は既に36歳であり、身体検査も丙種合格。丙種とは身体上極めて欠陥の多いと言うことであり、普通であれば招集されない。

 しかし、既に日本には招集すべき若者がほとんど残っていなかった。

 終戦直前には、病気でないほとんどの男性が招集されていたのでした。

そのため、日本軍は寄せ集めの軍隊となっており、充分な訓練もないまま全線に連れられていって行ったのです。

 もう、昔の最強だった日本軍の姿はありませんでした。

米軍から見た帝国陸軍末期の姿

 米陸軍軍事情報部が1942-46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌Intelligence Bulletin(『情報公報』)より

 『日本兵は5年間服役すれば日本に帰ってよいと言われている。5年の服役を終えて帰国する日本兵の一団をみたことがある。彼らは幸運にも戦争から抜けられるのを非常に喜んでいた(今や80パーセントの日本兵が戦争は苦痛で止めたいと思っている、しかし降伏はないとも思っている)1943年に私が出会った日本兵は完全に戦争に飽いていた。彼らは熱帯を呪い、家に帰りたいと願っていた。ある者は東条〔英機首相〕を含めた全世界の指導者に棍棒を持たせて大きな籠の中で戦わせ、世界中の兵士たちはそれを見物したらいいと言った。』

 日本のへ兵役期間は5年だったみたいですね。日中戦争1937年から1943年もう6年も戦争が続いているのですから戦争はうんざりだったのでしょう。

 『日本兵は降伏しようとしてもアメリカ軍に殺されると教えられているが、私のみるところ、それは降伏をためらう主要な理由ではない。恥(shame)が大きな影響を与えている。都会の日本兵は映画のおかげで親米(pro-American)である。皆お気に入りの映画スターがいて、クラーク・ゲーブルやディアナ・ダービンの名前がよくあがった。私がアメリカで買える物を教えてやると彼らは驚いたものだ。むろん田舎者は信じようとしなかったが、都会の者は熱心に聞いていた。』

 日本人でも都会と地方の人では随分考え方が違っていたみたいですね。鬼畜米兵と言いながら、日本人は昔から親米の人が多かったみたいです。

 『日本軍の最初の一団はアメリカへ行くものと確信していたが、194211月、南西太平洋に出発する前にはこの戦争は百年戦争だと言われ、そう信じていた。』

 軍部では百年戦争と兵隊に言っていたんですね。なんだか無責任な発言です。

 『日本軍の最後の一団は戦争に勝てるかどうか疑っていた。日本の市民の何人かは、日本はもうだめだと言った。彼らは生命の危機を案じ、日本陸軍が撤退して置き去りにされたら占領地の住民に皆殺しにされるのではないかと怯えていた。』

太平洋戦争末期ではやはり日本兵も戦争に勝てるかどうか疑っていたようです。

 『日本兵たちは天皇のために死ぬことが最高の名誉だと教えられている。彼らはヤスクニ神社に祀られ、一階級進められる。しかし大きな戦闘だと兵は二階級進められる(戦死すれば)。田舎者はたいへん素晴らしいことだと思っているが、教育を受けた都会の者はだまされない。多くの者が〝Little Willie〟を切実に求めている〔443月、独ベルリン空襲で高射砲に撃破されつつもかろうじて生還した米軍B-17爆撃機〝Little Willie〟号になぞらえ「帰還」を意味するか〕と言う。』

 ここでも都市と地方の兵隊の考え方は違っています。誰でも生きて帰りたいと思っています。

 『だが一方で皆降伏したり捕虜になったら祖国には戻れないと信じている。もしそうなれば殺されると言っており、もっとも教育のある者ですらも同じく信じている。この信念が、彼らを強敵たらしめている基本的要素の一つである。体罰への恐怖もまた、戦場での働きの重要な要素である。個人的には、日本兵は頭脳と自分で考える力を考慮に入れる限り、三流の兵隊だと思う。私は数人の、どの陸軍でも通用する兵隊に出会ったが、それはあくまで数人に過ぎない。』

 日本人の兵隊は自分の頭で考え行動することは求められなかったわけですから、それは弱点です。三流の兵隊とは厳しい意見です。

 私たちのイメージとは違う報告がされています。

 帝国陸軍最末期は軍部の上層部だけが、まだ戦えると思っていたかも知れませんが、もう戦いに行く兵隊たちも戦争に勝てるのか疑問に感じています。これでは戦いに勝はずがありません。

 国内にも毎日、空爆が続き、食料もなく戦う武器もなくなっており、もう日本の国としても限界だったのです。

 NHK連続ドラマ『エール』でも戦争の時期はそろそろ終わりです。やはり平和が一番大切なことなんだとつくづく思います。

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