ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: エール

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一(窪田正孝)は曲を書くことができなくなってしまった。

 彼は戦争中に自分の作った音楽が人々を戦うことに駆り立て、その結果若い人の命を奪ってきたことを自分のせいだと後悔

 一方、劇作家の池田二郎(北村有起哉)は、戦争孤児のドラマの企画をNHKに持ち込んでいました。

池田二郎のモデルは菊田一夫

 この池田二郎は古関裕而とコンビを組み数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、 ミュージカルのヒット作品を世に出した劇作家、菊田一夫にあたります。

 ドラマでは戦後に登場してますが、実際に古関裕而と菊田一夫の出会いは1937(昭和12)、古関裕而が「露営の歌」作曲した年、28歳の時、NHK放送劇「当世五人男」初のラジオドラマにて菊田一夫、29歳と出会っています。

 この時、古関裕而はまだ新人の作曲家です。ドラマの音楽はこれが初めてでした。

 菊田一夫はこの時、すでに知られた劇作家でした。

菊田一夫は22歳で浅草国際劇場の文芸部。エノケンのために喜劇を書き。1933(昭和8年)浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」の作家。1936(昭和11年)には東宝の嘱託となっていました。

 この放送が好評を博したので、続いて「思い出の記」(徳富蘆花)や「八軒長屋」(村上浪六)などを2人で担当しました。

 1945(昭和20)年10月、日本放送協会の独活山万司(うどやままんじ)から「古関裕而と菊田一夫で戦後初のラジオ・ドラマ『山から来た男』を担当してもらいたい」との連絡を受け、戦争で途絶えていたコンビが復活しました。

 NHK連続ドラマ『エール』の池田二郎の登場はちょっと唐突でしたね。自分からラジオドラマの脚本をNHKに持っていくのも、戦後直ぐの時代にはちょっとあり得ない設定かも知れませんね。

ドラマの「NHKは嘘を使ない」

 日本におけるラジオ放送は1925(大正14)3月、社団法人東京放送局によって仮放送が開始されたことに始まります。翌年、日本放送協会が設立され、戦前は(JO)AKと呼ばれていました。

 1946(昭和21)3月からNHKのサインを用いるようになりました。

 ドラマではNHKの担当者が「NHKは嘘を使ないから」と言う台詞を使っていましたが、どう言う意図で脚本家が書いたのでしょうか。NHKに対する皮肉ですか。

 戦前、日本放送協会(NHK)はラジオ放送を通して大本営発表のニュースを流していました。これが嘘だらけです。

 1番酷い例は1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利。実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗でした。

 NHK連続ドラマ『エール』の主人公古山裕一のドラマのストーリーも古関裕而の史実とはかなりかけ離れて、いろんなところで嘘がでてきます。

 ここで「NHKは嘘をつかない」なんて冗談にも言わない方が良いのでは


 

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一(窪田正孝)は)は音楽慰問から帰国。

 その足で戦死した藤堂先生(森山)から託された手紙を妻・昌子(堀内)に届けるため、故郷・福島に向かいました。

 ドラマ『エール』主人公古山裕一と音との出会いも1通の手紙から、手紙っていいですね。相手が見えないだけに気持ちが良く伝わります。

ドラマ『エール』の脚本家の方々も良くそれがわかっていて藤堂先生の戦死と妻への手紙と創作したのでしょう。

 古山裕一モデルの古関裕而の史実ではインパール作戦で先生と出会って、戦死したと言う話しは全くありません。

 ビルマに従軍して亡くなったのは実家の母が亡くなっています。

 男にとって母親が亡くなるのが一番悲しいことなのです。

 ドラマに戻りますが、藤堂先生の奥様への手紙はラブレターです。

以下藤堂先生の手紙です。

藤堂先生の手紙

「君がこの手紙を読んでいるということは、もう僕はこの世にはいないということだ。君と憲太にもう会えないなんて、とても寂しい。昔から僕はどこか冷めた部分を持った人間だった。自分の気持ちを素直に出すことが不得手だった。そんな僕を変えてくれたのは君だ。君を知るにつれ、その明るさ、真っすぐさに、僕の殻は溶けていった。残していくこと、心から謝る。君が好きだった。愛していた。ありがとう。僕の人生に現れてくれて。君に会いたい。藤堂清晴」

ドラマのシーンより

古山裕一

「先生は、僕を車の下に隠してくれてすぐそこで撃たれました。たぶん僕を守ろうとしてくれたんじゃないかって思います」

藤堂昌子

「そう。あの人、あなたのごと、本当に好きだった。きっと自分の人生、託してたのね。幸せだったなぁ。楽しかった。もう、あんな日、還ってこない。会いだい。もう一度、会いだい」

 NHK連続ドラマ『エール』は愛のラブレター物語。

 藤堂先生と奥様は、心から愛しあっていたようです。

 ただただ、心からご冥福をお祈するだけです。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一(窪田正孝)は大事な小学校の藤堂先生(森山直太朗)がビルマで戦死しました。

 古山裕一にとっては小学校時代より自分を励まして、音楽の道に導いてくださった先生です。とても辛く悲しい気持ちでいっぱいでした。とても作曲するような状況ではありません。

 しかし、帰国していた彼を待っていたのは軍部からの軍歌の作曲依頼でした。

 NHK連続ドラマ『エール』と同様、古山裕一モデルの古関裕而も軍部よりの作曲依頼が来ていました。

「比島決戦」の歌

 戦争が熾烈(しれつ)さを増してきた1944(昭和19)年、軍部は読売新聞社を通して「比島決戦の歌」の作成を西條八十、古関裕而に依頼してきました。

 西條の歌詞ができて読売新聞社に集合した時、古関は「軍部の或る将校が、『この歌にはぜひ敵将のニミッツとマッカーサーの名前を入れてくれ』と強硬に主張して譲らなかった。

 陸軍報道部の親泊中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。

 西條は『人名を入れるのは断る』と語気を強めて反論したが、遂に折れざるを得なかった」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)と回顧しています。

古関裕而の全集入りを拒否

出来上がった歌詞は

「比国決戦の歌」(昭和193月)

決戦かがやく亜細亜の光 

命惜しまぬ若桜

今こそ咲き競うフィリッピン 

いざ来い二ミッツ゚、マッカサー

出てくりゃ地獄へ逆落とし 

 まさに、勇ましさを通り越したもの。軍部の圧力によるものでした。

 後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、この歌のレコードと楽譜が見つからず、古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否しました。よほど、当時の思い出が辛かったのでしょう。

古関裕而の戦争犯罪騒動

 西條も古関も「この歌によって戦後、戦犯だと騒がれた」と述懐しています。

 占領軍司令官マッカーサーの名前を入れ地獄へ逆さ落としなのですから

 占領軍もこの歌のことを知っていましたが戦犯責任を問われませんでした。

 「マッカーサー司令部では、『日本の流行歌には思想がないから問題にする必要はない』という考えであった。おかげで助かった代わり、侮辱されたことにもなる」(高橋掬太郎『流行歌三代物語』)。

 また、菊田一夫は「幸いなことに第2次世界大戦中の作家の戦争協力は追及されないことになりました」(小幡欣治「評伝菊田一夫」)と述べています。

 古関裕而は軍部に協力し、次々と軍歌を作曲したにもかかわらず、3度の海外従軍を強いられ、兵役にも入り散々な辛苦を軍部から味合わさせられました。

 古関裕而の「軍歌を作曲して戦地に向かう兵隊を応援したい」純粋な気持ちが、軍部に利用され、多くの人の命の責任、戦争の責任を背負わされることになっていきます。

 音楽を作曲する作曲家になんの責任もないと思います。彼は戦争によって不本意な作曲を無理強いされた犠牲者であった、とも言えるのではないでしょうか


 NHKドラマ『エール』ビルマでは、中井が戻って来た。 「全戦は地獄です。

 険しい山・濁流の大河・食糧不足、戦う以前に命を保つのが難しい。」 物資の揃わない中、突撃命令が下されていた。

 1杯の水もなく死んで行く者もいた。 

 『古山さん、日本は負けます。命を尊重しない戦いに未来はありません。」

最も無謀なインパール作戦

 インパール作戦が大本営が作戦中止をようやく決定したのは1944(昭和19)71日。開始から4か月がたっていた。

 しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。 実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていった。

 雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。

 死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。

 前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。

 「726日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」

(齋藤博圀少尉の日誌)

 死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか。

 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。

軍部は本気で竹槍で戦えと

 インパール作戦の反省もなく、翌年、大本営は本土決戦も考えていたようです。

 しかし、本土決戦も内容はあまりにもお粗末。いつもの「竹槍作戦」なのでした。

 1945(昭和20)7月、鈴木首相ら閣僚は、民間人にわたされる兵器の展示を視察するように招かれたが、そこで見せられたのは、単発の先ごめ銃、弓矢(使用説明書に書いてあるところによれば、有効距離3040メートル、命中率50%)、竹槍、熊手などである。

 あまりものに動じない鈴木首相も 「これはおどろいた」と秘書官にもらしたし、その秘書官も「国民を騙すにもほどがある。二十世紀の戦争として、正気のさたとはおもえない」と絶望と怒りを感じた。

 天皇もまた、軍の意図と能力とのあいだに、明白な食いちがいがあることについて、ますます心配されていた。

 梅津美治郎参謀総長は、九十九里浜の防衛計画を奏上したが、これは侍従武官が、現地視察をして天皇に提出した報告と、かなりちがっているようにみえた。

 陸軍が確約していたにもかかわらず、九十九里浜の防衛陣地の構築は、予定よりもはるかにおくれており、8月末までには完成できないようであった。

 また陸軍は、ある新設の歩兵師団の装備が完了したと主張したが、天皇は、小銃さえいきわたっていないことを知っておられた。

 天皇は、ふかく憂慮されて、次のようにいわれた。

 「もしこのような状態で、日本が決戦にのりだしたら、一体どうなるのか」

 これにたいするもっともよい答えは、725日に行われた軍代表の秘密会議で、参謀本部の幹部がしめした、正直だが、きわめて暗い、次のような見とおしだった。

 「日本の国力および戦力は、日一日と低下しており、日本の戦争情勢の見とおしは暗い。戦争の遂行は絶望になった」

 もう日本に戦う力は残っていなかったのです。軍部の上層部に残っているのは保身とプライドだけでした。

 こんな人たちのために若い命が何万と奪われたのかと思うと、つくづく日本の縦社会の醜さにいやけがさします。

NHK連続ドラマ『エール』古山裕一(窪田正孝)はビルマに慰安に行き、帝国陸軍のインパール作戦で戦争の悲惨さを経験します。

誰もが思うことですが、日中戦争が継続していながら、なぜ無謀なアメリカとの戦争に突入するのか

太平洋戦争の政府の責任

歴史を振り返ると、194196日の御前会議は、10月下旬を目標に対米英戦の準備を「完整」すること、日米交渉が10月上旬になっても目途のつかないときには開戦決意をすることに決めた。

10月に入ると主戦派の東条英機内閣が成立。

戦争を推進したのは軍部の力が大きいが当時の政府の責任も大きい。

内閣の主な構成員の運命

アジア・太平洋戦争開戦時の東條内閣の主な構成員の一覧です。


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この方たちは戦争に於いてどのようになったのか。

各大臣の開戦時の年齢を記載したが、平均年齢は54歳でした。これらの閣僚の中で、戦争中に死んだ人は一人もいませんでした。

敗戦直後に自殺した人が2名、A級戦犯として処刑された人が1名、巣鴨拘置所に服役中に病死した人が1名ですが、残りは長寿を全うした人が多い。

また、戦後、政界に復帰した人も何人もいます。

敗戦後の混乱期に自殺・刑死した人を含めて、彼らの死没時の平均年齢は79歳でした。

一般の兵隊の運命

それに比較して一般の兵隊はどうだったかと言うと、194265日から7日にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦を例にとってみます。

34回(1986年)菊池寛賞を受賞した澤地久枝の太平洋戦争の『 記録 ミッドウェー海戦』によると日本側戦死者3057 人の うち30代より上は195 人,残る2862 人は1529歳でした。

1525歳までの戦死者は2456 人で実に80%です。

なかでも21歳が519 人と最も多く、154人, 1610人, 1759人, 1882人, 19135 人の少年の戦死者です。

既婚者422 人の結婚年数は1年未満が87人, 1年が91人であり, 戦死時の   妻の年齢も若く1625歳までが224 人を占めます。

米国側の戦死者362人のう   17 25歳までは248  (69%〉です。

日米双方において戦死はことごとく若者でした。

老人が始めた戦争で死ぬのは若者

ほんとうに酷い話しです。「老人が始めた戦争で死ぬのは若者」なのです。

開戦責任をすべて彼らに帰することはできないとしても、国家の中枢にいた年長者の政治的決定が戦場における若者たちの多くを死に追いやつたのは間違いのない事実です。

なんの責任もない若者が次から次へと亡くなっていくのに何も思わなかったのでしょうか。

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