ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: エール

 1945(昭和20)8911:02アメリカ軍が長崎に原爆投下。長崎市の人口24万人の内74千人(推定)死亡建物は35%が全焼または全半焼しました。

 長崎医科大学助教授、永井隆は爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した。彼は飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井隆ははまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオが落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。

 9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥った。

 1015日「原子爆弾救護報告書」を執筆。

 1946(昭和21)1月彼は教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 彼は苦しい闘病生活を送りながら活発に執筆活動を展開します。   昭和218月「長崎の鐘」昭和231月「亡びぬものを」3月「ロザリオの鎖」4月「この子を残して」8月「生命の河」昭和243月「花咲く丘」10月「いとし子よ」などを発表。

 多くが数万部から国内で数10万部のベストセラーとなり、翻訳されて世界中の多くの人に読まれるようになります。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和233月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和2310月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌245月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。



 昭和245月、255月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 1951(昭和26)51日長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 永井隆 「いとし子よ」より

『私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛して、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。』

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)と池田二郎(北村有起哉)の二人が、力をあわせて、あの名作NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」を作っていくことになります。

 1947(昭和22)7517時、菊田一夫脚本、古関裕而音楽にて始まりました。

 ラジオドラマは,最初は土日の夕方の15分番組でしたが、大人気となり130分・週5回の放送となりました。

 やがて、舞台化されたり(創作座公演,有楽座,19487月など),映画も三部作が制作されるなど( 名映画 第一篇~第三篇,佐々木啓祐監督,佐田啓二主演,松竹,1948~49 ),メディアによる相乗効果もあり「鐘の鳴る丘」 は一大ブームとなったのです。

 その結果,最終的には1950(昭和25)12月まで、何と790回も続く長寿番組となりました。

「鐘の鳴る丘」への非難の声

 「鐘の鳴る丘」は人気番組ゆえに思わぬ反響も惹き起すこととなったのです。

 ドラマ内で の子どもたち(浮浪児)の言葉遣いや,粗暴な行動が青少年に悪影響を及ぼ すということで非難の声が上がったのでした。

 青少年の非行防止のために作られた番組ということからすると,まさに皮肉な事態だが,新聞の投書など にも取り上げられ,雑誌ではその是非・賛否をめぐって多くの特集や座談会 が組まれるなど,大きな論争の的となりました。

 社会派ドラマが文字通り社会問題化したのです。

  マス・メディアのコンテンツの青少年への悪影響をあぐる問題は,いつの時代にも「定番」の論争。

 ラジオという音声メディアしかない時代の反響は凄まじいものがありました。

 ことばの問題についてNHK側の演出担当者が、「ことばが悪いという投書が一日に平均50通も来た」と証言しています。

 そのかわり、全体の投書はそれをはるかに上回りその90%は番組に対する好意的な意 見だとも述べています。

 「悪いことば」というのは,具体的には「ばかやろう」 とか「ぶっ殺しちゃうそ」「しけてる」というようなもので,浮浪児の実態 を描こうとすれば避けられないものでした。

また、ドラマでもそうだったが、主題歌の「とんがり帽子」にも言葉が悪いと言われだしたのです。

 「とんがり帽子」の歌詞をみてみたいと思います。

「とんがり帽子」の歌詞

「とんがり帽子」

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子


緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

風がそよそよ丘の上

黄色いお窓は俺(おい)らの家よ


緑の丘の麦畑

俺らが一人でいる時に

鐘が鳴ります キンコンカン

鳴る鳴る鐘は父母の

元気でいろよという声よ

口笛吹いておいらは元気


とんがり帽子の時計台

夜になったら星が出る

鐘が鳴ります キンコンカン

俺らはかえる屋根の下

父さん母さんいないけど

丘のあの窓おいらの家よ


おやすみなさい 空の星

おやすみなさい 仲間たち

鐘が鳴ります キンコンカン

昨日にまさる今日よりも

あしたはもっとしあわせに

みんな仲よくおやすみなさ


「俺(おい)ら」は品がない言葉

 これが菊田一夫が作詞したものですが、これのどこが悪いのか良くわかりません。

  しかし当時小学生として,このラジオドラマを実際に聴いていた作詞家の阿久悠は,主題歌「とんがり帽子」について次のように証言していました。

 「大ヒットのドラマであり,社会の強い関心になっているにもかかわらず、この歌を歌うと奇妙に学校で怒られました『俺(おい)ら』が教育的でないと言うのです。『俺らが一人でいる時に』『俺らは元気』『俺らは帰る屋根の下』,四番ある歌詞の中に,『俺ら』は五回出て来る。ぽくらは教育的に反発し,『俺ら』を百回も連呼し たのである」

 確かに俺ら、普通に読むと「おれら」と読みますが実際の歌も歌詞も「おいら」となってます。

 「おいら」と言うと、なんだか可愛いらしいイメージもあるのですが。自分とか僕、私が一般的なのでしょう。

 俺と言う言葉を調べてみると「俺」という字は長らく常用漢字になかったが、2010年常用漢字表改定で追加された。追加する字を決める際、「品がない言葉だ」「公の場で使うべきでない」として反対する意見もあったが、最終的に追加されたそうです。

 やはり、「おいら」は「品がない言葉」として見られていたようです。

  NHKの担当ディレクターは,この主題歌についてこんな発言もし ていました。「あのメロディは変えないつもりですが,歌詞は変えてみたい と考えています。例えば,『おいらの家よ』という悪い言葉ではなくもっと 品のあるような...

 しかし,実際には歌詞が改変されたという事実はありません。

戦争孤児は誰が作ったのか

 おとなの起こした戦争で戦災孤児となってしまった、なんの責任もないないのに親もなく、スリやカッパライをして精一杯生きている子供たちを、おとなたちが助けることもしないで戦災孤児だとか浮浪児とか言って阻害してしまう。

 あげくの果ては言葉使いが悪いと言うおとなたち、どうなっているのでしょうか。

 誰も戦争孤児になりたくて、浮浪児になりたくてなったわけではない、彼らは、おとなたちの戦争の被害者なのですから、もっとおおらかに優しく接するのが人と言うものではないでしょうか。

 菊田一夫は「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」と作った「鐘の鳴る丘」ですが、社会や世間では自分たちのことしか考えられない、おとなの人が大勢いたようです。

 今も昔も変わらず、世間は冷たいものです。自分だけ良ければよいとか、自分の周りだけは綺麗な世界でいたいとか、それが人、おとなの世界、社会の実体なのかも知れませんね。

 NHK連続ドラマ『エール』ではドラマは終戦後となっています。

 池田二郎(北村有起哉)が闇市を歩くと戦災孤児たちの姿が、なかには二郎のズボンのポッケから財布をぬすとする孤児までいました。

 池田二郎の史実のモデルは菊田一夫です。

国に捨てられた戦災孤児と「鐘の鳴る丘」

 戦争が終わった時に、戦争孤児は12万人とか

 昭和20310日の東京大空襲は、沢山の戦災孤児を生み。

 戦後の街に戦災孤児は溢れていました。

 政府の資料では(厚生省児童局企画課・調査日:昭和22年(1947年)126)太平洋戦争で孤児になった子供の数(昭和2321日に数え年20歳未満)は123,511人となっています。(数え年17歳は14,486人)

もの凄い戦災孤児がいました。

 大人が始めた戦争に悲惨な思いをするのは、いつも子供たちです。なんだか酷い話しです。

 当然、子供たちは戸籍もなく、自分がどこの誰かもわからない状況です。

 国からの配給もなく援助もありません。

 彼らの生きる選択はこそ泥、置き引き、スリを働くしかありませんでした。ちなみに彼らは「チャリンコ()」と呼ばれていました。

 両親を戦災で無くし、寄る辺も無く生きるすべをなくした多くの少年少女が、土管の中や橋の下で暮らし、生きていくためにはしかたがなかったのです。

 しかも、国は悪事を働く戦災孤児たちを取り締まろうとしていました。

 国に捨てられた子供たちに未来はありませんでした。

 そんな子供たちに明るい未来を見せ、社会に子供たちを助けるように呼びかけたのが「鐘の鳴る丘」です。

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」このドラマのきっかけは、アメリカ駐留軍のカトリはック的な施策が始まりです。1917年にカトリックのフラナガン神父によってアメリカで「少年の町」が創設されます。

 「この世に悪い子はいない。愛を持って接すれば、非行少年も必ず立ち直る」というその精神を、菊田一夫が日本人向けにアレンジしたものが「鐘の鳴る丘」だったのです。

戦後の暗い世の中に「とんがり帽子」古関裕而の作曲した、どこまでも明るい音楽がラジオから流れはじめていました。1947(昭和22)7517時、暑い夏でした。

緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

風がそよそよ丘の上

黄色いお窓はおいらの家

 家庭のラジオから商店の店先から街頭ラジオから、全国に流れていったのです。

 菊田一夫は、悲惨な苦しみを乗り越えて、明日への希望を繋ぎつつ明るく生きていこうとしている少年の心を、巧みに描きました。 

 「鐘の鳴る丘」は、復員兵修平と浮浪児たちが、浮浪児を食いものにする山田一家に立向かい、村人の偏見と闘いながら「少年の家」を建設し、やがては北海道開拓にも従事するにいたる、浮浪児自立の物語です。

 菊田一夫は「憐憫」と「取り締まり」(犯罪者視)の間におかれていた浮浪児・戦争孤児たちに、幸福に生きられるように、親を探し出し、養父母を見つけ、開拓農場建設に従事させようとしたのです。

 浮浪児やチャリンコなど随所にいましたが、進駐軍の進駐の広がりとともに、こうした戦災孤児の養護施設が増えてゆきました。

 菊田一夫は、さらに「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」というメッセージを世の中に伝えたのでした。

 古関裕而も戦災孤児のために出来る限り、明るい曲を作り、彼らの応援歌としたのがNHKラジオドラマ「鐘が鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」だったのです。

 古関裕而も戦争中の辛く苦しい思いから、ようやく明るい作曲作りへと意欲を燃やすようになりました。

 NHK連続ドラマ『エール』では池田二郎(北村有起哉)が終戦後、登場し闇市が出て来ました。

 終戦後の日本は食糧難に苦しんで居り、闇市で高値の食べ物を手に入れるしかありませんでした。

「配給制度」はあるが配給する食糧がない

 日本は戦争中、「配給制度」をとっていました。米、味噌、醤油、砂糖などの食料、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日常品までが、配給されていました。

 各家庭に、あらかじめ人数分だけの引換券(切符)が配布され、これを商品と引き換える方式です。こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは法律違反でした。

 ちなみに、このころはライターはなく、ガスコンロわにも自動着火装置などついていませんでしたから、マッチは生活必需品だったのです。ティッシュペーパーなども存在していませんでした。

 敗戦とともに、この配給制度はマヒしました。米の配給はわずかで、さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が配給になりましたが、それも遅配や欠配が続きました。

 人々は配給を頼っていては、食べるものを手に入れることができなかったのです。配給に頼れない国民は、法律違反とわかっていても、「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしかありませんでした。

 特に都会の住民が食料を手に入れるのは困難で、しばしば農村に買い出しに行くことになりました。それでも現金を持っている人はいいのですが、現金がない人は、衣類を売って現金を手に入れ、その金で生活物資を買いました。着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚はがしていくようだったので、「タケノコ生活」と呼ばれました。

山口判事餓死事件

 戦後の混乱の時期、ある事件が発生しました。

 1947(昭和22)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡したのです。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。

 山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。

 法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。

 逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。

なぜ闇米を食べないのか?

 戦後の194610月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。

山口良忠

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」

山口矩子

「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」

山口良忠

「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。判事が法律を守り餓死する、あってはならないような事件でした。

奥さんにも会いましたが栄養失調で病床に倒れていた。

山口矩子

「私は主人を信じてついて行きました」

 山口良忠の死は米AP通信が東京発で配信し、ワシントン・ポストなどが掲載していた。

戦後の日本は餓死者で溢れていた。

 これが戦後の日本の姿だったのです。皆さんが山口判事の立場だったらどうしますか。

昭和20年11月18日付『朝日新聞』

[社説]

「貧者を飢えしむるな」

〔一面〕

食糧問題に四緊急措置、生鮮食料品の統制を二十日に全面的に撤廃。食糧問題に四緊急措置食糧問題に四緊急措置

〔二面〕

始っている死の行進、餓死はすでに全国の街に。

多い時には日に六人、恐怖の夜の宿上野駅(路上生活者の死者)。

 本当に戦後の日本は餓死者で溢れていたようです。

 NHK連続ドラマ『エール』先週の金曜日のラストシーンでは池田二郎(北村有起哉)が最後に「待ってろよ、君のドラマを作ってやるからな」で終わりました。

 終戦を迎えたとはいっても、戦災で父母を失った子供たちが巷にあふれ、誰しもが食糧難で生きることに精一杯だった時代です。

 子供たちも生きるのに必死でした。

 二郎の後ろポッケより財布を盗もうとした子供もその一人です。二郎には彼らの苦しい思いが良くわかっていたのです。

 それは彼の生い立ちが関係していました。

 池田二郎は劇作家、菊田一夫です。

菊田一夫の幼少時代

 菊田一夫は1908(明治41年)に横浜で誕生しました。

 家庭が複雑で生まれてすぐ養子に出され、生後4カ月で両親に連れられ台湾に渡ったが、両親に捨てられ、転々と他の人に養育された。

 5歳のとき菊田家の養子になります。

 台湾城北小学校に入学しましたが、小学校卒業直前に、大阪の薬種問屋に丁稚奉公に出され、その後、神戸の元町にやってきました。

 当時、骨董店であった「珍産商会」で丁稚奉公をつとめました。

 苦労の多い少年時代を送っています。

 店主の情けで、神戸にある夜間の商科実業学校(現:神戸市立神港高等学校)に通いながら文学に関心を抱き、詩の同人雑誌に寄稿しました。

 やがて、大正12年結成の「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人もつとめましたが、その熱心さから仕事で失敗を重ねる。

 その後、丁稚奉公生活に嫌気がさし、大正15年に上京し印刷工となる。

 萩原朔太郎やサトウ・ハチローらとの出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入り、劇作家の道を進んだのでした。

 特に幼少期に両親に捨てられ、転々としていた自分と戦争孤児たちと重なっていたのでした。

戦後の戦争孤児

 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿がありました。  

 空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。

 国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。

戦争孤児の悲惨な状況

 焼け跡に残された子どもたちはどうやって生きたのでしょうか。

死んでいく子を何人もいました。

 8歳ぐらいの女の子はやせ細り、裸足を真っ赤に腫らして、大阪駅前で力尽きた。

 福井駅で出会ったひとつ年下の「かめちゃん」盗みをしては、闇市でカレーや肉まんを分け合った、東京・品川駅近くで電車に飛び込んで自殺しました。

 5年生だった子供は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。

 同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた。

 いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、浮浪児になった子も数多くいました。

国の戦争孤児対策

 国は戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。

 しかし、予算も規模もまったく不十分でした。見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました。

 当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか聞くと『軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではない』と言わたそうです。

 同じ戦争犠牲者でも、民間の空襲被害者は差別されているのです。

 しかし、多くの戦争孤児は大人でも生きるのがたいへんな戦後、街々でたがいに助けあいながら生きようとしていたのです。

古関裕而と菊田一夫のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 そんな戦争孤児たちをなんと元気づけたいと思った菊田一夫と古関裕而のコンビで作ったラジオドラマが「鐘の鳴る丘」でした。

 1947(昭和22)75日から19501229日まで、放送回数は790回に及ぶました。

 毎週土、日曜日の1715分。

 ラジオから「とんがり帽子」の歌が聞こえます。

緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

なんだか歌を聞いただけで楽しくなります。

 ドラマは空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の高原で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いた内容でした。

 日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなったのです。

 古関裕而と菊田一夫は二人して戦争孤児の明るい未来を夢見て、夢中でラジオ制作に没頭したのでした。

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