ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > わろてんか隊

NHK連続ドラマ「わろてんか」風太( 濱田岳 )率いるわらわし隊が無事に日本へ戻ってきました。


風太、リリコ、四郎、キースとアサリ慰問団に行った全員が戻ってきました。


「わろてんか隊」無事でほんと良かった。


毎日、毎日、朝ドラを観ていますから、今だと中国へ戦争中に慰問に行ったのはなんと言う名前の慰問団と聞かれたら「わろてんか隊」と即答してしまいます。


昭和の時代を知っているかどうかを聞く試験に昭和検定試験があります。


昭和検定試験


昭和検定試験ではこんな問題が出されました。


1   昭和史上級検定試験


【問い 83


昭和 13 年、 中国大陸の前線へ落語家や漫才師らが派遣された 慰問団の名称は?


1 芸能隊    

2 おかしい隊    

3 わらわし隊    

4 笑門隊


回答の選択肢がなければ即「わろてんか隊」と答えるところでした。


( 笑い )


日本と世界との戦争


日本が世界の国と戦ったのは以下の通りです。


1894年 日清戦争

1904年 日露戦争

1914年 第一次世界大戦

1931年 満州事変

1937年 日中戦争

1939年 第二次世界大戦(太平洋戦争)


日本は1894年から終戦の1945年が815日の半世紀は世界の国との戦争にあけくれている年でした。


吉本興業の吉本せいと林正之助はその時代を乗り越えなければならなかったのです。


そのために軍隊に協力さぜるを得なかったのです。


吉本興業「わらわし隊」


吉本興業「わらわし隊」は何度も何度も中国の戦地に慰問団を送っています。

  

  113


1


北支那班


柳家金語楼 ( 班長 )

花菱アチャコ・千歳家今男

柳家三亀松

京山若松


中支那班


石田一松

横山エンタツ・杉浦エノスケ

神田廬山

ミスワカナ ・玉松一郎


11


2


北支那班


林田十郎・芦の家雁玉

花月亭久里丸

深田繁子

鹿島洋々

京山愛朝


中支那班


神田伯龍

秋山右楽・左楽

東五九童・松葉蝶子

松鶴家光晴・浮世亭ゆめ若

荒川成三郎・玉枝

ミスワカナ・玉松一郎

文の家久月・三遊亭柳枝

アダチ龍光

吉田奈良千代


12


3


南支那班 


石田一松

香島ラッキー・祇園セブン

桃山天声( 曲師・桃山定子 )

浮世亭公園・日之出家男蝶


4


北支那班


河内家美代次・文春

東海亭花橘・玉子家光子

大利根太郎( 曲師・吉沢団蔵 )


中支那班


桂金哉・金ニ

祇園千代子

木村小友( 曲師・戸川大介 )


南支那班


千代田みどり・松緑

林家染子・染次

広沢小虎造( 曲師・とし子 )


艦隊慰問班


柳家千枝造・慢作

奥野イチロウ・竹本ジロウ

秋山右楽・左楽

浪花軒〆友( 曲師・荒川文柳 )

松平晃( アコーディオン・岡本豊久 )


「わらわし隊」の犠牲者


そして、朝ドラでも主人公てんとトキが恐れていた通り犠牲者がでてしまいます。


1941722日、河南省の最前線に派遣されていた慰問団が中国軍の攻撃を受け、東京吉本所属の女性漫才師花園愛子が犠牲となっている。


その後トランプ・カルタ、玉子家辰次、ミスワカメ(ミスワカナの弟子)の乗っていた船が台湾沖で魚雷によって撃沈し、亡くなっている。


吉本興業のわらわし隊は戦争の最前線まで慰問を続けたため犠牲者を作ってしまったのだ。


■  あまりに過酷な現実があった。


わらわし隊は朝日新聞が吉本興業の協力で始まった。


エンタツは最初の派遣に参加。


上海や南京などでの体験を手帳につづっていた。


日記は一行が上海に着いた1月17日から、帰国した2月13日までほぼ毎日書かれていた。


南京入りして2日目の1月24日付には、揚子江沿岸部の下関(シャーカン)を訪れたと記す。


日本軍による南京陥落から6週間後だ。


「その当時は敵の死体で一ぱいだったそうだが凡(すべ)て我軍の制理であとかたもなし しかし川にはあちこち浮んで居る」


日々の出来事とは別に、箇条書きされたメモもあった。


「水がない クリークの死体の水だ だから僕はオブラードで水を包んでのんだ。」


クリークとは水路


日本軍を題材としたこんなメモも書き残していた。


「砲台の上に沢山(たくさん)の支那の死体がある日本軍がしたいほうだい(死体砲台)」


芸人にとってわらわし隊は過酷なものだった。


それでも明日の命さえもない兵士たちを「笑い」で癒したいと思った彼らの使命感が吉本興業のわらわし隊を継続させ続けたのだろう。


NHK連続ドラマ「わろてんか」ではお国のために北村笑店「わろてんか隊」が出陣しました。


みんな緊張感のある表情でした。


慰問とは言え戦地の知らない土地へ赴く気持ちはどんな気持ちだったんでしょうか?


<明日のわろてんか>風太らはお国のため 「わろてんか隊」が出陣!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180304-00000028-mantan-ent


当時の慰問団の次のような記録がありました。


「演芸慰問団」


戦時中、日本軍は「皇軍」と呼ばれました。


外地にいるその皇軍のため内地から駆り出された「演芸慰問団」の数は大変なものでした。


芸能人と呼ばれる人で行かなかった人はいないといわれたほどに、みんな出かけています。


昭和134月から昭和168月にかけて外地に行った慰問団の資料があります。


陸軍恤兵部派遣が満州に21団、166人、970日。


北支に38団、435人、1594日。


中支に43団、382人、2182日。


南支に20団、197人、1160日。


122団、1180人、のべ5906日。


各府県派遣が満州に45団、405人、2525日。


北支に72団、647人、3026日、中支に66団、609人、2831日。


南支に54団、422人、2010日。計237団、2083人、のべ10392日。


おどろくべき数字といえます。


当時中国は支那(しな)と呼ばれていました。


支那とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。


現代の中国において、この呼称が悪意的、侮蔑的呼称であるとされることもある。


IMG_1722



北支は華北


中支は華中


南支は華南


当時の日本人からすれば中国は途方もなく広大な地域でした。


ただ、ただ国のためにと思い芸能人は中国のあちこちを慰問してまわっていました。


吉本興業の「わらわし隊」


吉本興業もこの例にもれなかった。


昭和13年に朝日新聞と吉本がタイアップして「わらわし隊」という慰問団を結成した。


当時、陸軍の飛行隊は「陸の荒鷲隊」、海軍は「海の荒鷲隊」と呼ばれ、時代の花形であった。


それを「笑鷲隊」とモジったネーミングで洒落ていた。


命名は吉本の長沖一(漫才作家)と伝わる。


誰もがお国のためを思って慰問団に参加したのでした。


戦争は国と国の戦いであり


ある意味、国民を盲目にさせる。


そして勝つことのみが目的となる。


ある国が勝てば他の国が負ける。


人類の歴史はある意味戦争の歴史である。


歴史は繰り返されると言うが、戦争の歴史の終わりの最終章は人類の滅亡でしかないのだろうか?


- ジョン・F・ケネディ -


人類は戦争に


終止符を打たなければならない。


さもなければ、


戦争が人類に


終止符を打つことになるだろう。

 


NHKの連続テレビ小説「わろてんか」今週は「わろてんか隊がゆく」です。


芸人たちの身を案じ、慰問団派遣に消極的な主人公てん( 葵わかな )。


風太(濱田岳)は、国に貢献することが今後の北村笑店にとって何より重要と考え、東京からキース(大野拓朗)を呼び戻し、「わろてんか隊」を結成します。


風太は北村笑店のために命がけです。


<明日のわろてんか>36日 第129回 風太らはお国のため 「わろてんか隊」が出陣!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180304-00000028-mantan-ent


吉本興業の慰問隊


風太のモデル林正之助は時代の中に軍部の台頭を感ながら昭和6年には既に慰問隊を満州に送っていました。


吉本の社史『吉本八十年の歩み』にこうあります。


昭和6年( 1931 )9月18日に満州事変が勃発した。


エンタツ・アチャコと秋田実(※漫才作家、後に吉本文芸部)が初めて会ったのはそれから間もなく両者は朝日新聞学芸部の白石凡記者らの引き合わせにより顔を合わせた。


吉本興業と朝日新聞は以前より深い関係にあったようです。


昭和6年12月、吉本興業は朝日新聞との協賛で、そのエンタツ・アチャコと神田山陽、花月亭九里丸を満州駐屯軍の慰問に送り出します。


朝日新聞は慰問ぶりを何度も記事にしました。


吉本興業文芸顧問の竹本浩三


「朝日と吉本は白石記者らの関係で交流がありました。


当時はエンタツ・アチャコもそれほど知られておらず、現地では『アチャコ』の名前を見て『どんな美人の女の子』が来るのか、と勘違いされたこともあったらしい。」


その後、横山エンタツ・花菱アチャコとは、背広姿の「しゃべくり漫才」一世を風靡します。


昭和8年11月にも「吉本の顔」となったエンタツ・アチャコや、のんき節の石田一松らによる慰問隊を派遣し、満州各地を慰問訪問しています。


「演芸人関東軍慰問ノ件」と題した陸軍省新聞班の決裁書類が残っています。


決裁者として陸軍省軍事調査部長の東條英機(後に首相)や後の沖縄戦の司令官、牛島満のハンコが押してあるのが目を引く(6、8年の慰問団について朝日新聞社広報部は『事実関係を明らかにできる資料が確認できない』とした)。


このころ、内地では「満州ブーム」に沸いていた。


昭和4年( 1929 )に始まった世界恐慌は日本へ波及、失業者があふれ、農村は疲弊してゆく中で、新天地・満州に希望が託される。ソ連国境に近い北満の辺境地には、満蒙開拓団の農民が入植した。


各新聞社にとっては当局の締め付けもあったろうが「国策」に合わせる形でブームを煽り、匪賊や抗日軍と懸命に戦っている日本の兵隊さんを慰問するのは読者や広告の獲得につながる「メリット」がありました。


反軍から「満州事変支持」へと社論の舵を切った朝日新聞のはしゃぎぶりも異様なほどだ。


事変後の昭和6年10月16日付の東京朝日新聞朝刊には《満州の我軍将士を慰問 本社より一万円》の社告。


日本が満州国を承認した7年9月16日付同見出しは「満州国承認の号外にわき返る奉天市外 日満両国旗の波 歓呼の渦巻」


別面には『祝 満州国承認』の全面広告が踊っています。


朝日だけがそうだったわけではない。


ただ、「朝日」と「吉本」は日中戦争勃発(昭和12年7月)以降、本格的にタッグを組み、大陸への皇軍慰問隊派遣を主導することになる。


昭和13年1月5日付東京朝日新聞朝刊に再び社告が打たれた。《戦線へ初春の慰問団 銃後熱誠の寄託金で》。


「慰問演芸班」は北支派遣がアチャコ・今男のコンビに東京から落語の柳家金語楼、三味線漫談の柳家三亀松。


上海・南京組はエンタツ・エノスケコンビに石田一松、夫婦漫才のワカナ・一郎など。


荒鷲隊をもじった「わらわし隊」の愛称で呼ばれる爆笑慰問突撃隊の記念すべき第一陣でした。


「わろてんか隊」とは「わらわし隊」のことです。


NHK連続ドラマ「わろてんか」で「わろてんか隊」のことは史実では「わらわし隊」のことです。


しかし、ドラマと史実とは違って吉本興業は時代の空気を察して、実際はかなり以前より慰問隊を組織し軍部に協力していたようです。


風太のモデル、林正之助の生き残るために最善な方法を取らざるを得なかったのだと思います。

NHK連続ドラマ「わろてんか」では昭和14年、てんが社長をつとめる北村笑店のもとに、芸人たちで慰問団を組んで外地へ派遣して欲しいという依頼があった。


お国のためだと風太や東京から帰ってきたキース(大野拓朗)ら芸人たちが乗り気になる中、てんは、伊能から「軍部と近づきすぎないほうがいい」と忠告され、慰問団派遣に慎重になる。


『わろてんか』第23週、拡大する戦火 北村笑店では「わろてんか隊」を中国へ派遣


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180304-00054567-crankinn-ent


朝ドラマ「わろてんか」もついに戦時下の時代に突入してしまった。


戦時下の日本に於いて「笑い」はどんな風だったのか?


戦争を体験した人に聞いてみたい。


「戦争」と「笑い」


笑点で長らく司会者として活躍した歌丸師匠は戦争を体験した一人である。


歌丸師匠は空襲により横浜の生家が全焼してしまうなど、戦争によって悲しくつらい経験をしています。


歌丸師匠


「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」


「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」


「戦争には笑いがない」


と戦争体験を伝えたのでした。


「禁演落語」


戦時中に落語家たちは、庶民にその「笑い」を届ける権利を剥奪されてしまいました。


落語は人間の業を笑うものだ。


落語の噺のなかには、遊郭を舞台にしたもの、また、色恋をめぐっての人々のドタバタ劇といったものも多数含まれる。


1940年( 昭和15 ) 9月、戦時下において「時局柄にふさわしくない」としてそういった噺が禁じられてしまいました。


演じるべきではない演目として指定された噺は53種。


それが「禁演落語」です。


そのなかには、堅物の若旦那が遊び人に吉原へ連れられていく珍道中を描いた人気の演目「明鳥」なども含まれていました。


「禁演落語」が指定された後、高座にかけることを禁じられた噺たちを弔うため、浅草の本法寺には「はなし塚」という塚がつくられました。


当時の芸人たちによる洒落っ気のこもったささやかな反抗でした。


当時の苦い経験を忘れないように、今でも毎年、落語芸術協会による法要が続けられています。


「禁演落語」の措置は一応、当時の講談落語協会による自主規制の体裁を取っていたが、事実上、国からの強制です。


「技芸者之証」


それ以前の昭和402月には警視庁が興行取締規則を改正しました。


落語家・歌手・俳優など、すべての芸能関係者が「技芸者之証」を携帯するよう義務づけられました。


政府は芸人たちの表現を管理することが容易になります。


これは当時の為政者が、それだけ落語が提供する「笑い」を恐れていたということの裏返しでもあるのです。


落語家の柏木氏は、落語家の鑑札を取り上げられ喜劇俳優への転身を余儀なくされました。


当時の警視庁とのやり取りです。


警官


「きみは、はなし家の看板をはずして俳優の鑑札にし給え。第一、きみがはなしをしたら、お客が笑うじゃないか……


柏木


「そりゃ笑いますよ、笑わせるのがはなし家の商売だもの……


警官


「それがいかん、いまどきそんな……第一それに、芝居なら“ここがいけないからこう直せ”と結果がつけられるのと違って、落語というのはつかみどころがない……


柏木


「でもねえ、三十何年この方、私は高座を離れたことがなかったんですよ」


警官


「いやダメだ。どうしてもはなしがやりたけりゃ余暇にやるがいい。本業はあくまでも俳優の鑑札にしなきゃいかん……


警官は落語家だった柏木氏を無理矢理、俳優にしてしまいました。


あまりの警官の横暴に笑ってしまいますよね。


ありえないことですが、これが戦争なのです。


「国策落語」


当時の噺家たちは演目の一部を禁じられるだけでなく、国が推進する軍隊賛美や債券購入、献金奨励などを物語のなかに組み込んだプロパガンダのような新作落語をつくることも強いられました。


これが「国策落語」です。


桂歌丸師匠


「つまんなかったでしょうね」


「お国のためになるような話ばっかりしなきゃなんないでしょ。」


落語だか修身だかわかんなくなっちゃう」と、そういった落語について憎々しい印象を語っています。


実際、その当時つくられた国策落語は本当に何も面白くない噺でした。


いや、それどころか、「グロテスク」とすら言ってもいいのです。


当時のスローガン「産めよ殖やせよ」をテーマにつくられた「子宝部隊長」という落語では、子どもを産んでいない女性に向けられるこんなひどい台詞が登場します。


「何が無理だ。」


「産めよ殖やせよ、子宝部隊長だ。」


「国策線に順応して、人的資源を確保する。それが吾れ吾れの急務だ。」


「兵隊さんになる男の子を、一日でも早く生むことが、お国の為につくす一つの仕事だとしたら、子供を産まない女なんか、意義がないぞ。」


「お前がどうしても男の子を産まないんなら、国策に違反するスパイ行動として、憲兵へ訴えるぞ。」


古典落語の人気演目を禁止され、こんな落語を高座にかけざるを得なかったことを思うと、「戦争」というものが人の命はもちろん、「文化」をもメチャクチャに破壊してしまうのだということが教訓としてよく伝わってきます。


ミスワカナ玉松一郎の「国策漫才」


NHK連続ドラマ「わろてんか」ミスリリコアンド四郎のモデルミスワカナ 玉松一郎も「国策漫才」をしなくていけませんでした。


その中でもミスワカナ 玉松一郎の「全国婦人大会」は有名な「国策漫才」です。


ミスワカナ は女性は出征した男性がいない銃後をいかに守り、「生めよ増やせよ」というスローガンでハッパを掛けられ、次代の兵士となる子どもをひとりでも多く生む役目を負わされた人的資源増産の第一資源という位置付けでした。


しかし、漫才の内容は国策漫才なんですがワカナはそんな時代精神にお構いなく、容貌不味く、目が悪くて兵士になれない、ヘタな楽士の亭主一郎をからかい、コケにし、笑い飛ばしたのです。


ミスワカナ は島根、朝鮮(当時日韓併合下にあった)、名古屋、京都、広島、博多、北海道、東京(浅草)の8地域の方言を上手く喋っています。


この戦争下の時代でもミスワカナ は漫才の内容にかかわらず、「笑い」の神を呼んでこれました。


ミスワカナ はまさに伝説の落語家桂春団治と同じ「笑い」のつぼを良く知っいたのです。


桂春団治


「私はお客がただ笑うだけでなく、涙を流してまで笑うてくれんと頼りのうおます。


というのは笑うて笑うて、笑いの止らぬ時、お客は横腹を抑えて涙を流して苦しんでいやはります。


ここまで来て初めて私は落語家になった生甲斐を感じます」


桂春団治は「笑い」のために一生をかけたと同じようにミスワカナ も「笑い」のために一生を捧げていました。


ミスワカナ は現地の子供に小遣いを与えて現地の言葉を覚え、現地の言葉を漫才に取り入れて慰問団にて人気を博しました。


そして、「泣ける漫才」をやり、一気にブレイクし、一流の漫才師の仲間入りを果たしました。


最終的にミスワカナはヒロポン中毒で死んでしまいます。


ミスワカナがヒロポンを使用するようになったのは、この「わらわし隊」が切っ掛けでした。


「笑い」の神を呼んだ桂春団治とミスワカナ の二人とも最後はさびしい終わりかたをしています。


「笑い」の神に捧げた人生は最後はどうも笑って終わるわけにはいかないようです。




NHK連続ドラマ「わろてんか」ではドラマは平和な時代から戦争の時代へと突入する。


昭和141939)年、北村笑店に芸人たちで慰問団を結成し「戦地に派遣してほしい」という依頼が舞い込む。


てん(葵さん)は、芸人たちの身を案じつつ、少しでも笑顔が届けられるならと、風太(濱田岳さん)を団長にした「わろてんか隊」を中国・上海に送り出す……


<来週のわろてんか>第23週「わろてんか隊がゆく」 戦地に笑いを! 芸人たちで慰問団結成 いざ上海へ


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180302-00000056-mantan-ent


朝ドラの「わろてんか隊」の史実のモデルは「わらわし隊」です。


わらわし隊


わらわし隊は、東京朝日新聞社と大阪朝日新聞社の企画に、吉本興業が協力して実現したもので、このころ日本軍の航空隊が「荒鷲(あらわし)隊」と呼ばれていたのをもじってつけられました。


1回派遣では、北支班に柳家金語楼、花菱アチャコ・千歳家今男、柳家三亀松、京山若丸(曲師・中川八重子)、仲沢清太郎、中支班に石田一松、横山エンタツ・杉浦エノスケ、玉松一郎・ミスワカナ、神田ろ山と当代の人気芸人が名を連ねました。


中支班には、のちの吉本興業社長・林正之助も監督役として参加しています。


もちろん戦争に行くわけではなく、戦地に慰問に行くわけですから危険は少ないのですが、戦地に行くのですから当然、死の危険がともないます。


実際、慰問団の中でも戦争に巻き込まれて亡くなった方がでています。


花園愛子


1941年(昭和16年)725日、朝日新聞に小さな記事が掲載された。


黄河のほとりで、前線に赴いた慰問団が中国軍の攻撃を受けたという記事だ。


護衛の将兵十三名が戦死したこの戦闘では、記事では触れられていないが慰問団にも被害がでた。


その詳細は五日後の730日付の記事で明らかにされる。


祭壇の前に座った幼い女児の写真とともに「妻の遺骨携え前線慰問 郷里の愛娘から激励の手紙」とタイトルが付けられたその記事には、山西省南部の苗庄という場所で起きた戦闘の際に、吉本興業の女性漫才師である花園愛子(稲田みさ)が命を落としたこと、旦那で慰問団長を務めていた同じく漫才師の桂金吾(清次郎)が妻を失った悲しみを抑えて前線での慰問を続けている、という内容だった。


桂金吾と花園愛子は、当時浅草で夫婦漫才で活躍していた吉本興業の芸人だ。


歌と三味線がうまい、とぼけた味のある漫才が売りだった。


江戸前の芸を武器に、東京吉本の専属として浅草でも結構売れていたという。


遭難当時、愛子は数え年で36歳、夫婦の間には小学生の幼い女児がいた。


金吾と愛子が参加していた慰問団は、吉本が積極的に外地へ送り出していた「わらわし隊」とも呼ばれた陸軍省派遣の慰問演芸団だ。


他に夫婦漫才が一組に奇術親子の三人、声帯模写の男芸人、浪曲の男女一組の計10人で中国大陸の前線部隊を回っていた。


一行は6月に北平に入ったあと、当時河南省を警備していた第三十五師団(第二軍)の部隊を中心に、開封、新郷などの都市の他に辺境の駐屯地までを細かにまわっていたようだ。


このとき日本軍は、撤退した中国軍と黄河を挟んで対峙しており、数ヶ月後に黄河を渡河して攻撃を行う河南作戦の準備のために最前線に部隊を配置していた。


遭難が起きた722日は、済源の歩兵第二百二十一連隊本部(小林部隊)の慰問を終え、済源からさらに西の警備隊(歩兵第二百二十連隊)を慰問するためにトラック四台で出発したという。


遭難時の様子は、昭和13年(1942年)に朝日書房から出版された山路幸雄著『国民娯楽演芸読本』に戦争美談として大きく紹介されているほか、金吾から実際に聞いたという小島貞二の記述もある。


しかし、やはり公務を詳細に報告する必要のあった歩兵第二百二十連隊が正確に記録していたようだ。


220会誌によれば、朝の八時半に済源を出発した一行は、昼頃に両側が丘となって谷間状となっている峠道にさしかかったときに中国軍の待ち伏せ攻撃を受けた。


当時の報道では、遭難場所を山西省南部としているが実際には河南省北部の黄河の支流のほとりだった。


このとき先頭車が被弾して急停車、後続車は全員が飛び降りて河原へ散開して応戦したが、護衛兵一個分隊の慰問団に対し、機関銃を装備する敵二百に囲まれて負傷者が続出した。


その日に限って先頭車の助手席に座っていた愛子は、負傷した運転手を抱えて下車しようとした際に右大腿部に二発の銃弾を受けて歩行不能、金吾らが車から降ろしたときにはすでに虫の息だったという。


総勢四十名ばかりの将兵たちが次々に倒れていく中、覚悟を促された慰問団の芸人たちは、おのおの戦死者の銃をとり戦闘に参加した。


接近する中国兵に手榴弾を投げるほどの激しい戦いは、救援隊が駆けつけるまで四時間にわたったという。


この間、充分な手当が出来なかった愛子は出血多量で亡くなった。


戦死した女性漫才師のニュースは、すぐに前線から内地へと伝わった。


愛子の遺骨は現地で焼かれ、金吾は白木の箱を胸に、その後一ヶ月間、予定の慰問をこなした。


慰問の先々で暖かいもてなしを受けたが、移動の途中に車が揺れて箱がカタカタ鳴る度に痛がっているようで哀しく感じた、とは、団長として私情を殺して慰問を続けた金吾の当時は人には言えない胸のうちだ。


小林部隊からは感状が授与され、北平では岡村大将列席の官民合同葬儀が営まれた。


東京に帰還後は、91日に浅草の東本願寺で盛大な帝都漫才協会葬が営まれ、会葬者三千人を数えたという。


名誉の戦死を遂げた愛子には勲八等の叙勲があり、戦後の1965年(昭和40年)には陸軍軍属として靖国神社に合祀された。


漫才師で靖国にまつられたのは愛子だた一人だという。

 

妻を戦場で亡くされた桂金吾はどんな気持ちだったんでしょうか?


吉本興業の慰問団に妻とともに参加したことを後悔してもしきれなかったと思います。


桂金吾はその後引退し静岡の伊東市に住みました。


戦争は罪のない人の命を奪う


戦争では罪のない大勢の人が亡くなります。


これが理性のある人間のすることなのでしょうか?


喜劇王のチャプリンはこんなことを語っていました。


「戦争をやって、いがみ合っている国のリーダーをリングの上にみな引っ張ってくるんだ。


そうしてトランクス一枚の裸で、徹底的にやらせるという具合にいかないもんかね。」


全世界のリーダーが集まって、そろそろ戦争がなくなるルール作りができても良さそうな気がするのですが…。


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