NHK連続ドラマ「わろてんか」風太( 濱田岳 )率いるわらわし隊が無事に日本へ戻ってきました。
風太、リリコ、四郎、キースとアサリ慰問団に行った全員が戻ってきました。
「わろてんか隊」無事でほんと良かった。
毎日、毎日、朝ドラを観ていますから、今だと中国へ戦争中に慰問に行ったのはなんと言う名前の慰問団と聞かれたら「わろてんか隊」と即答してしまいます。
昭和の時代を知っているかどうかを聞く試験に昭和検定試験があります。
■ 昭和検定試験
昭和検定試験ではこんな問題が出されました。
第1回 昭和史上級検定試験
【問い 83】
昭和 13 年、 中国大陸の前線へ落語家や漫才師らが派遣された 慰問団の名称は?
1 芸能隊
2 おかしい隊
3 わらわし隊
4 笑門隊
回答の選択肢がなければ即「わろてんか隊」と答えるところでした。
( 笑い )
■ 日本と世界との戦争
日本が世界の国と戦ったのは以下の通りです。
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1914年 第一次世界大戦
1931年 満州事変
1937年 日中戦争
1939年 第二次世界大戦(太平洋戦争)
日本は1894年から終戦の1945年が8月15日の半世紀は世界の国との戦争にあけくれている年でした。
吉本興業の吉本せいと林正之助はその時代を乗り越えなければならなかったのです。
そのために軍隊に協力さぜるを得なかったのです。
■ 吉本興業「わらわし隊」
吉本興業「わらわし隊」は何度も何度も中国の戦地に慰問団を送っています。
1月13日
● 第1回
北支那班
柳家金語楼 ( 班長 )
花菱アチャコ・千歳家今男
柳家三亀松
京山若松
中支那班
石田一松
横山エンタツ・杉浦エノスケ
神田廬山
ミスワカナ ・玉松一郎
11月
● 第2回
北支那班
林田十郎・芦の家雁玉
花月亭久里丸
深田繁子
鹿島洋々
京山愛朝
中支那班
神田伯龍
秋山右楽・左楽
東五九童・松葉蝶子
松鶴家光晴・浮世亭ゆめ若
荒川成三郎・玉枝
ミスワカナ・玉松一郎
文の家久月・三遊亭柳枝
アダチ龍光
吉田奈良千代
12月
● 第3回
南支那班
石田一松
香島ラッキー・祇園セブン
桃山天声( 曲師・桃山定子 )
浮世亭公園・日之出家男蝶
● 第4回
北支那班
河内家美代次・文春
東海亭花橘・玉子家光子
大利根太郎( 曲師・吉沢団蔵 )
中支那班
桂金哉・金ニ
祇園千代子
木村小友( 曲師・戸川大介 )
南支那班
千代田みどり・松緑
林家染子・染次
広沢小虎造( 曲師・とし子 )
艦隊慰問班
柳家千枝造・慢作
奥野イチロウ・竹本ジロウ
秋山右楽・左楽
浪花軒〆友( 曲師・荒川文柳 )
松平晃( アコーディオン・岡本豊久 )
■ 「わらわし隊」の犠牲者
そして、朝ドラでも主人公てんとトキが恐れていた通り犠牲者がでてしまいます。
1941年7月22日、河南省の最前線に派遣されていた慰問団が中国軍の攻撃を受け、東京吉本所属の女性漫才師花園愛子が犠牲となっている。
その後トランプ・カルタ、玉子家辰次、ミスワカメ(ミスワカナの弟子)の乗っていた船が台湾沖で魚雷によって撃沈し、亡くなっている。
吉本興業のわらわし隊は戦争の最前線まで慰問を続けたため犠牲者を作ってしまったのだ。
■ あまりに過酷な現実があった。
わらわし隊は朝日新聞が吉本興業の協力で始まった。
エンタツは最初の派遣に参加。
上海や南京などでの体験を手帳につづっていた。
日記は一行が上海に着いた1月17日から、帰国した2月13日までほぼ毎日書かれていた。
南京入りして2日目の1月24日付には、揚子江沿岸部の下関(シャーカン)を訪れたと記す。
日本軍による南京陥落から6週間後だ。
「その当時は敵の死体で一ぱいだったそうだが凡(すべ)て我軍の制理であとかたもなし しかし川にはあちこち浮んで居る」
日々の出来事とは別に、箇条書きされたメモもあった。
「水がない クリークの死体の水だ だから僕はオブラードで水を包んでのんだ。」
※クリークとは水路
日本軍を題材としたこんなメモも書き残していた。
「砲台の上に沢山(たくさん)の支那の死体がある日本軍がしたいほうだい(死体砲台)」
芸人にとってわらわし隊は過酷なものだった。
それでも明日の命さえもない兵士たちを「笑い」で癒したいと思った彼らの使命感が吉本興業のわらわし隊を継続させ続けたのだろう。