ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 寄席

NHK連続ドラマ「わろてんか」朝ドラマの舞台は大阪である。


そんなことはわかっているよと言うかも知れないが、大阪と東京とでは同じ日本にあってもえらい違うのだ。


えっ‼︎


そんなに違うのかって?


そんなに違うのよ。


大阪弁と標準語。


確かにそれもある。


でも根本的な文化が違うです。


また、「お笑い」に大阪文化が色濃く反映しています。


大阪のイラチ文化。


大阪に住んだ時に良くわかった。


だれもがみんかかけ足なのである。


嘘だと思うんなら通勤時に駅に行くと良い。


大阪ではあっと言うまに追い抜かれてしまう。


大阪人は歩行速度が世界一らしい。


秒速1・6メートルでせかせか歩く。


福島県人と同時スタートすると1時間後には1キロの差がつく。


信号フライング率も世界一である。


東京では47パーセントが信号を待つが、大阪では10・5パーセントしか待たない。


イラチ(せっかち)なのである。


そうか大阪人はイラチなのか。


基本的に大阪人はイラチ文化なのだ。


努力しない根性文化。


大阪をあらわす日本一はいくらもある。


ひったくりの発生件数が25年連続で日本一になっている。


ある夫人が銀行から出たとたんのひったくりで400万円を奪われた。


東京から来て3年目のバーのマダムだ。


「そやから、気いつけなあかんと言うてたのに」


と諌めていた生粋の大阪の女性起業家が、半年後にひったくりにあった。


「いやあ、ほんまにあっというまやったわ」


と感心していた。


感心してどうすんにゃというところだが、そのほか、損害保険払い戻し高も日本一、自転車窃盗・少年犯罪・自殺者・詐欺件数・引き逃げ率もすべて日本一である。


これはイラチというより「濡れ手で粟」の味を子供のころから身につけているということで、とんでもない根性である。


ガメツイのではない。


努力しない根性だ。


それが文化なのだ。


イテマエ精神


こんな町でよくもやっていけるとおもうが、天才漫才師横山やすしは、黄色で止まる送迎運転手に


「あほたれ、そんな消極的な人生おくってて、どうするんや!」


と罵声をとばしていたらしい。


これはイラチでもガメツイでもなくイテマエ精神です。


イテマエ。


イテマエ。


これが大阪人の熱き血なのである。


2000年問題のとき、JR東日本は列車・電車を一時停車させようとしていたが、JR西日本は


「東日本がどうしようと、うちは止めへん」


と豪語していた。


やはりイテマエなのだ。それがのちの尼崎の脱線大事故につながった。


かつては、こういう町にユニークな企業が次々に育ってきた。


阪急も松下もシャープもダイエーもサントリーも、そして吉本興業も。


大阪は「笑い」の吉本工場である。


昭和史のなかでは大阪はもともとバーミンガムやマンチェスターに並ぶ煙突の町だった。


毛織物工業や加工工場が町を占めていた。


それがその後にどんどん変質して、ついにはお笑いの町になった。


「大阪の工業で一番有名なのは何ですか」


と小学校で聞いたところ、生徒の半数以上が


「は~い、吉本コーギョーです」


と答えたらしい。


大阪は「笑い」を製造する吉本工業に制覇されたのだ。


やがてその「笑い」が日本を制す。


吉本興業が日本の朝を制覇する。


ついにNHK連続ドラマでも吉本興業をモデルにした朝ドラマが日本の朝を制覇した。


NHK連続ドラマ「わろてんか」は吉本興業の日本制覇の一つの手段です。


毎日、毎日、吉本工業は「笑い」を製造する。


今はテレビを観ればどの番組にも吉本芸人が出ているではないか?


大阪から生まれた「笑い」のメーカー吉本工業が日本の放送界を制覇した瞬間なのです。


それはまた大阪文化が全国に進出している証でもあるのです。







脳科学者の茂木健一郎氏が、「日本のお笑いはつまらない」とツイートして話題になった。


米国のトークショーは社会問題などを取り上げていることが多いが日本のお笑いには馬鹿な笑い話ばかりであると言うのだ。


うむ、そう言えばテレビの「お笑い」番組はくだらない話しのオンパレード。


なんだか馬鹿馬鹿しくて笑えないと思っているのは私だけだろうか?


日本のお笑いってこんなんだっけ。


昔は結構、社会問題にもお笑いにした漫才師っていたよね。


私が思い出した漫才師は


世相・ニュースに切り込んだ漫才師


人生 幸朗・生恵 幸子(じんせい こうろ・いくえ さちこ)は、日本の夫婦漫才コンビでした。


夫の幸朗が歌謡曲や世相などにとんちんかんな難癖をつけ、「責任者出てこい!」の決めゼリフを吐く「ぼやき漫才」でテレビ、ラジオに出演していました。


幸朗が「浜の真砂は尽きるとも、世にボヤキの種はつきまじ」


幸子「キザなこと言うな、このハナクソ!


幸朗「わたしのこと、みなボヤキやあ、ボヤキやあ言うてねえ」


幸子「当たり前や。誰かて言わはるわ。ボケ!


幸朗「しかし、みなさん、これは私がボヤくのやのうて、今の世の中が私をボヤかしまんねん」


幸朗「まぁ皆さん、聞いてください」と聴衆に語りかけ、世相・ニュースを斬り始める。


幸朗「電車の線路のそばに住んでて、警報機の鐘、あのカンカンカンというのがうるそうて寝られん言うて、警報機の線を切った奴がおる。そんなもん切ってどないすんねん。あの警報機の音で近所の住人の安全が守られとる。あのカンカンカンという音を聞いて、ああ空襲やなと思うんやないか」


幸子「なにー? あほか」


幸朗「満員のバスで、子供が前に飛び出したから、運転手急ブレーキかけよった」


幸子「まあ。危ないやないの」


幸朗「幸い子供は無事やったんやけど、急ブレーキやったもんやさかい、吊り革持たんとボーっと立っとったオッサン、仰向けにひっくり返って、そのこける格好がおかしいと乗客大笑い、誰も手ェ貸してくれよらん!


幸子「え~っ!! そんならアンタもわろとったん?


幸朗「じゃかましいわい!! いやしくもワシは正義の味方や、そんなこと見て黙っとれるかい!


幸子「まあ。えらいやないの。助けたげたンか」


幸朗「黙れ~!!! 話は最後まで聞け!!


幸子「何やねん一体!!


幸朗「助けたくても助けられるかい!!


幸子「なんで!?


幸朗「こけたン、ワシじゃ!!


幸子「アホか!!


幸朗が熱っぽく田中角栄の金権政治などを批判すると、観客の盛大な拍手をうけた。


このとき幸子は冷淡に「あ~あ。デボチンに汗かいてェ」とツッコむ。


日本のお笑いって面白かったじゃん。


かっては世相やニュース、社会問題に切り込んだ漫才師は日本にいたのだ。


漫才師も高学歴化して大学卒業の漫才師が増えたのにもかかわらず、なぜ世相やニュース、社会問題を漫才にする漫才師が少なくなったのだろうか?


もっともっと社会問題や政治問題にも「笑い」でツッコむ漫才師が出て来て欲しいものである。

NHK連続ドラマ「わろてんか」を楽しみに観ています。




ところで「わろてんか」である舞台の寄席、みなさんは行ったことがありますか?


寄席って日本では昔から庶民の憩いの場所で、舞台の落語や漫才を見ながら気楽にお酒を飲んだりお弁当を食べたり自由な場所なんですよ。


寄席は飲食自由だ‼︎


鈴本演芸場のホームページはつぎのような文句がトップページに掲げられています。


お弁当食べてもいいんです 


お菓子を食べてもいいんです 


ビールを飲んでもいいんです 


そして腹の底から大笑い 


鈴本ってこんな寄席です。


寄席は客席で食事を取ってもかまわないことになっているようです。


寄席の売店


寄席の売店では助六寿司とビールも売っていました。


ビールを飲みながらお寿司を食べ舞台を楽しむ最高ですね。


寄席の売店には助六寿司とビール




おっ‼︎


助六寿司か大好物です。


でなんか寄席のことより助六寿司の方が気になってきました。


稲荷寿司と太巻がセットになったお寿司のことを助六寿司といいます。


なぜ助六寿司と言うんだろう?


助六という名前は歌舞伎の世界から来ています。


歌舞伎の人気演目に「助六由縁江戸桜」

( すけろくゆえんのえどざくらと読みます )

があります。


この演目の主人公の名前が助六というのですが、この助六には愛人がいて、彼女の名前が「揚巻」という名前の花魁(おいらん)でした。


彼女の名前の「揚」から油揚げを使った稲荷寿司、「巻」から巻き寿司と洒落て、稲荷寿司と巻き寿司を組み合わせたものを助六と呼ぶようになったそうです。


また、助六寿司は元々この演目で幕間に出された弁当だそうで、その中身はもちろん「揚巻」という名前に由来した稲荷寿司と巻寿司だったそうです。


助六と揚巻は切っても切れない関係のようです。


助六由縁江戸桜


曾我五郎、十郎という兄弟が、親の仇の工藤祐経を討つために源氏の宝刀「友切丸」を探していました。


それぞれ侠客と白酒売りに身をやつして江戸の吉原を探索します。


この時、曽我五郎は「花川戸の助六」として吉原に潜入します。


そこで助六の愛人だったのが遊女の「三浦屋の揚巻」という人。


そして、この揚巻に横恋慕する意休という者がいるのですが、この意休が持っている刀がそれらしいと知って、助六はわざと喧嘩を仕掛けます。


意休は助六が曾我五郎である事を知っていて、ひそかに友切丸を抜いてみせ、源氏を裏切って平家につくよう促します。


しかし、助六はそれに応じず、意休を倒して刀を手に入れるというお話です。


ものにはいろいろと由来と歴史があるんです。


日本っていいですよね。


寄席を見ながら自由に生きる。


落語や漫才を観てビールを飲んで助六寿司食べて気分は満足です。


寄席って最高‼︎

NHK連続ドラマ「わろてんか」の主人公てんのモデルは吉本興業の吉本せいです。




ドラマは現在、大正5年( 1916年)。


藤吉は二軒目の寄席を探し始めたところです。


いろいろとドラマは進んでいきましたが、実際の上方落語の歴史をみながらドラマかどんな風にながれてきたのかみてみたいと思います。


上方落語の歴史


1774年(安永元年)から1789 年(天明末年)まで、上方落語の小咄本が多く発行されていました。


これらは、大阪の神社の境内など屋外で披露されていたもので、当時、大阪において文化人が中心となって、一般から新しい小咄を募って、大阪庶民による素人咄の会が流行したことで、その咄をまとめた書物がほとんどです。


その後、1794年(寛政 6年)には、大阪に初代桂文治が登場しています。


桂文治は大阪の坐摩神社の境内のなかに落語用の小屋を建てて、そこで大阪の庶民を相手に落語を連日のように演じるようになりました。

坐摩神社での落語の公演が、大阪の寄席の始まりといわれています。


桂文治は、落語のほかにも囃子鳴物入りの芝居噺も演じており、大阪の庶民の間で一躍有名になりました。


この初代桂文治が現在まで残る「桂」を称号する落語のルートとなっています。


幕末になると、上方落語が繁栄期を迎えることになり、称号も「桂」のほかに「笑福亭」や「林家」「立川」というような現在まで続く一門が並立するようになりました。


この頃、一門が上方落語でしのぎを削ることで、噺の世界は一気に発展を遂げることになります。明治時代に入ると「立川」が姿を消すことになり、残りの三派により上方落語の黄金時代を築いていきます。


現在、上方の古典落語として噺家たちの間で披露される小咄の多くはこの頃につくられてものです。


1874年(明治7年)に桂文枝の死後、二代目襲名をめぐる争いが生じて、「桂」から「月亭」という別派が登場しました。


この襲名闘争がきっかけで上方落語界では、さまざまな派閥が離合集散します。


明治中頃に入ると上方落語界はまたしても黄金時代を迎えます。


月亭派と文團治派、笑福亭派の合流により結成された「難波三友派」と「桂派」が二大派閥として頭角していました。


二派の争いは明治の終わりまで続きます。桂派は次第に三友派に吸収されて二派の争いは終焉します。


しかしその三友派ものちに大阪で頭角した新興芸能である漫才の勢いに押されて、寄席の中心を追われてしまうことになりました。


この新興芸能の流れを作ってきたのが、「わろてんか」主人公てん、吉本せいのいた吉本興業になるわけです。


今日もゆっくり「わろてんか」を楽しみましょうね。

NHK連続ドラマ「わろてんか」兵動大樹が演じる寺ギンのモデルになったのは実在の興行師・岡田政太郎です。




ほんとうに悪キャラですね。


藤吉との興行収入の取り分も五分五分の約束も最後は六四に変更されてしまいました。


寺ギンは悪党です。


藤吉のなんとかわいさうな顔。


寺ギンのモデルは岡田政太郎


風雲の興行師


風呂ギンのモデルは風呂政と呼ばれた風雲の興行師、岡田政太郎です。


彼は大阪府牧岡市池之島町(大阪府東大阪市)、慶応3年( 1863年)ごろに生まれています。


主人公てんのモデル吉本せいより26歳上でした。


非常に商才があり、玉造の風呂屋に養子に入って、風呂屋で成功したことから、「風呂政」の異名がありました。


また、色が黒いことから「黒政」とも呼ばれていました。


風呂屋の経営に飽きた岡田政太郎は、株で儲けた莫大な資金を背景に、三流の寄席「梯子亭」を手入れして「富貴亭」と改称し、寄席の経営に乗り出したのです。


明治時代、一流の芸といえば落語で、落語が演芸界の中心にあり、その他の芸は「色物」と呼ばれ、二流・三流の扱いを受けていました。


寄席の経営に進出した岡田政太郎は、三流の寄席「富貴亭」に落語家を呼ぼうとしましたが、落語家はプライドが高いので三流の寄席には出演してくれなかった。


落語界に怒った岡田政太郎は、「なんでも構わぬ、上手いも下手もない、銭が安うて、無条件に楽しませる演芸」という方針で芸能事務所「岡田興業部」を設立。


明治43年( 1910年)に浪速の落語に反対する「反対派(浪速落語反対派)」を発足したのです。


「格安の入場料」「寄席の多店舗展開」「芸人を金で縛る」という手法で「反対派」の勢力を拡大していきます。


「わろてんか」の北村藤吉、ドラマでは米問屋になってますが、モデル吉本泰三の家業の荒物問屋「箸吉」でした。


モデルと同様、「箸きち」も廃業して吉本泰三は寄席を始めます。


吉本泰三と妻・吉本せいは、大阪府大阪市北区にある天満宮裏の三流の寄席「第二文芸館」の経営権を購入すると、岡田政太郎の「反対派」と提携し、明治45年( 1912年)4 1日に寄席の経営を開始し、「吉本興行部」を設立したのです。


吉本泰三は、岡田政太郎の手法を真似て、「低価格の入場料」「店舗のフランチャイズ化」という手法で店舗を拡大していきます。


岡田政太郎の「反対派」と吉本泰三の「吉本興行部」は、両輪の様な関係で勢力を拡大していき、岡田政太郎は京都進出を果たし、吉本興行部も大阪の繁華街ミナミへと進出し、岡田・吉本連合は落語をしのぐ勢力へと成長していったのです。


芸人を抱えていたのは岡田政太郎の「反対派」で、吉本泰三の「吉本興行部」は寄席の経営だけであり、反対派から芸人を派遣してもらい、吉本の寄席に上げるという形を取っていた。


吉本興行部の勢力拡大は目まぐるしく、やがて、反対派が出演する寄席の過半数が吉本興行部の寄席となり、吉本興行部と「反対派」の興行主・岡田政太郎の立場が逆転しました。


吉本興業の総監督・吉本せいの弟、林正之助は吉本興業で自前の芸人を抱えるべきと考えていまさかたが吉本せいは岡田政太郎に義理立てして首を縦には振らなかった。


その矢先の大正9年( 1920年)12 月に「反対派」の興行主・岡田政太郎が急死。


通説によると、享年53


死因は不明です。


これを好機と捉えた林正之助がことを起こし、反対派は吉本系の「吉本花月連」と岡田系の「岡田反対派」に分裂しました。


しかし、「岡田反対派」は林正之助が暗躍したため、わずか3ヶ月で崩壊し、吉本興行部の「吉本花月連」に吸収されて消滅したのでした。


その後、吉本興業は落語の勢力を傘下に収め、大阪の演芸会を統一して、吉本王国を築いたのでした。


ドラマと史実の違い


ドラマでは寺ギンは悪役として登場していますが、寺ギンのモデル岡田政太郎さんは藤吉モデルの吉本泰三の協力者だったようです。


吉本泰三の寄席を陰になり日向になり応援してくれたのが岡田政太郎さんだったようです。

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