ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:わろてんか > 伊能栞

昭和9年は吉本興業にとっていろんな出来事があった年でもありました。


吉本興業のヒストリーより


昭和9年の吉本興業


211 吉本せいが各所への寄付の功績などで、大阪府から表彰される。


3 アメリカよりボードビルショー『マーカス・ショウ』を招聘し、東京・日本劇場(日劇)で上演。


“ショウ”という言葉が一般に浸透する。


425 東京・新橋演舞場で3日間の『特選漫才大会』を初開催。


610 「南地花月」からラジオJOBK(現NHK大阪放送局)による寄席中継が行われる。


10 吉本初の製作にして日活と提携の浪曲入りトーキー映画『佐渡情話』が封切られ、大ヒットとなる


東京・浅草の「万成座」でグランデッカール(後の「吉本ショウ」)が初公演 日本初のプロ球団「大日本東京野球倶楽部(のちの読売ジャイアンツ)」が誕生、資本参加。


と吉本興業にとっては昭和9年はまさに最高の年。


吉本興業は漫才とラジオのコラボにより吉本興業部の名は日本全国に轟くようになりました。


吉本興業の頂点に立つ吉本せいは「女今太閤」「女版小林一三」と言われるほどです。


小林一三は当時の有力実業家。


NHK連続ドラマ『わろてんか』の中で、高橋一生演じる伊能栞の史実モデルとされている人物です。


「わろてんか」の朝ドラで言うと伊能栞( 高橋一生 )とてん( 葵わかな )がビジネスにて肩を並べたと世間が認めたと言うことになります。


吉本せいは1928年(昭和3年)には、慈善事業の功績も認められ「紺授褒章」を受け、さらに1934年(昭和9年)には大阪府から功績を称えて表彰されています。


まさに吉本せいは最高の名声と名誉を受けたのです。


吉本せいと脱税汚職事件


しかし「女今太閤」と称された吉本せいは、皮肉にも晩年の黄昏まで豊臣秀吉と同じような寂しさがあり、ある事件が降りかかります。


それは1935年(昭和10年)のことでした。

辻阪信次郎という政治家が、脱税汚職事件で逮捕されてしまったのです。


大阪府議会議長までとつとめ、実業家としても政治家としても成功していた辻阪信次郎は、吉本せいとただならぬ仲であると囁かれておりました。


吉本せいは彼の政治活動に多額の寄付をしていました。


吉本せいが大阪府から表彰されたのも、辻阪信次郎の根回しがあったという噂も。


そうなると火の粉は吉本せいにもふりかかります。


脱税工作に関わったとして、当局に出頭を命じられるのです。


「女今太閤」の凋落に、マスコミは飛びつきました。


大勢の逮捕者が出たこの事件でも、吉本せいの注目度は桁違いだったのです。


しかし事件は意外な形で終わりを迎えます。

1936年(昭和11年)1月、辻阪信次郎が獄中で首を吊ったのです。


最大の容疑者がいなくなり、もはや捜査は継続できません。


辻阪信次郎はせいに関しては一切黙秘を貫いていたらしく、まさに命がけで彼女を守ったのでした。


吉本せいと辻阪信次郎


辻阪信次郎もまたNHK連続ドラマ「わろてんか」で伊能栞のモデルではないかと言われています。


NHK連続ドラマ「わろてんか」で登場する伊能栞( 高橋一生 )は映画会社を設立し大実業家です。


この点では小林一三がモデルのようなのですが、小林一三と吉本せいには実際の接点はほとんど見受けられません。


辻阪信治郎は吉本せいの協力者として吉本興業の会社にも入り吉本せいのバックアップに尽力をしていました。


ドラマの脚本家吉田智子は小林一三と辻阪信次郎の二人をモチーフにしながら伊能栞の人物をドラマの中で描いています。


再び高橋一生ロスが訪れる。


仮にドラマで辻阪信次郎をモチーフにして、この通りの死に方をすると、『おんな城主直虎』で高橋さんが演じた小野政次とよく似た最期を迎えることになります。


脚本家、吉田智子は今までにドラマ『学校のカイダン』(日本テレビ)『美女か野獣』(フジテレビ)、映画『僕等がいた』『カノジョは嘘を愛しすぎてる』『ホットロード』の脚本を書いて世に出しています。


これらの作品に共通しているのは、「泣ける」作品だということ。コメディやアクションではなく、「泣かせる人間ドラマ」の脚本が目立っています。


NHK連続ドラマ「わろてんか」についても


吉田智子


「ドラマ中の日常シーンは小さな笑いに満ちています。どんなに悲しい出来事が起きたとしてもそれを乗り越えられるくらい、私たちの人生には小さくてもかけがえのない『面白い』ことがあふれているのだと気づくことができる、そんな泣けて笑える“朝ドラ”をお届けします!」


そんな脚本家、吉田智子が描くドラマだからこそ最後は高橋一生演じる伊能栞が亡くなるシーンで悲しみを誘う場面が登場するのかと思われます。


再び高橋一生ロスが‼︎


吉田智子脚本のNHK連続ドラマ「わろてんか」今後の展開に期待です。


NHK連続ドラマ「わろてんか」で最も旬の俳優である高橋一生さんがキャスティングされた時点でざわめきが起き、放送前から「伊能栞(しおり)のモデルは誰なのか?」と話題になっておりました。


伊能栞の事業に関するモデルは小林一三です。


関西産業界においてレジェンドとも言える経済界の巨人であり、芸能関係にもビジネスを広げたヤリ手。


しかし、NHK連続ドラマ「わろてんか」の主人公てんモデル吉本せいとは接点のあまりない人物なのです。


史実で吉本せいと小林一三が接近したのは吉本興業が映画製作に乗り出した後のことです。


なぜ、主人公てんと伊能栞( 高橋一生 )が中心的に描かれるのだろうか?


吉本せいと小林一三


吉本せいは吉本吉兵衛(泰三)と結婚し、「吉本興行部」を設立するが、1924年、夫が亡くなってからは実弟の林正之助を片腕に事業を拡大。


1932年、「吉本興業合名会社」に改組し、東京支社も起ち上げる。


以降、大阪吉本を林正之助が、東京吉本を次弟の林弘高が率い、姉の吉本せいが大芸能プロダクションの初代社長となって両者をまとめた。


東京では、1935年、東宝の前身の一つ「ピー・シー・エル映画製作所」と提携し、吉本興業は映画制作に乗り出す。


翌年には「東宝映画配給株式会社」と提携するなど、吉本興業と東宝とが接近した。


そうした1937年、小林一三は、東京錦糸町の駅前に東宝系の映画館などをオープンさせる。


「東京下町の大衆に健全な娯楽を提供」しようと「江東楽天地」と命名(現、東京楽天地)。


翌年ここに、吉本興業の「江東花月劇場」が開場した。


そして1939年、吉本興業の林正之助が、一三に乞われて東宝の取締役に就任する。


戦後の1948年、「吉本興業株式会社」に改組して会長に吉本せいが就任。


しかし1950年の春、吉本せいはこの世を去った。


一三は『日記』に「天王寺本坊に於ける吉本セイ女の葬式にゆく。


トテモ派手な、立派な葬式であつた。」と記す。


その後、吉本家の遺族と林兄弟との間に揉め事が生じ、小林一三がその仲裁役となった。


1955年、「吉本せい女史の相続人」が一三に相談を持ちかけた。


けれどもこの時一三は、「林君兄弟と共に吉本せいさんの遺志をついで協同しておやりなさい」と勧めたという。


この後も数度にわたる相談があり、結局一三は、時の文部大臣清瀬一郎を訪ね、問題解決への助力を依願した。


「一日も早く林君を呼寄せ平和に妥協解決してほしい」。


その結果、清瀬「立会の上、林兄弟と協定が出来」、「吉本家のゴタゴタも一先づ解決したので目出度目出度である。」


一三は、吉本せいが始めた事業の円満な継承を望んだ。


後日「吉本の林弘高君紛争解決のお礼に来訪。」とも見える。


ドラマは全くのフィクションと思うべき。


このように、吉本せいと小林一三はほとんど会うこともなかったのではないかと思われます。


NHK連続ドラマ「わろてんか」は実際にあった吉本興業の歴史とはかなりかけ離れたものになっているのです。


NHK連続ドラマ「わろてんか」の公式ページには


「ドラマは実在の人物群をモチーフにしていますが、その物語は一人の女性が愛と笑いと勇気をもって懸命に生きる一代記として大胆に再構成し、フィクションとしてお届けします。」


娯楽としてのテレビドラマ。


あえて裏の部分は描かないし、必要ないという意見もあるが、実話をもとにした今回のわろてんか。


確かに楽しい面白い泣けるとかと言うドラマを脚本家が作られるのは良いが、あまりにも絵空事が多くなると観ていてしらけてしまうのです。


できるだけリアルに、しかも基本的な部分は史実にそってドラマとして描いて欲しい。


こんな思いを抱いているのは私だけだろうか?


今日はNHK連続ドラマ「わろてんか」のちょっと気になったことを書いてみました。

 NHK連続ドラマ「わろてんか」登場の伊能栞(高橋一生)の史実モデルは阪急グループや宝塚歌劇団の創設者小林一三です。


小林一三は多くの事業を次々と行ってきました。


その中でも特に宝塚歌劇団は女性だけの劇団としていまや日本だけでなく、全世界からも注目されるようになっています。


※えっ 全員女性?? 宝塚歌劇団 世界の反応

http://jipangnet.blog.fc2.com/blog-entry-26.html


女性だけの劇団って世界を探しても宝塚歌劇団の他はないのです。


まさに「女の園」


しかし、この宝塚歌劇団にも男の劇団員が在籍していたのを知っていますか?


■ 宝塚歌劇団男子部


宝塚歌劇団男子部(20100524日 朝刊)より


宝塚歌劇団の創設者、小林一三氏の発案で、1945年12月に1期生5人が入団して誕生。その後、2期生3人、3期生5人、4期生12人が加わり、計25人が在籍した。


だが、「タカラヅカは女の園」「宝塚の舞台に男は似合わない」というファンや女子生徒の反発もあり、メーンステージである宝塚大劇場の舞台に俳優として一度も立つことなく、54年3月に解散しました。



宝塚歌劇団男子部の男性たちはどんなふうに考えていたのでしょうか?


舞台に上がることを夢見て毎日努力をしてきたが一度も舞台に上がることもなく終わってしまった。


なんだか男たちの悲しい話しですね。


世の中には報われる努力と、報われない努力とがあります。


また、注目される者、されない者もいるんです。


その差は甚だしく、理不尽で不平等な世界がわたしちの生きている社会です。


華やかにスポットライトを浴びる者がいる反面、いくらやっても報われない者もいる。 


それでも、彼はこの仕事続けることを選んだんだから。 


地道に努力してきたことは、無駄にはならないと思って日々努力をします。


再び光が当たった時には、力を蓄えている。

 

多くの人にわかってもらえなくても、深く理解し、心配してくれる人がいる。


毎日が葛藤の連続だったのでしょう。


報われなくても頑張る姿は美しいのでしょうがでも虚しさだけは残ってしまいますね。


宝塚歌劇団の女性たちの美しく華麗な世界の中にも、その裏にひっそりと生きた男たちもいたことを少し考えてみました。

1973年( 昭和48 )1011日、この日は9連覇を目指す巨人と阪神の首位攻防戦が後楽園球場で行われた。


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東京ドームの前の後楽園球場での話です。


この試合は2回に長嶋がサードゴロを捕りそこない、右手薬指を骨折し退場、2回までに巨人は7点をリードされた。


誰もが阪神の勝利を疑わなかったが、巨人がホームラン攻勢で逆転し、阪神も終盤に追い付き、結局10-10の引き分けで終わった。


もの凄い試合でした。


阪神はその10日後の中日戦で勝てば優勝が決まる試合に敗れ、巨人との最終戦同率決戦にもつれる展開となった。


1022日甲子園での対阪神26回戦に90で勝利し、9年連続セ・リーグ優勝を達成。


日本シリーズで南海を41敗で下し、9年連続日本一達成。


巨人軍にとってはまさに栄光の年でした。


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この当時の後楽園球場はNHK連続ドラマ「わろてんか」登場の伊能栞の史実モデル小林一三が経営していたのです。


小林一三と後楽園球場


1936年、職業野球チームのリーグ戦が始まると、東京にもプロ野球専用の野球場の開設が求められた。


神宮球場は、専ら大学野球に充てられていたのである。


そこで同年、正力松太郎や小林一三らの出資で、株式会社後楽園スタヂアム(現、株式会社東京ドーム)が設立された。


小林一三は同社創立発起人に名を連ね、12月には正力松太郎とともに相談役に推挙される。また取締役会長と専務取締役には、一三の異母弟であった田邊七六・田邊宗英が就いた。


そして1937年、後楽園球場が開場し、東京でのゲームの拠点となる。


これより読売ジャイアンツは、実質的な本拠地として後楽園球場を使っている。


さらに1938年には、小林一三が全株式数の過半数を取得して、後楽園スタヂアムを東京宝塚劇場(現、東宝株式会社)の傘下に置く。


取締役会長には渋沢秀雄、取締役社長には吉岡重三郎、専務取締役には秦豊吉など、東宝の重役が選任される。


以降、野球のオフシーズン時期の球場の利用などに、サーカスなど多角的なイベント経営力が活かされた。


グラウンドの壁広告から収入の増大が計られ、1940年に開場した内野スタンド下の映画館「スポーツ・シネマ」も人気を呼んだ。


戦後1949年、持株会社整理委員会の指令により、東宝は後楽園スタヂアムの株式を売却し、同社の経営から撤退した。正力松太郎は1951年から取締役として参画しているが、小林一三は、同族や配下の者に仕事を委ね、自身は役員に名を連ねる事はなかった。


NHK連続ドラマ「わろてんか」登場の伊能栞( 高橋一生 )は関東の人には全く関係ないと思いがちですが、いろんなところで関東の歴史の中に登場してきます。

NHK連続ドラマ「わろてんか」登場の伊能栞( 高橋一生 ) ドラマでは伊能活動写真の会社経営となっています。


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リリコを女優に映画撮影をしているのはドラマでは垣間見れますがどんなことをした人なんでしょうか?


伊能栞( 高橋一生 )の史実のモデルは小林一三です。


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( 小林一三 )


小林一三さんはわたしたちにとって随分身近な存在です。


最近、メガヒットした映画「シン・ゴジラ」「君の名は。」が続けさまに放送されました。


この映画を製作配給しているのが小林一三が創設した映画会社「東宝」なんです。


朝ドラマに合わせて言うと伊能栞( 高橋一生 )が作った会社の映画を観ていることになります。


なんとも伊能栞( 高橋一生 )が作った映画会社って凄い会社だったんですね。


東宝グループの経営理念


東宝映画の経営理念には次のように書かれている。


当社グループは、「健全な娯楽を広く大衆に提供すること」を使命として小林一三により設立されて以来、映画・演劇を中心に、幅広い層のお客様に夢や感動、喜びをもたらす数多くのエンタテインメント作品をお届けしてまいりました。


また、創業者の言葉である「吾々の享くる幸福はお客様の賜ものなり」を大切な価値観とし、「朗らかに、清く正しく美しく」をモットーに置き、事業の三本柱である「映画・演劇・不動産」のすべての事業において、公明正大な事業活動に取り組むと共に、常にお客様の目線に立ち、時代に即した新鮮な企画を提案し、世の中に最高のエンタテインメントを提供し続ける企業集団でありたいと考えております。』


小林一三は宝塚歌劇団を創設したのはご存知の方も多いとは思いますが映画会社「東宝」も創立したのを知る方は少ないのかも知れませんね。


小林一三の創設した「宝塚歌劇団」と「東宝」には深い関係がありました。


「東京宝塚劇場」が映画会社「東宝」となった。


昭和の初め頃には小林一三の創設した「宝塚歌劇団」の人気は全国的に高まっていました。


東京公演も何度も実施していたのですが、それでも東京のファンは満足しなかった。


そこで小林一三は「東京に宝塚の常設劇場を作ろう」ということで、昭和9年、有楽町の帝国ホテルの前に「東京宝塚劇場」を開業したのです。


さらに彼は、有楽町あたりを一大レジャーセンターにしようと構想します。


有楽座、日比谷映画を建設、日劇を買収、等々着々と計画を進めます。


この「東京宝塚劇場」が後に映画会社「東宝」となったのです。


映画館のチェーン化


当時映画というのは、当たれば大儲け、外れたら大損というバクチみたいなものだったのです。


小林一三は映画会社を誕生させるときにも、発想がちがいました。


「バクチ」のような映画を「事業」として成り立たせるための仕組みを考えたのです。


まず上映館のチェーンを作ります。


東京、大阪などを中心に全国主要都市に映画館のネットワークを築いていきます。


次に配給する会社を作り、最後に映画製作会社を作ったのです。


映画を事業にするためには、映画を売る場所(映画館)を最初に確保するって発想。


これで「東宝」は大成功して、宝塚歌劇よりも全国的に有名になりました。


NHK連続ドラマ「わろてんか」伊能栞( 高橋一生 )と言う人物は偉大な人物だったんですね。

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