ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ: 鉄道

C12形は昭和初期の不況時に簡易線用として経済性を求めて製造されたSLです。






大変便利に使えた機関車で、15年間で293 両が製造されました。


宇和島駅前のC12 259293 両の中の1両になります。


蒸気機関車の1両、1 両が詳細に残っています。


データーを作られた方のただ、ただそのご努力に感嘆するばかりです。



蒸気機関車のデーターベースによると


http://d51498.com/





宇和島和霊公園前のC12  259


1940-09-16/

日立製作所笠戸NO.1286 新製 配属 大阪局 配置 福知山区東舞鶴駐泊所 入換専用機 製造原価 57,991 62


1941-02-17/

借入 宇和島区 返却せず(本区は1914/10/18付けの宇和島鉄道宇和島 -近永間開業に併せて宇和島庫として開設したが簡易軌道の軽便鉄道であり、1933/8 の国有化による官設鉄道に移管継承後も緊急度がないことから放置され、 1941/7/2付けの宇和島-卯之町・北宇和島 -務田間の新線開業時にようやく改軌を実施した 本機はこの新線建設改軌工事にも使用したと思われる)


1941-03-13/

福知山区東舞鶴駐泊所宇和島区 軽便鉄道を改軌した予讃線南部で使用 当初陸の孤島だった(卯之町 -八幡浜未通)区間のため、日立製作所笠戸から海路運搬し吉田港に特設線路を敷いて宇和島区に搬入


1945-06

宇和島の予科練への軍事物資輸送を主眼にした予讃線全通の結果、同線での運用を松山区の8620形に譲り、宇和島区の C12は宇和島線(現在の予土線)・内子線専用となる


1968-12-11/

廃車(宇和島区) 走行距離 932,986.5km  その後 同区機関庫にて留置



1969-10-26/

和霊公園にて再組立完成記念式(いったん宇和島構内で動輪・台枠・ボイラーキャブ・水槽に解体後、300mの道のりを 5時間かけて移動した)


1969-11-03/

和霊公園にて保存公開開始 


となっています。






宇和島は1945年の予讃線開通までは松山まで開通しておらず、ほとんどの交通機関は海路だけであった事実を知ると昔と今の違いに唖然とする思いになります。



  

蒸気機関車はいつ頃から見かけなくなったのか?


その答えが、ここ愛媛県宇和島市の和霊公園にありました。




和霊公園の横にある蒸気機関車C12




中に入り運転席内部もわかります。




運転席はかなり小さめの木造作り。




結構小さいですね。




石炭をボイラーに投げ込むのもたいへんそうです。




こんな蒸気機関車が走っていたんですね。




説明書を読んでみました。




  汽車ポッポの愛称で親しまれた機関車は、昭和16 年から南予の山野をかけめぐり昭和 439 月末その勇姿を消すことになりました。その間国鉄宇和島線の沿線はもとより南予全域の産業、教育、文化等の交流に大きな役割を果たしました。


  特に「汽笛一声新橋を」の鉄道唱歌で全国にその名前を知られている詩人大和田建樹先生の生誕地宇和島として、これを機会に永久保存をはかるため日本国有鉄道にお願いし保管するもので、皆さんとともになつかしい在りし日の姿をいつまでもしのびたいと思います。


昭和44 11 3   宇和島市長  山本友一




蒸気機関車の説明書もありました。




C12  蒸気機関車

車種   1C過熱タンク機関車

全長    11m35cm

全幅      2m80cm

全高      3m90cm

車両重量     積載時   50ton

                   空車時   40ton

車高     最高時速   75km/h

牽引能力    460hp

石炭搭載量   1.500kg

水槽の水量  3.3m2

動輪直径    1m40cm

ブレーキ装置  空気ブレーキ

制作所   日立制作所   笠戸工場

製造年月日  昭和 15 9 16

製造価額   57 991 62

走行期間     昭和15 8 23

                   昭和44 12 11

総走行距離   932, 986.5km

(  地球 23 )





今から50年前まで蒸気機関車 C12 は昭和16年の太平洋戦争から昭和 20 年の敗戦まで、また戦後は敗戦の復旧から高度成長期まで、まさに日本人の足となって支え続けてくれたようです。


その総走行距離が地球の23周にもなっていますから、蒸気機関車の力はまさに、日本人にとって大きな心の力となったのでしょう。




今でも蒸気機関車の姿を追い求める人々にとっては蒸気機関車の日本の野山を走り続ける勇姿が忘れられないのだろうと思います。









桜木町駅の鉄道記念品の中に「鉄道唱歌」があった。




作詞は大和田建樹。


汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり


愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として


右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ


雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも


窓より近く品川の 台場も見えて波白き


海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か


梅に名をえし大森を すぐれば早も川崎の


大師河原は程ちかし 急げや電気の道すぐに


鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション


湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで


ほんと誰でもが知っている「鉄道唱歌」である。


ただ、「鉄道唱歌」は明治時代のヒット曲、今はもう誰も歌う人などいないかも知れない。


大和田建樹はわたしと同じ愛媛県は宇和島市の出身です。


故郷の偉人として宇和島駅の前には石碑もあり、生家もあったので、名前は良く聞き知っていたのだが、なにせ明治時代の人物であり、なぜ「鉄道唱歌」を作詞するようになったのかは知らなかった。


大和田建樹が「鉄道唱歌」を作詞し、それが世に知れるまではいろんな物語があったようです。


「鉄道唱歌」物語


1895年(明治28年5月)商用で京都に来ていた大阪の商人市田元蔵は、駅前で月琴に合わせて歌う大道芸人に魅入っいました。


「汽笛一声新橋を あとに出てゆく芝浜や 左は遠く房総の 沖に行き交う真帆片帆」


それは「汽車の旅」(作詞・横江鉄石 )という歌でした。


「おもろいがテンポがのろい。もっとええ歌にしてはやらしてやろ」


元蔵21歳の時です。


市田源蔵は大阪西区阿波座南通りで「市田昇文館」という小さな出版社を経営、教科書の副教材や子供向けの絵本を出して、細々と暮らしていました。


以前、彼は私立明治女学校の国語科教員だった大和田建樹に頼み、『いろは字引』と名づけた小型辞書を出し、売れたことがあったので、鉄道の歌を作る企画を持っての明治31年上京し大和田建樹を訪ねます。


しかし、大和田建樹はすでに売れっ子になっていました。


「故郷の春」「船あそび」などの作詞は、文部省唱歌に選ばれ、音楽教科書に載っているほどでした。


「そりゃ無理な話だ。キミの企画だと実地を廻らねば書けぬ。ボクが作曲家をつれて汽車に乗り込まねばできないよ。そんな時間はないしカネもかかる」


大和田建樹に断られます。


しかし、源蔵は建樹に鉄道のすばらしさを喋り続けるのでした。


鉄道唱歌の作詞を渋る詩人大和田建樹を元蔵は、自分でもあきれるほどの熱弁で説得します。


今や汽車は交通手段の花形、これをテーマに沿線の地理・歴史・風俗・人情・物産等をおりこみ、格調高くロマンチックに歌いあげる詩人は、日本中探しても先生しかいない。」


最後は大和田建樹に


「まあその気になったら連絡する。」


と言わせてしまいました。


明治31年(1898 )の話です。


この年は東海道線が全線開通し、鉄道ブームにわいていた時代です。


年の暮れになると大阪の元蔵に大和田建樹より


「ヤクソクハタス スグコイ」


との電報が届きます。


大喜びの元蔵はひとりの青年をつれて上京しました。


この青年が無名の作曲家多梅稚です。


彼は東京音楽学校(現・東京芸術大学)で学んだころから、作曲の才能は抜群、大阪師範学校(現・大阪教育大学)や府立一中(現・北野高校)で生徒を教える有望な若者でした。


明治31年(1898 1228 日、詩人大和田建樹(当時 41)、音楽家多梅稚(29)、小出版社「市田昇文館」主人市田元蔵( 24)の3人は、開通したばかりの東海道本線に乗り込み、東京の新橋駅をスタートします。


大和田建樹は汽車が動きだすとすぐに「車窓日記」と書いたノートをとりだし、窓外を眺めながらスラスラと筆を走らせます。

 

「汽車は新橋を出でぬ 雨しめやかに降りていたり 遠くゆく船も煙に包まれて 窓辺に白し品川の海


このメモが一世を風靡した「鉄道唱歌」の出だし、「汽笛一声新橋を」の原案です。


唱歌が大ヒットした原因は、建樹の格調の高い実景描写のリアリティにあります。


梅稚はほとんど目をつぶったまま。


時々、横目で建樹のノートをのぞき、なにかぶつぶつつぶやくだけです。


元蔵がまめまめしく弁当やお茶、果物などを差しだすなか、汽車はゴトゴトと軽快なリズムで走り、両人のインスピレーションを、ますますかきたてました。


翌明治32年春、大和田建樹作詞・多梅稚作曲の「鉄道唱歌」は完成します。


その頃、肝心の版元市田昇文館が倒産寸前でした。


日清戦争が終結し、大戦景気が一転して大不況におちいった時代で、零細企業の資金のやりくりはどこもいき詰まり、市田昇文館の店も担保に入っているありさまでした。


元蔵は「鉄道唱歌」に起死回生の夢を賭け、無理算段してやっと3千部を刊行します。


しかし弱小資本の悲しさ、宣伝力のないせいかさっぱり売れない。


どこの書店でも売れ残り、在庫の山でした。


「鉄道唱歌」は売れなかった。


そこへ、ある日突然恰幅のいい紳士が訪ねてきます。


有名な「三木楽器店」の主人三木佐助でした。


彼は明治21年(1888 )楽器販売店にきりかえ、山葉(やまは)ピアノ・オルガン、鈴木バイオリンなどの関西販売権を独占し、巨万の富を築いていました。


「鉄道唱歌」の軽快なメロディ、日本にはなかったさわやかなリズムが気に入ってやって来たのです。


翌明治33年5月、「鉄道唱歌」は「地理教育」の名で、一部6銭で大々的に売りだされます。


胸に白バラ、白い帽子に赤のユニフォーム姿の楽士隊を編成、美人で声量豊かな女性歌手を列車に乗せて歌わせました。


「鉄道唱歌の販売部数はおびただしき数に達し、洛陽の紙価を高らしむる」


『明治流行歌史』に記されるほど、大当たりをします。


第二集「山陽・九州」、第三集「東北」、第四集「北陸」、第五集「関西・参宮・南海」と、わずか半年の間に次々と刊行されます。


「鉄道唱歌」は、刷っても刷っても注文に追いつかず、どこの書店でもすぐ品切れです。


歌詞は沿線の歴史・地理・風物・産物・人情などを巧みにおりこみ、七・五調の四行を一章に、第五集まで合計332章。


教育効果は高いと学校や自治体も、争って求めます。


会社・商店から工場、ついに政治家や高級官僚、いや、花柳界まで芸者の三味線にのって「汽笛一声新橋を」と歌い踊るありさまです。


もちろん背景には、空前の鉄道ブームがありました。


夏目漱石の弟子で学習院の院長安倍能成(哲学者)は、熱烈な「鉄道唱歌」のファン。


宴席ではかならず歌いだし、それも始発新橋から終着神戸までやらねば、気がおさまりませんでした。


記録によれば「鉄道唱歌」は大正時代の初期までに、約2千万部を売り尽くし、収益は2百万円をこえたと言われます。


大正時代の日本の人口は約4400万人と言われてますから、日本人の 2人に1人は「鉄道唱歌」を買ったことになります。


マスコミが現在とはまったく比較にならぬ時代ですから、「鉄道唱歌」本、これはもうベストセラーズどころの話ではありません。


また当時の誰もが歌ったこの歌「鉄道唱歌」は空前絶後のベストヒット曲なのです。




★最後に大和田建樹とはどんな人物だったのか?


大和田建樹は、詩人・歌人としては無論、東京高等師範学校(現・筑波大学)教授も務め、数々の業績をあげた国文学者でもありました。


ただし彼は学歴が無く独学です。


そのため学閥で結ばれた学者仲間から嫌われます。


国民的人気が高いだけに、大衆に迎合する軽薄な男だと白い眼で見られ、あら探しする連中も多い。


建樹も反抗的で、「俺は偉いやつと官吏が大嫌いじゃ」と広言し、学内でもしばしば同僚と衝突をくり返す。


文部省との折り合いも悪く、いつもにらまれている。


おまけに無類の酒好き、金銭感覚ゼロとくる。


売れっ子だから収入は多かったはずですが、どこでどう使ったのか家計はいつも火の車。


しかも有名な医者嫌い。


健康管理がまったくできず、家族を泣かせて明治43年(1910) 10月、53歳で急死しました。


我が故郷、愛媛県宇和島市の偉人、大和田建樹先生、実に人間的な先生だったようです。

1872(明治5)年、東京の新橋と神奈川の横浜の間に、日本初の鉄道が全通しました。




なんだか日本の鉄道開業ってすんなりと出来た感じを受けますが、決して開業は平坦な道のりではありませんでした。


日本の鉄道開業はなかなかうまく行かなかったのです。


明治政府内に鉄道推進派と鉄道反対派でわかれたのです。


鉄道推進派は大隈重信と伊藤博文です。


佐賀藩と長州藩。


ペリーが日本に来る1年前、長崎にロシアのプチャーチンが機関車の模型を持って きました。


佐賀藩では、2年後に、技術書を手がかりに、蒸気機関車の模型を作り走らせていました。


大隈重信は当時17歳で、そのようすをみていました。


伊藤博文は、幕末、22歳の時にイギリスに留学しました。


伊藤は、西洋文明の発展、特に工業の発達と鉄道網の発達に驚きました。


「日本を新しい国にするには、是非とも鉄道を造らなければならない」と考え、鉄道建設の建議書を政府に提出しました。


建設に必要な資金は、現在の額で880億円。


当時の政府の歳入の3分の1でした。


反対派は西郷隆盛と大久保利通でした。


2人とも薩摩藩。


明治維新がなったばかりの時期に莫大な資金を必要とする鉄道を敷けば国家財政が立ち行かなくなります。


「鉄道は金を失う道」と反対は強かった。


西郷隆盛や大久保利通は予算は鉄道より軍備を優先すると主張しました。


それに旧幕府との 戦争で外国に莫大な借金をかかえていました。


明治210 11日付で外務省は上申して鉄道起工を建議し、11 10日に鉄道敷設のことが太政官(三条右大臣、岩倉・徳大寺・鍋島・中御門の四大納言、副島・大久保・広沢・佐々木・後藤・木戸の六参議)において決定されました。


政府内ては鉄道建設は正式に決定されましたが、反対者が多く、予算を確保することができませんでした。


しかし推進派は明治政府の財政不足をイギリスに助けてもらい新橋と横浜( 現在の桜木町駅 )が開業できるようになります。


資金は、イギリスのオリエンタル銀行から融資を受けるようになりました。


鉄道の陸上敷設予定地だった品川近辺には、反対派の西郷隆盛や大久保利通のお膝元である薩摩藩の藩邸などがあり、測量さえも拒否しました。


また、地元住民は、立ち退きを拒否し、従来の飛脚業者なども、反対派に加わりました。


鉄道推進派は、品川沖の東京湾に細長い土手を築きまして、その上を走らせたのでした。


それによって全体の3分の1が、海上ルートとなってしまったのです。


大久保利通


鉄道反対論の大久保利通は1874年( 明治4 ) 11月に蒸気機関車に試乗。


「始て蒸気車に乗候処、実に百聞一見に如ず、愉快に堪ず。此便を起さずんば必ず国を起すこと能はざるべし。」


「初めて蒸気機関車に乗りました。百聞は一見にしかず。愉快にたえない。鉄道の発展なくして、国家の発展はありえない。」


「鉄道の発展なくして国の繁栄はありえない。」


と反転して、双手を挙げて鉄道賛成に転じています。


大久保利通は「よく人にも計り、人の言も'容れた人で、一事を裁断するにも念には念を入れる流儀だったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷うの、躊躇するのということはなかった。」人物でした。



★1875年( 明治 5 ) 10 14日開業式典列車には明治天皇をはじめ、政府高官、外国公使などの要人たちを招いていました。


明治天皇陛下より「由々しき事態であるから病気でなければ参加するように」とのお達しが出されたそうです。


反対派の西郷隆盛も明治天皇陛下よりのお達しですから断ることもできません。


西郷隆盛はどんな気持ちで蒸気機関車に乗ったのでしょうか。


そして、蒸気機関車に対してどんな感想を持ったのでしょうか。




桜木町駅の鉄道の展示品はいろんなことを連想させてくれます。


えっ?


展示品ってどんな風に展示されてるのかって。






駅の柱を利用して誰にでも見やすく展示されてます。




日本の鉄道の父、井上勝の写真もあります。


ところで井上勝って、毎日わたしたちが食べている乳製品と関係があるのを知ってますか?


小岩井農場の乳製品って知ってますか?




牛乳だったり、ヨーグルトだったり。


小岩井農場の乳製品って、とにかく美味しいですよね。


実は小岩井農場の創設者が日本の鉄道の父、井上勝だったんです。




小岩井農場の歴史


1888年(明治21年) 612日。


この日、盛岡を訪れていた明治政府の鉄道庁長官、井上勝は、眼前に広がる岩手山の南麓に広がる風景に目を奪われていました。


それは、木もまばらな不毛の原野でした。奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなか、ススキや柴、ワラビなどが散在する火山灰地を前に、井上は、この荒れ果てた土地に大農場を拓くという、かつて誰も抱いたことのない夢を抱いた。


幕末の動乱期にイギリスに密航した伊藤博文、井上馨ら5人の長州藩士、いわゆる長州ファイブの一員で、近代土木技術、鉱山学などを学びました。


帰国後は、1872年(明治5 年)の新橋-横浜間の日本最初の鉄道敷設を始めとして、東海道本線、東北本線など、数々の鉄道工事で陣頭指揮にあたり、日本の鉄道事業の基礎を作ったのです。


盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事視察のためでした。


岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸に去来したのは、長年、鉄道敷設事業に携わる中で、数多くの「美田良圃(びでんりょうほ:美しい田と良い畑)」を潰したことに対する悔恨の念だったといいます。


このような荒野が手付かずで放置されているのであれば、せめてそれを開墾して大農場を拓くことで、美しい田園風景を損なってきたことの埋め合わせをしたい。


それこそ、国家公共のためであり、自分がなすべき事業ではないか。井上はそう考えたのです。


井上はこの構想を岩崎彌太郎のもとで三菱を支えていた小野義眞に打ち明け、助力を依頼します。


当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が第2代社長に就いていました。小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせます。


国家公共のため、荒地に農場を拓きたいという井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、その場で出資を快諾したといいます。こうして、1891年(明治 24年)1 1 日、井上が場主となり小岩井農場が開設されました。


小岩井という名前は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1 字ずつ取って作られたものです。




ほんとに、なんだか知らないことっていっぱいあるんですね。

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