


愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。
『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公の小橋常子と花山伊佐次は広告の掲載にて対立してしまいました。編集長の花山に内緒で掲載しょうとした常子も悪いですが、花山もいきなり会社を辞めてしまうとは花山も過激です。
小橋常子のモデル『暮らしの手帖』の大橋鎭子、花山伊佐次のモデルは花森安治です。
実際はどんな感じだったんでしょうか、『至知』よりエピソードを転載します。
昭和26年の『暮らしの手帖社』のエピソード
『暮らしの手帖』では木製家具と座布団を組み合わせて撮影することになった。
編集長の花森安治は座布団はオレンジ色にしたいという。
私( 大橋鎭子 )は早速、銀座に行きました。
当時、洋服といえばほとんど自分の手縫いでしたから、銀座には生地屋さんが多かった。
オレンジ色は、いまでもそうですが、印刷でその色を出すのには大変難しい色なのです。
それで私は、オレンジ色の布を探しに歩き回りました。デパートにも行きました。
しかし、オレンジ色はありませんでした。
オレンジに近い色の生地を見つけ、社に戻りました。
すると、待っていたのは花森安治さんの怒鳴り声でした。
「なんだっ、この色は! ダメだ、もっと探しなさい」
花森さんの仕事に対する厳しさはたとえようがありませんでした。
私はまた社を飛び出しました。六本木を探して歩き回り、神田にも足を伸ばし、横浜の元町まで行きましたが、オレンジ色はありません。
「オレンジ色がいるのだ」
「僕が欲しいと思う色とは違う」
といいます。こうして1週間が過ぎました。
困り果てて、母に相談したところ染めるほかない、ということで、銀座のえり円さんという染め物屋で、染めてもらうことにしました。
ああでもない、こうでもないと苦心を重ね、ようやく染めあがった生地を花森さんのところに持っていって、やっとパスいたしました。
「うん、これだ、これだ」
その生地で座布団を作り、私はようやく肩の荷をおろしたものでした。
当時、日本ではほとんどカラー印刷はありませんでした。
もちろん、『暮しの手帖』は白黒の印刷でした。
考えてみたらそれまで色のことで、あんな大変な思いをすることはなかったのです。
私は花森さんに聞きました。
「白黒写真なのに、どうしてこんなに色に厳しいのでしょうか」
返ってきた答えはこうでした。
「きみたちの色彩感覚を鍛えるためにやったことだ。色の感覚はそう簡単に身につくものではない。やがて、日本もカラー印刷の時代がくる。そのときになって、色に対する感覚が育っていなかったらどうする」
そのときなんにも知らない私は、恥をかき、心から花森さんに感謝いたしました。
このことが私の出発点でした。
『致知』1995年6月号掲載
『暮らしの手帖』の編集長花森安治もドラマの花山伊佐次以上に個性的ですね。
花森安治さんはこの色と決めたら全く妥協しない。
それにまた、つき合わさせられる大橋鎭子さん、ほんとたいへんそうです。
花森安治の先見性は凄いですね、花森安治が天才だと言われるのがなんだか良くわかるようなエピソードです。
『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公小橋常子と花山伊佐次に無断で『わたしの暮らし』に宣伝を掲載してしまい、ついに花山伊佐次は会社を辞めてしまいました。
常子はどうするんでしょうか?花山伊佐次がいなくては雑誌の継続は出来ません。常子大ピンチです。
どうしたもんじゃろの~
★『暮らしの手帖』創刊号から販売不振。
『わたしの暮らし』のモデルである『暮らしの手帖』は創刊から売れていたわけであり
ません。昭和23年9月『美しい暮らしの手帖
第1号』創刊。
秋に出した第一号は一万部刷り、みんなで手わけしてリュックにつめ、毎日東京を中心に湘南、千葉、茨城、群馬と本屋さんを一軒、一軒たずねて店頭に置いてもらった。八千部売れて二千部残ったそうです。
昭和24年1月『美しい暮らしの手帖
第2号』
第二号も、おなじように本屋さんに置いてもらったが、お金が入るのに一ヶ月かかるから暮れの支払いは間に合わない。あちこちからお金をかき集めて印刷代や紙代を払い、仲間にわずかの餅代を分けたら、手のひらに五十なん銭かが残っただけ。それでも気持ちは明るかったといいます。
昭和24年4月『美しい暮らしの手帖 第3号』
『暮しの手帖』は3号目を出したところで経営が行き詰まってしまいました。
花森安治の類いまれな感性によって生み出された、キャッチコピーやイラスト、著名人によるエッセイ等、現代から見ても画期的な素晴らしい雑誌です。
しかし、良い雑誌だから必ずしも売れるわけではありません。
★大橋鎭子の経営手腕
編集長の花森安治は編集に関しては天才的でしたが、経営面は無頓着でした。
経営は全て若干29才の大橋鎭子が取り仕切っていました。
鎭子は雑誌に広告を掲載することはしませんでした。広告を排除するポリシーを堅持したのです。
鎭子は以前勤務していた日本興業銀行に融資の相談に行き20万円、現代の価格で約2000万円の融資を受けて倒産の危機を乗り越えています。
出来たばかりの雑誌社によく20万円の融資をしてくれたと思いますが、同期の同僚たちが「自分たちの退職金を担保に融資して欲しい」応援してくれて融資の承認がおりたようです。
★次号で何か画期的な企画を用意しないといけない。
当時『 皇族はマッカーサーの庇護でうまいものを食っている 』というのが世間の評判でした。
ほんとかどうかそれを書いてもらったらと花森さんが発案しました。
花森に提言された大橋は、当時、庶民がまだまだ不自由な暮しを強いられている中で、皇族の方々がアメリカのマッカーサーの庇護のもとゆうゆうと暮らしているという噂を確かめるべく、果敢にも昭和天皇の姉・照宮様こと東久邇成子様に原稿依頼をしました。
手紙を書いて、家を訪ね、元皇族のリアルな生活を綴った「やりくりの記」の原稿を書いてもらいます。
それだけでも手柄ですが、最初の原稿を恐れ多くも花森がダメ出ししたため、大橋は知恵と勇気をふりしぼって書き直しまで頼んでいます。
やりくりの記 東久邇 成子 『暮らしの手帖』皇室のエッセイで大ヒットhttp://keijidaz.blog.jp/archives/63582140.html
日本人ならやっぱり気になる皇室のこと、この記事の反響は凄かった。
この原稿が載った5号は、電車の中吊り広告を出し、爆発的に売れ、「暮しの手帖」は息を吹きかえしました。
大橋鎭子は見事に大ピンチを脱失したのでした。
『美しい暮らしの手帖 第5号』
大橋鎭子 あとがき
「この雑誌を出してから、やっと一年たちました・・・第一号は赤字でした。第二号も赤字でした。今だから申せるのですが、そのために昨年の暮れは、私たち、お餅をつくことも出来ませんでした。どうぞ、つぶれないで下さい、というお手紙を、あんなに毎日いただくのでなかったら、どんなに私たちが意地を張っても、やはり第三号は出せなかったことでしょう」
『暮らしの手帖』は大橋鎭子や花森安治やスタッフの力だけではなく読者や周りの人々が支えてくれたからこそ、現代まで継続して読み続けられている雑誌となったのです。