ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:とと姉ちゃん > 暮らしの手帖



昭和29年から定期的に掲載しているある名物記事に由来している。「商品テスト」





『暮らしの手帖』は広告を排除したから、広告スポンサーはいない。

スポンサーは購読者だけなのだから怖いものなどなかった。

工業生産真っ盛りの中にあって、実名で商品を評価するというだいたんな企画にでた。

どことどこの商品が良くてどこが悪いのか?

消費者にとっては一番知りたいところである。

それも、生産者の目でなく、消費者の目でやってもらうのだからありがたかった。





★「商品テスト」でとりあげられた商品は

1.毎日のくらしに欠くことのできないもの

配給米、しょうゆ、石けん、タオル、鍋、かま等

2.絶対必要ではないが、ひとによって家庭によってそれがあるとずいぶん便利になり、快適な暮しができるもの
  
換気扇、瞬間湯沸器、電気冷蔵庫、真空掃除機等

3.必要なものであるか要らないものであるかわからないもの、それはたいてい新しいものだが、テストしてみなければどちらともいえないもの

食器洗い機等

現在からみると、時代を感じさせる商品群だが、無数にあるモノを限りあるマンパワーでテストするという状況を考えると、花森安治は単なる完璧主義者に止まらないリアリストだった。

商品ごとに、どんな点をしらべるか、どんな方法でテストするか、どのように評価するか等についても、専門家・素人を交えて十分吟味検討した上で、営々と「商品テスト」は続けられている。



★暮らしの手帖研究室

ついに「商品テスト」のために東麻布に暮しの手帖研究室を作った。

「商品テスト」のための研究室である。

研究室の建物にはいろんな部屋が設けられていた。

工作室には大きな作業台に電動鋸があり、また廊下の天井一面にずらりとレセップ(ソケット)が並んで、電球のテストができる。

化学実験室では細菌や食品添加物の検査ができた。広い洗濯室。洗濯機、ガス湯沸かし器、レインコートなどのテストをする。

2階への階段には〈一段ごとに異なる種類のじゅうたんが張ってあり、人が上り下りする際には、その回数をカウントする計器がセットしてある〉。人工芝のテストにも使った。

現像はすべて2階の暗室でおこなう。新館1階ではエアコン、冷蔵庫、掃除機、アイロン、薬鑵などをテスト。新館は3階まで吹き抜けで、クレーンが設置してあり、重いものを3階まで揚げ降ろしできる。

3階の音楽室には最新のオーディオ装置。防音処理がされていて、掃除機など音の出る家電の騒音レベルをテストした。

まさに公共の研究所なみである。

出版社の研究所と言うレベルを遥かに超えていたのだ。

花森安治

『 メーカーが、役にも立たない品、要りもしない品、すぐこわれる品、毒になる品をつくらなければ、そういうものを問屋や小売店が、デパートやスーパーマーケットが売りさえしなければ、それで事はすむのである。

なにもかしこい消費者でなくても、店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と性能をもっているものばかりなら、あとは、じぶんのふところや趣味と相談して、買うか買わないかをきめればよいのである。

そんなふうに世の中がなるために、作る人や売る人が、そんなふうに考え、努力してくれるようになるために、そのために「商品テスト」はあるのである。

「商品テスト」は、じつは、生産者のためのものである。生産者にいいものだけを作ってもらうための、もっとも有効な方法なのである。』

『暮らしの手帖』の「商品テスト」は読者に大好評となり、雑誌の販売数をさらに伸ばすことになります。




NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、谷(山口智充さん)と美子(杉咲花さん)の尽力で、花山(唐沢寿明さん)が「あなたの暮し出版」に復帰します。



ほんと良かったですね。

常子(高畑さん)たちの原稿を見た花山は、料理経験のない水田(伊藤淳史さん)にホットケーキを作るように指示するが、失敗してしまう。そこで花山は料理の手順を写真で説明する画期的な方法を提案する……。

あれ?

なんだか『暮らしの手帖』の歴史と少し違ってきました。

『わたしの暮らし』のモデル『暮らしの手帖』では花山伊佐次のモデル花森安治は会社を辞めたことはなかったし、販売不振を脱却したのはやりくりの記 東久邇 成子 『暮らしの手帖』皇室のエッセイで大ヒットでした。

★やりくりの記 東久邇 成子 『暮らしの手帖』皇室のエッセイで大ヒット


NHKさんドラマはドラマだと言うことなのでしょうか?

『暮らしの手帖』が皇室の記事で売れ出したと言うのはテレビで放送しずらいのでしょうか?

ドラマはいきなりホットケーキの『暮らしの手帖』第7号に飛んでしまいました。

★『とと姉ちゃん』美子ホットケーキを提案、『暮らしの手帖』手のモデルは社長大橋鎭子だった。



大橋鎭子が皇室東久邇成子に記事の依頼をするエピソードが楽しいんですけどね。

やりくりの記 東久邇 成子 『暮らしの手帖』皇室のエッセイで大ヒットし、ホットケーキの記事も評判が良く雑誌は急速に販売を伸ばします。

もう『暮らしの手帖』を真似する雑誌はあらわれませんでした。

花森安治がてがけた雑誌「暮しの手帖」は他に類をみない『 なにしろ広告を載せない』はどこの雑誌社も追随できなかったのです。

経営の安定が図れなかった原因が広告を載せないことにあったのかも知れませが、販売が順調に進むと、今度は広告を掲載しないことが他社との大きな差別化を図れたのです。

ほんとわからないものです。

また、花森安治の質実をむねとして、文章の読みやすさも定評があった。

花森安治が唱えた実用文十訓は以下の通り。

(1)やさしい言葉で書く。

(2)外来語を避ける。

(3)目に見えるように表現する。

(4)短く書く。

(5)余韻を残す。

(6)大事なことは繰り返す。

(7)頭でなく、心に訴える。

(8)説得しようとしない(理詰めで話をすすめない)。

(9)自己満足をしない。

(10)一人のために書く。

では、実際に花森安治の書いた文章を見てみよう。

表紙の裏に有名な花森安治の発刊の辞   があります。

花森安治

これは あなたの手帖です

いろいろなことが ここには書きつけてある

この中の どれか 一つ二つは

すぐに今日 あなたの暮らしに役立ち

せめて どれか もう一つ二つは

すぐには役に立たないように見えても

やがて こころの底ふかく沈んで

いつか あなたの暮らし方を変えてしまう

そんなふうな

これは あなたの暮らしの手帖です 


字句を吟味して、耳で聞いてわからぬ言葉は使うまいとした。

極力平がなで書いた。平がなばかりだと読みにくくなる。

要所要所に漢字がほしい。そのあんばいに苦心している。

だから誌面はかな沢山でまっ白でありながら読みやすいのは花森安治の苦心の結果であり、ぱっと誌面をひろげてながめて、あまりの見事さに感心するのです。

本当に花森安治のような文章が書けたらいいのにと、あらためて花森安治の文章を見ています。




『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公の小橋常子と花山伊佐次は広告の掲載にて対立してしまい、会社を出てしまいました。



常子と花山さんまた、一緒に仕事が出来るようになるといいですね。

話しはかわりますが、ドラマの出版社のモデルはご存知の『暮らしの手帖社』です。

『暮らしの手帖社』は大橋鎭鎭子さんが社長で花森安治さんが編集長、鎭子さんの妹、晴子さんと芳子さん、後に晴子さんと結婚する経理担当 の横山啓一さんの五人がメンバー。

ほんとに小さな小さな出版社からスタートした『暮らしの手帖社』でしたが、その入社試験がまたユニークでした。

【『暮らしの手帖社』のユニークな入社試験  】

作文と書類審査で50-60人に絞った候補者を研究室に集め、一風変わった威風堂々とした花森安治さんが面接について軽く挨拶めいた雑談をする。

花森安治

「入社試験というものは、採る方も採られる方も気鬱なものでしょう。でも、これより他にあまり方法もないからうちでもやります」

とぶつくさ話す。

★テスト第1問

花森安治が出題します。

「いまから中華料理のコックさんに酢豚を作ってもらう。どんな質問をしてもよいから、それで料理記事を書きなさい」

男連中はみな、えーと思いましたね(笑)。

中央の卓に焜炉と食材が出てき、銀座の中華料理店「博雅」のシェフがやってきました。

★テスト第2問

引き続き花森安治からの出題です。

花森安治

「これから(入社後)、君たちはいろんな人を訪ねなくちゃならんだろう、探さなくちゃならんだろう。その予行練習として、書いてごらん」

「研究室までどうやってきたのかを書きなさい」

と言うのです。

研究室は非常にわかりにくい場所にありました。

★テスト第3問

花森安治の最後の課題でした。

「はじめにボクがみなさんにした話を○○字以内にまとめて下さい。」

3つの課題を翌日までに編集部に届ければよかったのです。

面接後、合否を通知せぬまま、研究室のクリスマスパーティの招待状が候補者に送られる。

このときに社主・大橋鎭子がとった行動がふるっている。この席で、男子学生の酔っ払いかたをチェックしていたと言います。

昭和戦後の高度成長期に向かっていた日本は、酔態のひどい人に甘い文化だった。また、女に威張り腐っている男が指弾されずにいた時代でもあった。酔態チェックは大橋にとって、だいじな面接だったでした。

『暮らしの手帖』は編集長花森安治の一次審査と社長大橋鎭子の二次審査で入社試験の合否を決定していたようです。

みなさんはこんなユニークな入社試験だったらどうですか?

花森安治の入社試験方法は新入社員の文章能力を判断するには最良の方法だったのかも知れませんね。




『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公の小橋常子と花山伊佐次は広告の掲載にて対立してしまいました。編集長の花山に内緒で掲載しょうとした常子も悪いですが、花山もいきなり会社を辞めてしまうとは花山も過激です。

小橋常子のモデル『暮らしの手帖』の大橋鎭子、花山伊佐次のモデルは花森安治です。

実際はどんな感じだったんでしょうか、『至知』よりエピソードを転載します。

昭和26年の『暮らしの手帖社』のエピソード

『暮らしの手帖』では木製家具と座布団を組み合わせて撮影することになった。

編集長の花森安治は座布団はオレンジ色にしたいという。

私( 大橋鎭子 )は早速、銀座に行きました。

当時、洋服といえばほとんど自分の手縫いでしたから、銀座には生地屋さんが多かった。

オレンジ色は、いまでもそうですが、印刷でその色を出すのには大変難しい色なのです。

それで私は、オレンジ色の布を探しに歩き回りました。デパートにも行きました。

しかし、オレンジ色はありませんでした。

オレンジに近い色の生地を見つけ、社に戻りました。

すると、待っていたのは花森安治さんの怒鳴り声でした。

「なんだっ、この色は! ダメだ、もっと探しなさい」

花森さんの仕事に対する厳しさはたとえようがありませんでした。

私はまた社を飛び出しました。六本木を探して歩き回り、神田にも足を伸ばし、横浜の元町まで行きましたが、オレンジ色はありません。

「オレンジ色がいるのだ」

「僕が欲しいと思う色とは違う」

といいます。こうして1週間が過ぎました。

困り果てて、母に相談したところ染めるほかない、ということで、銀座のえり円さんという染め物屋で、染めてもらうことにしました。

ああでもない、こうでもないと苦心を重ね、ようやく染めあがった生地を花森さんのところに持っていって、やっとパスいたしました。

「うん、これだ、これだ」

その生地で座布団を作り、私はようやく肩の荷をおろしたものでした。

当時、日本ではほとんどカラー印刷はありませんでした。

もちろん、『暮しの手帖』は白黒の印刷でした。

考えてみたらそれまで色のことで、あんな大変な思いをすることはなかったのです。

私は花森さんに聞きました。

「白黒写真なのに、どうしてこんなに色に厳しいのでしょうか」

返ってきた答えはこうでした。

「きみたちの色彩感覚を鍛えるためにやったことだ。色の感覚はそう簡単に身につくものではない。やがて、日本もカラー印刷の時代がくる。そのときになって、色に対する感覚が育っていなかったらどうする」

そのときなんにも知らない私は、恥をかき、心から花森さんに感謝いたしました。

このことが私の出発点でした。

『致知』1995年6月号掲載

『暮らしの手帖』の編集長花森安治もドラマの花山伊佐次以上に個性的ですね。

花森安治さんはこの色と決めたら全く妥協しない。

それにまた、つき合わさせられる大橋鎭子さん、ほんとたいへんそうです。

花森安治の先見性は凄いですね、花森安治が天才だと言われるのがなんだか良くわかるようなエピソードです。

『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公小橋常子と花山伊佐次に無断で『わたしの暮らし』に宣伝を掲載してしまい、ついに花山伊佐次は会社を辞めてしまいました。

常子はどうするんでしょうか?花山伊佐次がいなくては雑誌の継続は出来ません。常子大ピンチです。

どうしたもんじゃろの~


★『暮らしの手帖』創刊号から販売不振。

『わたしの暮らし』のモデルである『暮らしの手帖』は創刊から売れていたわけであり

ません。

昭和23年9月『美しい暮らしの手帖

第1号』創刊。

秋に出した第一号は一万部刷り、みんなで手わけしてリュックにつめ、毎日東京を中心に湘南、千葉、茨城、群馬と本屋さんを一軒、一軒たずねて店頭に置いてもらった。八千部売れて二千部残ったそうです。

昭和24年1月『美しい暮らしの手帖

第2号』

第二号も、おなじように本屋さんに置いてもらったが、お金が入るのに一ヶ月かかるから暮れの支払いは間に合わない。あちこちからお金をかき集めて印刷代や紙代を払い、仲間にわずかの餅代を分けたら、手のひらに五十なん銭かが残っただけ。それでも気持ちは明るかったといいます。

昭和24年4月『美しい暮らしの手帖 第3号』

『暮しの手帖』は3号目を出したところで経営が行き詰まってしまいました。

花森安治の類いまれな感性によって生み出された、キャッチコピーやイラスト、著名人によるエッセイ等、現代から見ても画期的な素晴らしい雑誌です。

しかし、良い雑誌だから必ずしも売れるわけではありません。

★大橋鎭子の経営手腕

編集長の花森安治は編集に関しては天才的でしたが、経営面は無頓着でした。

経営は全て若干29才の大橋鎭子が取り仕切っていました。

鎭子は雑誌に広告を掲載することはしませんでした。広告を排除するポリシーを堅持したのです。

鎭子は以前勤務していた日本興業銀行に融資の相談に行き20万円、現代の価格で約2000万円の融資を受けて倒産の危機を乗り越えています。

出来たばかりの雑誌社によく20万円の融資をしてくれたと思いますが、同期の同僚たちが「自分たちの退職金を担保に融資して欲しい」応援してくれて融資の承認がおりたようです。

★次号で何か画期的な企画を用意しないといけない。

当時『 皇族はマッカーサーの庇護でうまいものを食っている 』というのが世間の評判でした。

ほんとかどうかそれを書いてもらったらと花森さんが発案しました。

花森に提言された大橋は、当時、庶民がまだまだ不自由な暮しを強いられている中で、皇族の方々がアメリカのマッカーサーの庇護のもとゆうゆうと暮らしているという噂を確かめるべく、果敢にも昭和天皇の姉・照宮様こと東久邇成子様に原稿依頼をしました。

手紙を書いて、家を訪ね、元皇族のリアルな生活を綴った「やりくりの記」の原稿を書いてもらいます。

それだけでも手柄ですが、最初の原稿を恐れ多くも花森がダメ出ししたため、大橋は知恵と勇気をふりしぼって書き直しまで頼んでいます。

やりくりの記 東久邇 成子 『暮らしの手帖』皇室のエッセイで大ヒットhttp://keijidaz.blog.jp/archives/63582140.html

日本人ならやっぱり気になる皇室のこと、この記事の反響は凄かった。

この原稿が載った5号は、電車の中吊り広告を出し、爆発的に売れ、「暮しの手帖」は息を吹きかえしました。

大橋鎭子は見事に大ピンチを脱失したのでした。


『美しい暮らしの手帖 第5号』

大橋鎭子 あとがき

「この雑誌を出してから、やっと一年たちました・・・第一号は赤字でした。第二号も赤字でした。今だから申せるのですが、そのために昨年の暮れは、私たち、お餅をつくことも出来ませんでした。どうぞ、つぶれないで下さい、というお手紙を、あんなに毎日いただくのでなかったら、どんなに私たちが意地を張っても、やはり第三号は出せなかったことでしょう」

『暮らしの手帖』は大橋鎭子や花森安治やスタッフの力だけではなく読者や周りの人々が支えてくれたからこそ、現代まで継続して読み続けられている雑誌となったのです。



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