ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:とと姉ちゃん > 花森安治

東京都庁の築地の豊洲移転問題、小池知事は都幹部に激怒している。豊洲新市場(江東区)の「盛り土」未実施問題の内部調査では、結局、地下空間の設置を決めた時期や責任者を特定できなかったのだ。







小池知事、都幹部の"豊洲無責任報告"に激怒 近く「大規模人事異動」


しかし、調査しなくても責任者はあきらかである。


豊洲移転の企業との契約書に発注した当時の東京都知事及び工事にかかわった都庁幹部の責任である。


工事を発注していて、設計図を見なかったとか、知らなかったとか、誰が聞いてもそんな理屈が通るはずもない。


都庁の人たちは、みんなその道のプロである。


はじめから全てを知っていて発注している。


知らなかったとか、聞いていなかったとかそんな言いわけが通じるはずがないのである。


したがって、組織を明確に保つためには、内部調査はさっさと終えて責任者を的確に処罰した方が良い。





しかし、一番気になるのは都庁の隠蔽体質である。


組織人がいつの間にか、ほんとうのことを話さなくなった。


このことの方が問題である。


一般企業もそうであるが、いつの間にか、日本の社会で日本人がほんとうのことを話さなくなっている。


『真実を話す』美徳を忘れているのだ。


上司が右と言えば右


みんなが右と言えば右


違うよ、ほんとうは左だよ

こう言える人間がいないのだ。


国会を見ていても、そうだ。大多数の与党の人間が安倍総理のもとに声をあわせている。


日本の美徳と違うだろう。


大多数の与党であっても野党の意見に耳を傾け、正しい意見は尊重する姿勢がたいせつなんだろう。


ほんとうに、このままの日本で良いのだろうか?


だんだんと言論の自由が奪われて最後は戦前とかわらない挙国一致体制になってしまうのではないだろうか。







花森安治の言葉より

色と限らず、

美しいことについての

感覚がまるでないひとたちが、

日本の政治や経済を

動かしているところに、

いまの世の中の不幸がある。

『 ジャーナリズムとは、報じられたくない事を報じることだ。それ以外は広報にすぎない』

~ジョージ・オーウェル



花森安治

「僕は自分に戦争責任があるとは思っていない。だからこそ、暮しの手帖を始めたのだ。

なぜあんな戦争が起こったのか、だれが起こしたのか。

その根本の総括を抜きにして、僕を血祭りにあげてそれでお終いというのでは、肝心の問題が霧散霧消してしまうではないか」

なにが本当で、なにが嘘なのか?

花森安治は考える。

国を信じて戦争に協力したが、終戦後は痛烈な批判を浴びる。

なにを信用していけばいいのか?

自分は国に騙されたのではないか?

もう騙されたくない。

花森安治

「 もう誰にも騙されない人を増やす」

これこそが彼の信念であり、『暮しの手帖』を創刊した理由だった。

そして彼は真のジャーナリストだった。

国や地方自治体は国民や住民のために存在すると誰もが学校では教わった。

そして誰もが、そう思っている。

ただ、それは本当なのか?

騙されているのではないか?





東京都食品安全推進計画

平成27年〜平成32年

都政の役割の第一は、都民の生命と財産を守ることです。

私たちの生命と健康を支える食品の安全確保は、都政の重要な課題の一つであり、東京都は「東京都食品安全条例」を制定するとともに、条例に基づく「東京都食品安全推進計画」を策定し、全国に先駆けて対策に取り組んできました。

 しかし、近年、全国では、ノロウイルスによる大規模な食中毒や産地の偽装表示など、食に関する事件が発生しており、更なる対策が求められています。また、食品中の放射性物質の問題についても、引き続き対応していく必要があります。

2020 年の東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、東京を訪れる多く の方々が、安心して東京の食を楽しむためにも、食品の安全を確保することは欠か すことができません。 

こうしたことから、今回改定した食品安全推進計画では、「国際基準等を見据えた 事業者による安全確保の推進」、「情報収集や調査、監視指等に基づく安全対策の推 進」及び「世界への情報発信、関係者による相互理解と協力の推進」を施策の柱と して、この施策の柱を中心に基本施策及び重点施策をとりまとめました。 

 この計画に基づく施策を、全庁横断的に着実に実施していくことで、東京の食品の安全を確保し、都民の健康保護を図っていきます。

 さらに、この計画は、東京都や区市町村、食品関係事業者、都民などの関係者が協働・連携して行動するための指針でもあります。

関係者各々がそれぞれの役割を果たすとともにお互いの取組を理解し、協力し合 うことにより、東京における食品の安全確保が一層推進され、「世界一安心・安全な 都市・東京」の礎となることを確信する。

平成27年2月

東京都知事    舛添要一




『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマの編集長、花伊佐次(唐沢寿明)の健康がかなり悪そうです。


大丈夫なんでしょうか?


毎日、会社で編集員たちを元気良く怒りつけている姿しか見たことがなかったのでなんだか心配です。


<来週のとと姉ちゃん>最終週「花山、常子に礼を言う」 常子と花山のラストは? “とと”も再び


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160923-00000034-mantan-ent


ドラマの今後の展開は詳しくはわかりませんが、花山伊佐次モデルの花森安治はどうだったのか調べてみました。


花森安治はどうだったの?


花森安治はは肥満体質だったこともあり晩年は心臓の病気を患っていました。


昭和44年(1969年)取材先の京都のホテルで心筋梗塞で倒れています。

 

『暮しの手帖』のすべてを取り仕切っていたことから、決して病気のために休むことはありませでした。

 

雑誌の隅から隅まで目を通して、締め切り間際は徹夜仕事も度々のハードワークをこなします。

 

大橋鎭子も何度も休暇を取ることを勧めたが、聞き入れられません。

 

60歳を過ぎたあたりから好きな煙草お酒をやめていますが、病気のため体は弱っていきました。

 

死の前年の昭和52年(1977年)にはもはや階段の昇り降りすら満足にできないほど、衰弱していきます。

 

そんな状態でありながらも毎日のように出社する花森は自らの命を削りながら仕事を続けていたのです。


昭和52年、花森安治は8ミリカメラを持って隅田川から荒川へ撮影に出かけて風邪をひき、それをこじらせて入院する羽目になりました。


大橋鎭子は毎日のように病院に通って仕事の進行状況などを打ち合わせし、花森は病室から指示を出していました。


彼はクリスマスと正月を自宅で過ごしたいということで病院に頼んで一時的に退院します。


昭和53年(1978年)年明け早々、花森安治は出社して1月末発売の『暮しの手帖』の表紙の絵と原稿に取りかかります。

 

彼の体力はかなり衰えていたようで、原稿に関してはレコーダーでの口述筆記となりました。

 

1月12日、最後の仕事が出来あがります。


1月13日の夜、大橋鎭子は中野家子(中田綾のモデル)とともに、花森安治が大好物の銀座の中田すし屋のばらずしを自宅に届けています。

 

帰り際にパジャマ姿の花森が玄関まで出てきて、「みなさん、どうもありがとう」と言って手を振って見送ってくれました。


これが、30年一緒に歩んできた大橋鎭子と花森安治の最後の別れでした。


大橋鎭子と中野家子が帰った後も花森安治は居間でくつろいでいましたが、突然心臓発作を起しました。


夫人に背中をさでさすってもらっているうち、痛みは去ったのですが、14日午前1時過ぎ、先に寝た夫人がふたたび居間をのぞいてみると、彼はソファの上で死んでいました。


大橋鎭子は花森の妻のももよからの電話でかけつけます。


彼女は花森の自宅に急行しましたが、そこには既にこと切れた花森がベッドに横たわっていたそうです。


告別式は彼の意を体して、暮しの手帖研究所でデスクに白布をかけただけの祭壇に、遺影と骨壺のみが安置され、花で埋められたほかには、線香も榊も神父の影もありませんでした。


全て、ひそやかに見送って欲しいと言う花森安治の生前の意思でした。


暮しの手帖社の2階で「お別れ会」を開き、約千人が弔問にきたと言われています。


★花森安治3つの幸せ


昭和44年100号のあとがきに創刊号からの22年間をふり返って、『暮しの手帖』編集者の3つの幸せについて、花森安治が書いています。


ひとつは、雑誌を育て、支える質のよい読者を持ちつづけたこと。


ふたつめは、雑誌のどの号の、どの一頁(ページ)も、筆を曲げなかったこと。


「この雑誌は広告をのせていません、そのために、どんな圧力も感じないでやってこられたのだとおもいます。
編集者として『何ものにもしばられることなく、つねに自由であること』これにまさる幸せは、ほかにはないからです。」


「そして、広告をのせなくても、雑誌を一冊一冊買ってもらう、その収入だけでちゃんとやっていける、そのことを二十二年間の経験で、ぼくたちは、実証できたと思ってます。」


みっつめは、創刊号を出したときの七人のうち、六人までが100号まで編集の第一線で働き続けていること。


★花森安治『死ぬまで編集者でありい』


最後に、花森安治自身が私的な感想をのべるのを許していただきたいとして、編集者の『職人』的な才能について書いています。


『職人』のところにアルチザン(フランス語 ARTISAN)とルビがふられています。


「一号から百号まで、どの号もぼく自身も取材し、写真をとり、原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正してきたこと、それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、よろこびであり、誇りである、ということです。


雑誌作りというのは、どんなに大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、所詮は『手作り』である、それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。


だから、編集者は、もっとも正しい意味で『職人』的な才能を要求される、そうおもっています。


ぼくは、死ぬ直前まで『編集者』でありたい、とねがっています。


その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く汚している、現役の編集者でありたいのです。」


★花森安治最後の原稿


人間の手のわざを、

封じないようにしたいというのは、

つまりは、

人間の持っているいろんな感覚を、

マヒさせてしまわないように、

ひいては、

自分の身のまわり、

人と人とのつな がり、

世の中のこと、

そういったことにも、

なにが美しいのか、

なにがみにくいのか、

という美意識を

つちかっていくことに

なるからです。


★花森安治は幸せな人生だった


花森安治は自分のやりたいことをやりたいようにやれ、自分の作った『暮しの手帖』が大勢の読者に読まれて満足だったと思います。


彼は『何ものにもしばられることなく、つねに自由であること』、そうあり続けた花森安治は最高に幸せでした。


彼の周りにはいつも妻の花森ももや、大橋鎭子、大橋春子、大橋美子等、大勢の女性に囲まれて、明るい笑いの絶えなかった。


そして死ぬまで『編集者』であり続けた花森安治、まさに彼にとってこれ以上最高の人生はなかったのではないのでしょうか。


『天国に一番近い島』を書いた小説家、森村桂( かつら )さんを知っていますか?

森村桂さんは父親で作家の豊田三郎に、幼い頃

「ずっとずっと南の地球の先っぽに
天国に一番近い島がある。」

もう少し大きくなったら、丸木舟を買って連れて行ってやる。

と聞かされていました。

しかし彼女が19歳の時に約束を果たさぬまま父親は亡くなります。

森村桂は学習院卒業後、女性週刊誌の記者となるが、ゴシップを追うばかりの取材が嫌になり、2か月で退社して『暮らしの手帖社』に入社します。

この時のことを綴ったのが、彼女の処女作『違っているかしら』でした。

この作品で森村桂は文壇にデビューしました。



★映画『違っているかしら』

森村桂の処女作は映画化され、昭和41年日活映画タイトルも同じ『違っているかしら』と言う題名で上映されました。

役者

森村桂     ー  吉永小百合
大橋鎭子  ー  細川ちかこ 
花森安治  ー   宇野重吉

なんだか興味がわきますね。

映画の一場面より

【 桂は試用期間中、よければ採用 】

『暮しの友社』に入って、大いにハッスルする桂( 森村桂 )は企画書を編集長の花井( 花森安治 )に提出するが、その前にちゃんと雑用をこなせと言われてしまう。

しかし不器用な桂は雑用をまともにこなせずドジを繰り返す。

桂は粗悪品を作るメーカーを糾弾しようとハッスルするが、社長の河西( 大橋鎭子)にあなたはとんでもないことをすると言われてしまう。

河西は桂に編集者として必要な正確さと忍耐強さがないと烙印を押す。

「あなたは社員として不適当と思わざるを得ません」

「……」

「ところが私も皆もどうもすっきりしない。だから私たちはあなたの長所を考えることにしました。すると非常に素直で明るい、気持ちが優しい、一生懸命という答えが返ってきました。あなたは私の若い頃にそっくりで、私はあなたを私の下に置きたい気持ちもある。でもそれではあなたを頭から押さえつけることになる。あなたのようなバイタリティのある人が会社の元で安全教育を受けて、当人のためなのか。あなたに一週間あげます。それであなたがここにいたければ、もう一度みんなに頼んでみましょう」

映画で社長の河西( 大橋鎭子 )の人柄が良くでている一場面だと思います。

『暮しの手帖社』の社長、大橋鎭子は「本人のことを良く考え、決して考えを押しつけることもない、前向きでプラスのことを考えれる人」だったようです。

映画はさておき、森村桂は商品テストの仕事でクタクタになったある日、編集長花森安治からニューカレドニアの名前を聞きます。

「二日働けば、あと五日は遊んで暮らせる夢のような島。」

そんなニューカレドニアと言う島があると花森安治がなにげなく森村桂に話をしたのです。

彼女はその島こそ、父が言っていた『天国に一番近い島』だと幼い頃の記憶が蘇ります。

『運命』なんでしょうか。

森村桂は『暮しの手帖社』を辞め、昭和39年(1964年)にニューカレドニアに一人旅に出ます。

鉱石運搬船の会社にかけあい船旅でした。

飛行機の直行便など無い時代。

旅費は20万円。

これはその頃の新任教師の給料一年分にあたりました、

無謀な突飛もない行為。若者でなければできない行為でした。



★森村桂の『天国に一番近い島』は昭和41年(1966年)に出版されます。

ニューカレドニアは一年中花が咲き、マンゴやパパイヤがたわわに実る夢のような島。

まさに幼い頃、父親から聞いた『天国に一番近い島』でした。

まだ、外国へ行くのが難しかった時代、思いがけない人の善意から、南太平洋の島ニューカレドニアへ旅立った森村桂はさまざまな体験をします。

さわやかな「私」の行動が、爆発的人気を呼んだ『夢の配達人』桂のロングセラー旅行記でした。

高度成長期、仕事漬けの日本人に貪り読まれ200万部を越す大ベストセラーとなりました。

彼女が行った頃のニューカレドニアはニッケル鉱の採掘だけが主産業の素朴な島で古くはフランスの流刑地だったのです



★昭和43年(1968年)NHK連続ドラマ第8作『あしたこそ』藤田弓子主役で森村桂の『天国に一番近い島』 はドラマ化されました。

連続テレビ小説で初めてカラーになった作品であり、橋田壽賀子が初めて脚本を書いています。

1968〜69年の『あしたこそ』NHK連続ドラマの平均視聴率は44.9%、最高視聴率は55.5%を記録しました。

日本の朝のテレビを見ていた人の2人に1人はNHK連続ドラマ『あしたこそ』を見ていたんですね。

今では、本当に考えられないことです。




★昭和59年(1984年)『天国に一番近い島』が原田知世主演で角川より映画化されました。

ニューカレドニアは日本からは非常に遠く、当時はまだ馴染みのない国でしたが、この映画のおかげでブームとなりました。

日本人観光客が増え、ロケが行われたウベア島には、島内に唯一のリゾートホテル「パラディ・ド・ウベア」ができたと言われています。

ニューカレドニアは今や、直行便も出て、新婚旅行のメッカです。





★平成14年(2002年)『いまでも天国に一番近い島』が出版されました。

『天国にいちばん近い島』の物語の舞台となったニューカレドニアの豊かな自然と、そこに暮らす人々の姿を写真撮影し、物語と書き下ろしエッセイをからめて綴るフォト&エッセイです。

森村は現在の島の写真を見て、島の生活が向上していることを女性の服装に見て取り、「いい時代が来たんだ。」と語っています。

森村桂は夫と共に軽井沢で「アリスの丘」というティールームを開業、ケーキ焼いて過ごしていました。

『いまでも天国に一番近い島』の後書きに添えられた写真は柔和で、幸せな老後を感じさせるものでしたが、平成16年(2004年)9月27日自殺しました。享年64歳でした。



★『運命』とはわからないもの

森村桂が『暮しの手帖社』に入社し、花森安治と出会ったことで、花森安治からニューカレドニアの話を聞いてしまいます。

彼女は『運命』に導かれたようにニューカレドニアに旅立ち、『天国に一番近い島』を書くことになりました。

これは『運命』であったのか?

『運命』とは最初から決められたものなのか?

人は、自分の人生は自分で生きていると思っている。

しかし、誰も気づかないうちに、『運命』の糸に操られているだけなのかも知れない。


『暮しの手帖』の名編集長・花森安治にはその風貌と迫力から、「ゴジラ」というあだ名が付けられていた。

花森安治の写真




ゴジラの写真



なんだかよく似てます。(笑)

わたしは小さい頃、この「ゴジラ」の映画を観た後、毎夜、毎夜、ゴジラの夢にうなされていたものでした。

わたしにゴジラが迫ってきます。逃げても逃げても、なぜか追っかけてくるのです。

ああ、ヤバイと眼を閉じた瞬間、夢から醒めていました。

小さな頃は、ほんとにゴジラは怖かったですね。

ゴジラは1954年、昭和29年の生誕です。

映画評論家、岡田斗司夫の解説では

『 ゴジラは戦争で死んだ人たちの亡霊の塊 』

「 戦地や原爆などで死んだ過去の亡霊が祭られなかったことで祟りとしてゴジラと化し、過去を忘れて戦後繁栄していった東京の象徴でもある新幹線やタワー、国会議事堂を中心に街を破壊。

皇居の前までたどり着き、天皇陛下のいる場所をジッと見つめUターンして海へ帰っていくんだそうです。

そしてゴジラは戦争で戦死できずに生き残ってしまった科学者の手によって葬られるのだ。」

昭和30年代から40年代にかけて日本はひどい大気汚染や水質汚染に悩まされていました。

空は光化学スモックで灰色の雲に覆われ、青い海は工業用配水で汚され黒く濁っていました。

日本の人々の多くは暗い空の下、公害被害に苦しめられていました。

1973年、昭和48年花森安治も戦後の高度成長社会をゴジラと同様に吼えたのです。

『28年の日日を痛恨する歌』より

「 ひとの不幸であろうが何だろうが 
利用できるものは何でも利用
する 

ひとの暮しに役に立たなくても ひとの暮しをダメにすることがわかっていても 売れさえしたら それでいい 

売れるためなら どんなことでもする

そんな会社や人間ばかりだ 

そんな会社や人間が しかも こそこそと人目をはばかるどころか 白昼堂々と 大手をふって 天下国家を背負っているような顔をしているのだ 

そんな会社や そんな会社の後押しをした政府が いま 日本の繁栄を作り上げてやったのは じぶんたちだ と胸を張っているのだ

あの敗戦から 奇跡的に立ち直らせたのは おれたちだ とうそぶいているのだ 

そうなのか ほんとうにそうなのか 

それなら 見るがいい ぼくらの暮しを後まわしにして ぼくらの血のにじむ税金を使って そんな企業を後押ししてきた政府よ その政府と なあなあでやってきた大企業よ 見るがいい 

誇らしげに 君たちが作り上げたというその世の中を 目をそむけないで はっきりと見るがいい 

繁栄とは なにか ゆたかな暮しとは なにか 

君らは もうけることが そうして繁栄することが ぼくらの幸せにつながる といった 

君らが禿鷹のように 他人の不幸をむさぼり食らって肥ってきたからこそ ぼくらの暮しも それにつれてよくなってきた筈だと 君らはいった 

大企業が 億もうけたとき ぼくらがうるおったのは たったの三だ しかも そのたった二か三のうるおいと引きかえに ぼくらは なにを失ったか 

君らはいま その目で はっきりと見るがいい 」

それは公害被害を出し続ける企業、またその企業に加担する政府への批判でした。

1978年、『暮しの手帖』のゴジラ花森安治も静かに亡くなります。

昭和のゴジラも花森安治のゴジラも両者は高度成長社会を痛烈に批判するものでした。




↑このページのトップヘ