


愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。
『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマの編集長、花伊佐次(唐沢寿明)の健康がかなり悪そうです。
大丈夫なんでしょうか?
毎日、会社で編集員たちを元気良く怒りつけている姿しか見たことがなかったのでなんだか心配です。
<来週のとと姉ちゃん>最終週「花山、常子に礼を言う」 常子と花山のラストは? “とと”も再び…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160923-00000034-mantan-ent
ドラマの今後の展開は詳しくはわかりませんが、花山伊佐次モデルの花森安治はどうだったのか調べてみました。
★花森安治はどうだったの?
花森安治はは肥満体質だったこともあり晩年は心臓の病気を患っていました。
昭和44年(1969年)取材先の京都のホテルで心筋梗塞で倒れています。
『暮しの手帖』のすべてを取り仕切っていたことから、決して病気のために休むことはありませでした。
雑誌の隅から隅まで目を通して、締め切り間際は徹夜仕事も度々のハードワークをこなします。
大橋鎭子も何度も休暇を取ることを勧めたが、聞き入れられません。
60歳を過ぎたあたりから好きな煙草お酒をやめていますが、病気のため体は弱っていきました。
死の前年の昭和52年(1977年)にはもはや階段の昇り降りすら満足にできないほど、衰弱していきます。
そんな状態でありながらも毎日のように出社する花森は自らの命を削りながら仕事を続けていたのです。
昭和52年、花森安治は8ミリカメラを持って隅田川から荒川へ撮影に出かけて風邪をひき、それをこじらせて入院する羽目になりました。
大橋鎭子は毎日のように病院に通って仕事の進行状況などを打ち合わせし、花森は病室から指示を出していました。
彼はクリスマスと正月を自宅で過ごしたいということで病院に頼んで一時的に退院します。
昭和53年(1978年)年明け早々、花森安治は出社して1月末発売の『暮しの手帖』の表紙の絵と原稿に取りかかります。
彼の体力はかなり衰えていたようで、原稿に関してはレコーダーでの口述筆記となりました。
1月12日、最後の仕事が出来あがります。
1月13日の夜、大橋鎭子は中野家子(中田綾のモデル)とともに、花森安治が大好物の銀座の中田すし屋のばらずしを自宅に届けています。
帰り際にパジャマ姿の花森が玄関まで出てきて、「みなさん、どうもありがとう」と言って手を振って見送ってくれました。
これが、30年一緒に歩んできた大橋鎭子と花森安治の最後の別れでした。
大橋鎭子と中野家子が帰った後も花森安治は居間でくつろいでいましたが、突然心臓発作を起しました。
夫人に背中をさでさすってもらっているうち、痛みは去ったのですが、14日午前1時過ぎ、先に寝た夫人がふたたび居間をのぞいてみると、彼はソファの上で死んでいました。
大橋鎭子は花森の妻のももよからの電話でかけつけます。
彼女は花森の自宅に急行しましたが、そこには既にこと切れた花森がベッドに横たわっていたそうです。
告別式は彼の意を体して、暮しの手帖研究所でデスクに白布をかけただけの祭壇に、遺影と骨壺のみが安置され、花で埋められたほかには、線香も榊も神父の影もありませんでした。
全て、ひそやかに見送って欲しいと言う花森安治の生前の意思でした。
暮しの手帖社の2階で「お別れ会」を開き、約千人が弔問にきたと言われています。
★花森安治3つの幸せ
昭和44年100号のあとがきに創刊号からの22年間をふり返って、『暮しの手帖』編集者の3つの幸せについて、花森安治が書いています。
ひとつは、雑誌を育て、支える質のよい読者を持ちつづけたこと。
ふたつめは、雑誌のどの号の、どの一頁(ページ)も、筆を曲げなかったこと。
「この雑誌は広告をのせていません、そのために、どんな圧力も感じないでやってこられたのだとおもいます。
編集者として『何ものにもしばられることなく、つねに自由であること』これにまさる幸せは、ほかにはないからです。」
「そして、広告をのせなくても、雑誌を一冊一冊買ってもらう、その収入だけでちゃんとやっていける、そのことを二十二年間の経験で、ぼくたちは、実証できたと思ってます。」
みっつめは、創刊号を出したときの七人のうち、六人までが100号まで編集の第一線で働き続けていること。
★花森安治『死ぬまで編集者でありい』
最後に、花森安治自身が私的な感想をのべるのを許していただきたいとして、編集者の『職人』的な才能について書いています。
『職人』のところにアルチザン(フランス語 ARTISAN)とルビがふられています。
「一号から百号まで、どの号もぼく自身も取材し、写真をとり、原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正してきたこと、それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、よろこびであり、誇りである、ということです。
雑誌作りというのは、どんなに大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、所詮は『手作り』である、それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。
だから、編集者は、もっとも正しい意味で『職人』的な才能を要求される、そうおもっています。
ぼくは、死ぬ直前まで『編集者』でありたい、とねがっています。
その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く汚している、現役の編集者でありたいのです。」
★花森安治最後の原稿
人間の手のわざを、
封じないようにしたいというのは、
つまりは、
人間の持っているいろんな感覚を、
マヒさせてしまわないように、
ひいては、
自分の身のまわり、
人と人とのつな がり、
世の中のこと、
そういったことにも、
なにが美しいのか、
なにがみにくいのか、
という美意識を
つちかっていくことに
なるからです。
★花森安治は幸せな人生だった
花森安治は自分のやりたいことをやりたいようにやれ、自分の作った『暮しの手帖』が大勢の読者に読まれて満足だったと思います。
彼は『何ものにもしばられることなく、つねに自由であること』、そうあり続けた花森安治は最高に幸せでした。
彼の周りにはいつも妻の花森ももや、大橋鎭子、大橋春子、大橋美子等、大勢の女性に囲まれて、明るい笑いの絶えなかった。
そして死ぬまで『編集者』であり続けた花森安治、まさに彼にとってこれ以上最高の人生はなかったのではないのでしょうか。