焦土の廃墟、東京の銀座の町に失意の男たちが集まって、素人ばかりの雑誌作りが始まった。合い言葉は「めざせ!百万部」であった。

月刊『平凡』は、下中弥三郎の平凡社が休刊中だった雑誌『平凡』の名前を岩堀喜之助が譲り受け、清水達夫の編集により、昭和20年(1945年 )11月に文芸誌として創刊された。
花森安治の『スタイルブック』が創刊されたのは昭和21年( 1946年 )3月、『暮しの手帖』は昭和23年( 1948年)9月のことでした。花森安治よりも岩堀喜之介の方が4カ月早く雑誌を出しています。
『平凡』が歌と映画の娯楽雑誌としてリニューアルされたのは昭和23年( 1948年)2月。
昭和27年( 1952年 )8月、『平凡』が売り切れ、完売を続出させる状態のなかで、集英社から表紙から中身から、なにからなにまでそっくりの『明星』が創刊されるのである。
『平凡』が発行部数百万部にとどく寸前のことであった。
表紙も記事も『平凡』に酷似。
なにからなにまでよく似ていた。あり得ないことだったと関係者が語る。
真似たのは小学館一ツ橋グループの集英社であった。
『週刊平凡』(1959創刊)に対し『週刊明星』(1958創刊
『平凡パンチ』)(1964)に対し『週刊プレイボーイ』(1966)
女性誌の『anan』(1970)に対し『nonno』(1971)
ここまでくると凄いですね。わたしたちも、どちらがどちらかわからないまま雑誌を手に取って見比べては購入していたものです。
雑誌が単体でなくファッションやその他の商品と複合的に市場を拡大するメディアとなってからマガジンハウスの木滑良久元社長は
「よそに真似されない雑誌なんてダメなんです」
と語っています。
思えば、昭和の時代は『週刊平凡』に『週刊明星』、『平凡パンチ』に『週刊プレイボーイ』いろんな雑誌を随分読んでいたものです。
娯楽雑誌のスタートが大政翼賛会宣伝部に所属していた岩堀喜之介と清水達夫の二人によってなされていたとはなんだか面白いですね。
また、暮しの生活雑誌の『暮しの手帖』が同じ大政翼賛会宣伝部所属の花森安治によってなされていたのも偶然なのか必然なのか興味深い話です。」

岩堀喜之介
晩年、いろいろな人から伝記を書かせて欲しいとたのまれたが、彼は「絶対にイヤだ」といい、苦笑いしながら「オレの人生なんてみっともないもんだよ。書いてなんかくれるなよ」といって、筆の立つ清水達夫に「おめえが自分のことを書くときに、ちょっとオレのことも書いてくれればいいよ」と言っていたという。
岩堀の葬儀での清水達夫の弔辞
焦土の廃墟、東京の銀座の町に失意の男たちが集まって、素人ばかりの雑誌作りが始まった。合い言葉は「めざせ!百万部」てあった。
月刊『平凡』は、下中弥三郎の平凡社が休刊中だった雑誌『平凡』の名前を岩堀喜之助が譲り受け、清水達夫の編集により、昭和20年(1945年 )11月に文芸誌として創刊された。
花森安治の『スタイルブック』が創刊されたのは昭和21年( 1946年 )3月、『暮しの手帖』は昭和23年( 1948年)9月のことでした。花森安治よりも岩堀喜之介の方が4カ月早く雑誌を出しています。
『平凡』が歌と映画の娯楽雑誌としてリニューアルされたのは昭和23年( 1948年)2月。
昭和27年( 1952年 )8月、『平凡』が売り切れ、完売を続出させる状態のなかで、集英社から表紙から中身から、なにからなにまでそっくりの『明星』が創刊されるのである。
『平凡』が発行部数百万部にとどく寸前のことであった。
表紙も記事も『平凡』に酷似。
なにからなにまでよく似ていた。あり得ないことだったと関係者が語る。
真似たのは小学館一ツ橋グループの集英社であった。
『週刊平凡』(1959創刊)に対し『週刊明星』(1958創刊
『平凡パンチ』)(1964)に対し『週刊プレイボーイ』(1966)
女性誌の『anan』(1970)に対し『nonno』(1971)
ここまでくると凄いですね。わたしたちも、どちらがどちらかわからないまま雑誌を手に取って見比べては購入していたものです。
雑誌が単体でなくファッションやその他の商品と複合的に市場を拡大するメディアとなってからマガジンハウスの木滑良久元社長は
「よそに真似されない雑誌なんてダメなんです」
と語っています。
思えば、昭和の時代は『週刊平凡』に『週刊明星』、『平凡パンチ』に『週刊プレイボーイ』いろんな雑誌を随分読んでいたものです。
娯楽雑誌のスタートが大政翼賛会宣伝部に所属していた岩堀喜之介と清水達夫の二人によってなされていたとはなんだか面白いですね。
また、暮しの生活雑誌の『暮しの手帖』が同じ大政翼賛会宣伝部所属の花森安治によってなされていたのも偶然なのか必然なのか興味深い話です。
岩堀喜之介
晩年、いろいろな人から伝記を書かせて欲しいとたのまれたが、彼は「絶対にイヤだ」といい、苦笑いしながら「オレの人生なんてみっともないもんだよ。書いてなんかくれるなよ」といって、筆の立つ清水達夫に「おめえが自分のことを書くときに、ちょっとオレのことも書いてくれればいいよ」と言っていたという。
岩堀の葬儀での清水達夫の弔辞
「人生一知己を得ば以て恨みなかるべし」この言葉は、あなたが大好きで私に教えてくれた中国の誰かの言葉です。そしてこの言葉は、あなたから私におくつて下さった心からの友情の言葉だと思います。わたしはこの言葉を、私からもあなたにささげます。」