ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:とと姉ちゃん > 昭和の時代

焦土の廃墟、東京の銀座の町に失意の男たちが集まって、素人ばかりの雑誌作りが始まった。合い言葉は「めざせ!百万部」であった。





月刊『平凡』は、下中弥三郎の平凡社が休刊中だった雑誌『平凡』の名前を岩堀喜之助が譲り受け、清水達夫の編集により、昭和20年(1945年 )11月に文芸誌として創刊された。

花森安治の『スタイルブック』が創刊されたのは昭和21年( 1946年 )3月、『暮しの手帖』は昭和23年( 1948年)9月のことでした。花森安治よりも岩堀喜之介の方が4カ月早く雑誌を出しています。

『平凡』が歌と映画の娯楽雑誌としてリニューアルされたのは昭和23年( 1948年)2月。

昭和27年( 1952年 )8月、『平凡』が売り切れ、完売を続出させる状態のなかで、集英社から表紙から中身から、なにからなにまでそっくりの『明星』が創刊されるのである。

『平凡』が発行部数百万部にとどく寸前のことであった。

表紙も記事も『平凡』に酷似。

なにからなにまでよく似ていた。あり得ないことだったと関係者が語る。

真似たのは小学館一ツ橋グループの集英社であった。


『週刊平凡』(1959創刊)に対し『週刊明星』(1958創刊

『平凡パンチ』)(1964)に対し『週刊プレイボーイ』(1966)

女性誌の『anan』(1970)に対し『nonno』(1971)

ここまでくると凄いですね。わたしたちも、どちらがどちらかわからないまま雑誌を手に取って見比べては購入していたものです。

雑誌が単体でなくファッションやその他の商品と複合的に市場を拡大するメディアとなってからマガジンハウスの木滑良久元社長は

「よそに真似されない雑誌なんてダメなんです」

と語っています。

思えば、昭和の時代は『週刊平凡』に『週刊明星』、『平凡パンチ』に『週刊プレイボーイ』いろんな雑誌を随分読んでいたものです。

娯楽雑誌のスタートが大政翼賛会宣伝部に所属していた岩堀喜之介と清水達夫の二人によってなされていたとはなんだか面白いですね。

また、暮しの生活雑誌の『暮しの手帖』が同じ大政翼賛会宣伝部所属の花森安治によってなされていたのも偶然なのか必然なのか興味深い話です。」





岩堀喜之介

晩年、いろいろな人から伝記を書かせて欲しいとたのまれたが、彼は「絶対にイヤだ」といい、苦笑いしながら「オレの人生なんてみっともないもんだよ。書いてなんかくれるなよ」といって、筆の立つ清水達夫に「おめえが自分のことを書くときに、ちょっとオレのことも書いてくれればいいよ」と言っていたという。

岩堀の葬儀での清水達夫の弔辞

焦土の廃墟、東京の銀座の町に失意の男たちが集まって、素人ばかりの雑誌作りが始まった。合い言葉は「めざせ!百万部」てあった。

月刊『平凡』は、下中弥三郎の平凡社が休刊中だった雑誌『平凡』の名前を岩堀喜之助が譲り受け、清水達夫の編集により、昭和20年(1945年 )11月に文芸誌として創刊された。

花森安治の『スタイルブック』が創刊されたのは昭和21年( 1946年 )3月、『暮しの手帖』は昭和23年( 1948年)9月のことでした。花森安治よりも岩堀喜之介の方が4カ月早く雑誌を出しています。

『平凡』が歌と映画の娯楽雑誌としてリニューアルされたのは昭和23年( 1948年)2月。

昭和27年( 1952年 )8月、『平凡』が売り切れ、完売を続出させる状態のなかで、集英社から表紙から中身から、なにからなにまでそっくりの『明星』が創刊されるのである。

『平凡』が発行部数百万部にとどく寸前のことであった。

表紙も記事も『平凡』に酷似。

なにからなにまでよく似ていた。あり得ないことだったと関係者が語る。

真似たのは小学館一ツ橋グループの集英社であった。

『週刊平凡』(1959創刊)に対し『週刊明星』(1958創刊

『平凡パンチ』)(1964)に対し『週刊プレイボーイ』(1966)

女性誌の『anan』(1970)に対し『nonno』(1971)

ここまでくると凄いですね。わたしたちも、どちらがどちらかわからないまま雑誌を手に取って見比べては購入していたものです。

雑誌が単体でなくファッションやその他の商品と複合的に市場を拡大するメディアとなってからマガジンハウスの木滑良久元社長は

「よそに真似されない雑誌なんてダメなんです」

と語っています。

思えば、昭和の時代は『週刊平凡』に『週刊明星』、『平凡パンチ』に『週刊プレイボーイ』いろんな雑誌を随分読んでいたものです。

娯楽雑誌のスタートが大政翼賛会宣伝部に所属していた岩堀喜之介と清水達夫の二人によってなされていたとはなんだか面白いですね。

また、暮しの生活雑誌の『暮しの手帖』が同じ大政翼賛会宣伝部所属の花森安治によってなされていたのも偶然なのか必然なのか興味深い話です。

岩堀喜之介

晩年、いろいろな人から伝記を書かせて欲しいとたのまれたが、彼は「絶対にイヤだ」といい、苦笑いしながら「オレの人生なんてみっともないもんだよ。書いてなんかくれるなよ」といって、筆の立つ清水達夫に「おめえが自分のことを書くときに、ちょっとオレのことも書いてくれればいいよ」と言っていたという。

岩堀の葬儀での清水達夫の弔辞

「人生一知己を得ば以て恨みなかるべし」この言葉は、あなたが大好きで私に教えてくれた中国の誰かの言葉です。そしてこの言葉は、あなたから私におくつて下さった心からの友情の言葉だと思います。わたしはこの言葉を、私からもあなたにささげます。」




『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマのブログをほぼ毎日のように書いているが、どうしても『暮しの手帖』の花森安治がメインのように書いてしまう。





それほど、花森安治の存在は大きく、人物が面白いからと言うことだろうか。

花森安治は戦時中はご存知の通り大政翼賛会の宣伝部に所属していました。

昭和15年、戦争遂行の為にあらゆる反対をなくすのが目的で、国家が一つになるため既成政党は次々に解散し大政翼賛会へ合流。

日本政府は大政翼賛会一国一党となります。花森安治がいたのは国家の宣伝部署にいたと言うことになります。

大政翼賛会宣伝部は「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」といった戦時中の有名なスローガンを生みだし、国民総動員の戦争協力体制へと導きました。

戦後、花森安治は大政翼賛会宣伝部に所属していたから戦争協力者であると良く言われないことがあります。

『事実は二面性がある』

花森安治自体は戦争を嫌った人間でした。国家が一体になり国家に協力する。自分の育った国に協力する。大勢の国民が戦争で亡くなっているのだから、国に協力するのは美徳である。こう考えるのが普通ではないのか。

ただ、第2次世界対戦で日本は敗戦する。日本人の戦没者は約310万人であり、日本は敗者として戦争責任を問われ、アメリカは日本国民に対して第2次世界対戦中の日本国への戦争協力を咎めたのである。

日本人は自分で自分を責めた。日本が戦争をしたために多くの日本人が亡くなったとか、戦争協力をしたから、日本が焦土になったのだとか自虐自暴になった。

『歴史は勝者がつくる』

ただ、これが歴史なのだ。誰も戦争は止められなかったし、戦争に協力したかった。

勝者はアメリカであり、日本を占領し歴史を作った。だから、戦後の歴史は勝者が勝者のいいように書き換えられた歴史なのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』を見ればよくわかると思う。徳川家康は豊臣秀吉から秀頼と豊臣家の未来を託されるが、見事に裏切る。

明らかに徳川家康は悪人で石田三成が善人である。

徳川家康が天下を取り、勝者となると歴史は勝者の歴史となる。

徳川家康は善人で石田三成は悪人であると。

われわれはこの事実を良く知らなければならない。

『大政翼賛会宣伝部』

大政翼賛会宣伝部には優秀な人材が集まっていた。

花森安治であり戦後、大橋静子と『暮しの手帖』を創刊させた。

もう一人は岩堀喜之助は大政翼賛会の時の同僚、清水達夫とともに『平凡』を創刊させた。





岩堀氏の会社は平凡出版からマガジンハウスに社名を変え、『ポパイ』『ダカーポ』『アン・アン』などの雑誌を発行する会社に大きく発展している。

『花森安治と岩堀喜之介』

戦時中も花森安治は岩堀喜之介の疎開先・小田原を訪れ、戦争の話をしている。この時は、食糧不足にもかかわらず、岩堀家ではご馳走したそうである。

戦後、新橋駅前の大きな闇市の雑踏の中で二人は出会います。

「オツ、花ちゃん」 

「やあ、岩さん」 

「元気だったか」 

「うん、会いたかったよ」 

と二人は大声で叫んだ。 

二人にとって、戦争が終わってから初めての出会いでした。

花森安治

「日本があんな事になったのは、日本人が暮らしというものを大事にしなかったからだ」

岩堀喜之助

「いや違う、日本人が娯楽を軽く見たからだよ」と言う。 

二人は鎭子が買ってきた氷を二杯ぺろりと食べたと言われています。

再会は暑い日だった。 

大政翼賛会宣伝部に所属した二人であるが花森安治は暮しの生活雑誌をもとに日本人の暮しを変えていく。

岩堀喜之介は『平凡』を文芸娯楽雑誌として創刊したが、売れ行き不振により48年2月号からB5判の大衆娯楽雑誌に転身。

続いて59年5月に『週刊平凡』、64年4月に『平凡パンチ』を創刊。スターを大衆の生活レベルで扱う、スターのタレント化を進め、読む雑誌から見る雑誌へ、そして『平凡パンチ』では読者とともに「する」雑誌をつくりだした。戦後の新しい大衆をとらえた「平凡文化」を確立した

日本の雑誌文化を支えてきたのは『大政翼賛会宣伝部』の二人だったのには違いがない。

  

『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマは昭和30年に入り、日本は神武景気と言う未曽有の好景気となっていました。





人々の生活は豊かになり、家電品も三種の神器と言う、家庭でなくてはならい生活必需品、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が飛ぶように売れていきました。

★三種の神器

天照大御神(あまてらすおおみのかみ)は、弟神である、須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴な行動に我慢できなくなり、怒り悲しんで天岩屋戸に引きこもってしまいます。

すると全ての世界が真っ暗闇になり、様々な災いが起こりました。

神々は何とか、天照大御神に天岩屋戸( あまのいわやと )から出てきて頂こうと相談し、色々な手立てを考えました。

この時に、天照大御神に天岩屋戸から出てきてもらう方法の一つとして作られたのが、「玉」と「鏡」であったといいます。

後にこの「鏡」と「玉」が、「八尺瓊勾玉 (ヤサカニノまがたま ) 」と「八咫の鏡 ( ヤタノかがみ)」と呼ばれました。

天岩屋戸の事件で、須佐之男命は地上に追放されます。

そこで、須佐之男命は、嘆き悲しんでいる老夫婦と一人の娘に出会うことになります。

そこで、その老夫婦は、須佐之男命に、こう言いました。

「毎年、八つの頭をもつ大蛇が、やってきよる・・」

「・・すでに7人もの娘をさらわれてしまったんじゃ。」

「そして、今年は末娘までを捧げなければならないのじゃ」

と嘆き悲しんでいたのです。

須佐之男命は、この親子を助けるため大蛇を退治する決心をします。

そして、見事に大蛇を討ち果たした須佐之男命は、このとき大蛇の尾から「あるモノ」が出てきたことに気づきます。

その「あるモノ」とは、「剣」です。

そして、この剣こそが後に、「草薙剣(クサナギノつるぎ)」と呼ばれることになる「剣」です。

この後、須佐之男命は、この草薙剣を天照大御神に献上することなります。

天皇家に代々受け継がれた三つの宝、
八尺瓊の勾玉、八咫の鏡、草薙剣を三種の神器と言う。

★電化製品の三種の神器

1950年代後半、戦後日本において、新時代の生活必需品として宣伝されたのが白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の耐久消費財です。

歴代天皇に伝わる三種の神器になぞらえられて家電の三種の神器と呼ばれた。

新しい生活・消費習慣を表すマスコミ主導のキャッチコピーであり、豊かさや憧れの象徴でもあった。

日本の高度成長とともに三種の神器はあっと言うまに、全国の家庭に普及していきます。

日本人の暮らしもだんだん豊かになっていきました。

★時短家電三種の神器

現在に於いては家電の三種の神器は「時短家電三種の神器」に変わっていっています。

「時短家電三種の神器」とは、ロボット掃除機、食器洗い機(食洗機)、乾燥機付き洗濯機の3つ。

日本経済が右肩上がりになっていく中、人々が汗水たらして働き手に入れようとしていた昭和の三種の神器とは違います。

皆が買いたい、持ちたいとめざす憧れの製品というわけではないのです。

誰にとっても「なくてはならない家電」ではありません。

お金で時間を買いたいと思っている層、特に家事にかける時間をできるだけ減らしたいと思っている層には強い要望がある商品です。

「時短家電」の名の通り、家事にかかる時間を短くしてくれています。

共働きの夫婦に保育園児1人で2LDKに住んでいる3人家族と仮定する。

週に2回15分かけて掃除機をかけ、毎日皿洗いに20分時間、1回20分で週に2回洗濯物干し&取り込みをしていたとする。

「時短家電三種の神器」により1カ月で掃除2時間、皿洗い9時間、洗濯2時間半の時間の節約になります。

1年間で見ると162時間もの時短になる。

「時短家電三種の神器」とはよく名付けられたものです。

我が家には乾燥機付き洗濯機しかありませんが、あと二つの家電も必要なのかな?

時代とともにだんだんと三種の神器も変わっていくものです。

現在は物がありあまっている時代、今度は時間を有効活用する時代になっているようです。

時間をどのように有効活用するのか?その時間になにをするのか?これが現代の最大の課題なのでしょう。



時々、考えることがある。自分のことを知っているようで知らないのだ。

また、世の中のことを知っているようで知らないのだ。

そんなことを知ってどうすると言う人がいるかも知れない。

生きているのに知ることは必要ないんだと言う人がいるかも知れない。

だけど、自分は知っておきたい。それが生きる意義にかかるかかかわらず、知らないで生きるよりは、知って生きたいのだ。

自分たちは社会の中で、なにも知らないで生きてきてるんだと思う。

小学校や中学校、大学と与えられたものを何の意識もしないで受け入れてきた。何の疑問ももたないでだ。

文化や食生活はこうなんだ、自分たちの選んだのがアメリカの音楽でありパンや西洋料理なんだ、和食よりも西洋料理が自分が好きなんだから、そちらを選んだと思っていた。

そうなんだろうか?

我々日本人は誰かにコントロールされてアメリカナイズされた生活をしているんではないか?

★学校給食

昭和20年8月、日本は終戦とともに未曾有の食糧難時代をむかえ世情不安となった。

同年10月には地方の疎開先から学童達が都会に戻ったものの食料はなく、米軍の緊急食糧放出、海外からのララ物資、ガリオア、エロア等の援助物資で急場をしのいだ。

これはアメリカ初め諸外国の好意の援助でありまさに干天の慈雨であった。

政府にとって欠食児童救済は急務であり翌年から学校給食が始まった。

主食はアメリカからの無償援助小麦によるパンであった。

当時食糧難に加え米の生産量が上がらず、アメリカの援助小麦に頼らざるを得ない事情があったので必然的にパン給食となったのである。

アメリカ頼みの給食であったが、昭和27年4月講和条約が発効すると日本は占領時代が終わり形の上では独立国となりアメリカからの無償援助は終わった。

同時に学校給食もピンチとなり、財政難から給食費は有料となり給食辞退者が続出し大きな社会問題となった。

この頃から食糧事情は次第に好転し、学校給食に米飯を取り入れることも可能な時期ではあったが、昭和29年学校給食法が成立しパンとミルクという形が継続された。

パンが主食となると副食はミルク、卵、バター、チーズ、肉類、油料理などの洋食スタイルとなり、味噌汁、漬物、野菜の煮物や豆腐、納豆、梅干し等の伝統食は遠ざかる。

当時厚生省は日本の伝統的な食生活ではなく、欧米流の栄養学に基づく「進んだ」食生活を普及させるという「栄養改善運動」を熱心に推進していた。

その線に沿った献立が学校給食で出された。

そしてその運動を裏で強力に支え資金援助したのがアメリカであった。

当時アメリカは膨大な量の農産物の過剰在庫をかかえ苦しんでいた。

一刻も早く農産物を輸出しないと財政悪化はさらに進み農民の不満も増大していた。

アメリカは日本等を標的に本格的に余剰農産物の輸出作戦を開始したのである。

アメリカは昭和29年、余剰農産物処理法(PL480)を成立させ官民挙げて早急な余剰農産物のはけ口を求めた。

その最大のターゲットにされたのが日本であった。

このPL480法案はアメリカ農産物を有利な条件で発展途上国に輸出するという内容であったが、同時に学校給食に対しては無償で食糧援助をすることが出来るという条項もあった。

この法案に基づいて昭和31年、財政難に苦しむ日本政府はアメリカ側提案による学校給食に関する次のような取り決めをした。

(1)アメリカは給食用小麦粉を4ヵ年に四分の一ずつ漸減して日本に贈与する。(初年次10万トン、4年次2万5千トン)

(2)日本政府は4年間にわたり、年間18万5千トンレベルの小麦給食(パン給食)を維持すること。という内容であった。

つまりアメリカは初めは学校給食用の小麦を無償で与えるが、それは毎年四分の一ずつ減らし、減った分は日本側が有償でアメリカから購入しパン給食を続けなさい、というものであった。

日本側はこれ以後大型製パン工場の相次ぐ建設でパンの大量供給態勢が出来ていった。

アメリカはパン給食が4年で終わるものでないことを充分承知の上であった。

パン用小麦は日本では産出されずパン給食を続けるということはその原料を全量アメリカからの輸入に頼ることになる。

そこがアメリカの狙いであり、このパン給食の裏にはアメリカの高度な政治戦略があった。

アメリカは膨大な余剰農産物処理の為、日本の学校給食でパンとミルクという給食を長期的に定着させようと画策したのです。

★日本人は自分で将来を選択できるのか?

社会の中で一人立ちして、今での人生振り返って、なんと何も考えないで学校生活を送り、社会人になっているのか唖然とする。

自分は社会のことなど何も知らなかったのだ。

日本とアメリカの政治のことなど何も知らなかったのだ。

もっと、もっと社会や政治のありかたや歴史を知らなければ自分で自分のある場所さえも見えない。

戦後、70年以上も経過して、今だにアメリカの力から抜け出せない日本。

果たして将来も自分の手で決められるのだろうか?

『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ、ついに懐かしい森田屋の森田宗吉( ピエール瀧 )と妻の照代( 平山紙 )の再登場でした。




二人とも元気そうで良かった。なんだか懐かしいですね。

宗吉は洋食店を東京で開業するために疎開先から出てきたのでした。森田屋が洋食店として復活か、森田屋の元気なみんながまたテレビで見られるかと思うと楽しくなりました。

ところで洋食ではかかせない野菜サラダですが、戦前までは日本人は生野菜は食べていませんでした。

終戦後直ぐ、東京にマッカーサーがやってきます。

アメリカ軍は肉はアメリカから取り寄せることが出来ましたが、新鮮な野菜を日本で手に入れることが出来なかったのです。

マッカーサー

「肉はあるが生野菜のサラダがない」

アメリカ本土と同じ食事がしたい。アメリカ人は生野菜が大好きなのです。

「サラダが食べたい」

「 サラダにする生で食べられる野菜を作れ‼︎ 」

と部下に命じます。

昭和21年(1946年) 連合国軍総司令部
GHQ、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは生野菜を作るよう指示します。

マッカーサーが米軍兵士に生野菜のサラダを食べさせるために日本人に栽培させたのがレタスだった。

栽培地が神奈川県海老名市だった。

日本の食材を使わなかったのは、日本の野菜の衛生事情にあります。当時の肥料はもっぱら家畜糞尿や人糞尿でした。

寄生虫がいると分かっている野菜を彼らが生で食べるわけがありません。

漬物にしたり煮炊きするのが基本の日本食に対し、生食文化は相容れないものがあったのでしょう。

GHQが持ち込んだものの一つが水耕栽培プラントです。

こちらは大津海軍航空隊基地_大津水耕農園(大津化学農園:滋賀県)や陸軍調布飛行場_調布水耕農園(調布科学農園:東京都)に作られたそうです。

日本で水耕栽培日本で農業生産技術として普及するまでには20年以上の歳月が必要でした。

GHQがつくった養液農場はトマトやレタス、セロリなどが栽培されていました。

こうして、アメリカ軍が食べていたサラダがだんだん日本中に広がって日本人もサラダ好きになっていったのです。

今では日本人には野菜サラダがなんだかかかせないようです。

朝はトーストとコーヒーと野菜サラダ。なんだか知らないうちに日本人って随分アメリカナイズされちゃってますね。



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