ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:とと姉ちゃん > 大橋鎭子

『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマもそろそろ残すところ数話となってさまいました。




『あさが来た』から『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマは女性実業家の物語が続きました。

女性が明るく元気でいるドラマっていいですね。

テレビの視聴者も毎日が楽しく過ごせます。

平塚らいてうの『青踏』の女性解放宣言の言葉

「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く。病人のような蒼白い顔の月である。私共は隠されてしまった我が太陽をいまや取戻さねばならぬ」

が思い出せられます。

ああ、『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマは楽しかったな!

なんて、まだ終わってなかったですね。

★『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマの主人公小橋常子は何を求めて生きたのか?

理想の家庭を築くこと、愛する人と一緒に毎日朝食を食べること……当時の小橋常子の夢というのは、それだけだったんです。

それって、人間としての根本が一番大切なんですよね。

『暮しの手帖』の雑誌の中で小橋常子モチーフの暮しの手帖社、社長大橋鎭子は次のように語っています。

大橋鎭子

『暮し』という日本語が好きなのです。美しいとおもいます。

いくつにもたたまれ、しわだらけになり、手あかにまみれた千円札、あれをじっとみていると、これをたたんだりのばしたりしてきた、大ぜいの人の指が、目にうかんできます。

たのしそうな笑い声や、身を切られるようなため息が、きこえてきます。うすぐらい灯の下で煮えている食べもののにおい、青空にひろがってゆく石けんのにおい、がにおってきます。

『暮し』という言葉には、そんなふうな、あたたかさ、せつなさがこめられています。

ああ、なんて素敵な一文なんでしょうか。

毎日、仕事や家事に追われて現代人は『暮し』への大切さが忘れられているような気がします。

平凡な毎日だからこそ、しあわせな『暮し』がそこにある。

1日、1日をいとおしみ、愛する人の日々の『暮し』を大切にしたいですね。





昭和23年に『美しい暮しの手帖』(現『暮しの手帖』)を創刊します。



まったくの無名の雑誌です。

宣伝もほとんどしていません。

誰も知らない雑誌が簡単には売れるはずがありませんでした。

売れない。

あっと言うまに在庫の山。

大橋鎭子さんや姉妹は、創刊号をリュックサックに詰めて、東海道線を一駅ずつ下車して雑誌を売りに行ったと言います。

駅から降りて町の書店を捜し、無理に頼み込んで置いてもらいます。

訪問する書店でも、そんな聞いたことのない雑誌を置きたくありませんから嫌な顔をされます。

泣きたくなるような毎日の連続。

さぞかしたいへんだっただろなと思います。

『暮しの手帖』の雑誌が売れていくのには、そうとうな時間が必要でした。

★花森安治の雑誌販売方法

『 他者に負けない有名な作家に執筆を依頼する』

「全く無名な雑誌でも、その雑誌に高名な作家が何人も書いていれば、読者は買って読もうと思ってくれる。」

「 創刊時から最も有名で、人々が読みたいと思うような著名な先生の名をあげ、原稿の執筆をお願いしてきなさい。」

誰でも思いつきそうなことなんですが、『言うは易し、行うは難し』です。

高名な先生たちは、あちこちから原稿を依頼されていて、手一杯ですから、
無名の、聞いたことのない暮しの手帖社などという小さな出版社からの原稿依頼など、受けてくれるはずもありません。

なんと言う、無茶な指示なんでしょうか。

何回足を運んでも玄関払いです。

大橋鎭子は何度も花森安治に状況を説明しますが、

花森安治は

「絶対書いてもらってこい。」

と断固として許さない。

ほんと花森安治、いったい何様なんだと怒りたくなります。

このあたりになると、どちらが社長で従業員なのかわかりません。

花森安治と大橋鎭子の関係はなんなのか?

身体で言うと花森安治が頭で手足が大橋鎭子なんでしょうか。

大橋鎭子は花森安治の言ったことは全て信じています。

花森安治の言ったことを実行するのが役割だと思っていたようです。

大橋鎭子はへこたれないし、絶対にあきらめませんでした。

何度も何度も作家たちの所へ足を運びます。

次第に、鎭子の熱意で、つぎつぎに先生たちは執筆してくれるようになったのです。

創刊号

川端康成、佐多稲子、土岐善麿、田宮虎彦、森田たま、小堀杏奴

第2号

ささきふさ、森三千代、小堀杏奴、石井桃子、大仏次郎、戸板康二

第3号

幸田文、壺井榮、高見順、坪田譲治、鏑木清方、北畠八穂、天野貞祐、柳田國男、花柳章太郎

毎号、毎号、著名人が名前を連ねています。

大橋鎭子がどうやって有名な作家の心を開いていったのか?

★川端康成とのエピソード

ノーベル賞作家、川端康成と大橋鎭子は新聞社時代からのお付き合いだったそうです。

彼女は粘り強く執筆依頼し、何度も断わられ、最後は涙を流しながらも原稿を書いてもらったそうです。

以来、川端先生も「大橋君、大橋君」と鎭子さんを可愛がるようになり、『暮しの手帖』の創刊号にも寄稿しています。

★志賀直哉とのエピソード

志賀直哉は『暮しの手帖』の大ファンでした。

『暮しの手帖』に掲載されたカレーを自分で作ったら美味しくできた。

それで「こんな役立つ本はない」と各方面に宣伝して回ったといいます。

大橋鎭子さんが志賀先生のご自宅にうかがったときにも、そのカレーを振る舞ってくれ、「これが志賀家の味になった」と喜ばれていたそうです。

時の名だたる著名人や流行作家の先生はだんだん『暮しの手帖』大橋鎭子のファンになっていったようです。

こうして、『暮しの手帖』は少しずつ、すごい執筆陣だ、いままでにない婦人誌だ、しゃれたセンスの雑誌だとか評判になっていきます。

こうして見てみると、花森安治も編集にかけては一流でしたが、大橋鎭子がいなけれざ花森安治と言う存在もなかったようです。

大橋鎭子こそが『暮しの手帖』の太陽でした。

誰でもあたたかく包みこみ、周りを暖かい光で包みこむ、そんな存在が大橋鎭子だったようです。

2013年3月23日、大橋鎭子は肺炎でその生涯を閉じました。

晩年、鎭子さんは

「私の人生も朝ドラになるわね。人が経験したことのない波乱万丈な人生だったもの」

と笑っていたそうです。

2013年3月23日、大橋鎭子は肺炎でその生涯を閉じました。



『暮らしの手帖社』は大橋鎭鎭子さんが社長で花森安治さんが編集長、鎭子さんの妹、晴子さんと芳子さん、後に晴子さんと結婚する経理担当 の横山啓一さんの五人がメンバーでした。






昭和30年代になると、20名を超える会社になってしまいました。

それでも大橋鎭子と姉妹、花森安治が作った会社はアットホームな会社でした。

『暮しの手帖社』には定年がなく、組合がなく、残業手当もなく、タイムカードもありません。

新しく社員となった人に大橋鎭子の末妹でデスク担当の大橋芳子 ( ドラマ小橋美子 ) は「明日から社員でしょ、そこの銭湯に行きなさい」と、タオルと石けんと入浴料をくれました。

まるで、家庭そのものです。

『暮らしの手帖社』では社内で社員が食事をいっしょに食べたりもしていました。

ドラマ『あなたの暮し』編集部で花山、小橋三姉妹、水田、庶務の岡緑が会社で食卓を囲む場面がありましたね。

『暮らしの手帖社』はドラマと同じで、大橋鎭子と姉妹、花森安治を囲んだ家族的な会社だったようです。

しかし、社員旅行は豪華でした。

社員旅行は「お金がかかってしょうがない」と言うほど贅沢でした。

宿泊は超一流ホテルで食事は鎭子さんお気に入りの名シェフのフリコースです。

花森安治

「一流を知らなければいい記事は書けない」

と言う編集長の方針通り、社員旅行にはお金をかけたそうです。

ただ、雑誌の編集は常に『庶民派』であれと言う方針でした。

「作り手も読者も庶民同士、思いやりながら生きていこうじゃないか」と言う気持ちです。

上から目線の原稿を書くと編集長の花森安治に怒鳴られたそうです。

昭和29年( 1954年 ) から始まった『商品テスト』は東麻布の暮らしの手帖研究室て行われピーク時にはスタッフが45人いたそうです。

エアコンのテストをする場合は1つのエアコンを3台購入しました。いろんなメーカーのエアコンを買い揃えるわけですから1つの企画に1000万円程の経費が必要だったようです。

ただ、実験は徹底的に行われ、正確な数値を掲載していますからメーカーからのクレームはほとんとなかったようです。

『暮らしの手帖社』のような家庭的な会社は昭和の高度成長期にはたくさんあったような気がします。

社員みんなで食卓を囲んで昼御飯を食べたり、みんなで社員旅行に行ったり、家庭的な会社が多かったですね。

いつの間にか昼は外食で、社員旅行はなくなり、建物だけが近代化して仕事はパソコンの前で黙々と仕事をするようになりました。

これも時代の変化なのでしょうか。

みんなでワイワイガヤガヤと楽しく仕事をしていた時代が懐かしくなってきました。




『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公小橋常子( 高畑充希 )と花山伊佐次 ( 唐沢寿明 ) は職場で大勢の仲間に囲まれて商品試験に没頭しています。




ドラマとは言え、こんな職場だと毎日仕事するのが楽しいでしょうね。

主人公常子は星野と再会し、星野と子どもたちに囲まれて幸せそうです。

ついつい「 常子さん星野さんと結婚しちゃいなよ」と心の中で思ってしまいます。

ところで小橋常子のモデルになった大橋鎭子さんは一生結婚しなかったみたいです。

花山伊佐次のモデル、花森安治と大橋鎭子さんの創業当時のこんな話があります。

花森安治は大橋鎭子と一緒に会社を創業する時に鎭子に結婚願望があるかどうかを尋ねたのだそうです。

大橋鎭子は

「わたしは生涯、仕事を続け結婚はしない」

と返答されたそうです。

花森安治はもちろん結婚もしてましたし、随分一方的な質問です。
 
当時は女性は「結婚すれば家庭に入る」のが常識の社会。

花森安治は将来大橋鎭子が結婚して仕事は辞められては一緒に仕事など出来ないと考えました。
 
鎭子が「結婚する」と答えれ花森安治は一緒に創業することはしなかったのです。

花森安治は徹底的な人物、ライフワークとするべき仕事上のパートナーとして鎮子の能力を買いつつも、自分の同志として、同じように徹底した仕事をする覚悟がなければ一緒に仕事などしなかった。

花森安

「途中で止められては困る」

彼女の能力を評価すればこその質問でした。
 
大橋鎮子は生涯独身を貫きます。

鎭子も花森安治と同じように物事に徹底的にこだわるポリシーを持っていた。

花森安治に共感し、仕事をすることを選び姉妹と一緒に生活をすることを選択したのです。

小学校5年の時に父を亡くし、11歳で
喪主を務めてから、自分が家族を支えるためお金持ちになることを目指した鎮子にとって雑誌の編集は生きる手段であり、生きる目的です。

そこには喜びがあり、彼女にとっては家庭を持つ以上の魅力があった。

「暮らしの手帖」は美しく賢い女性をイメージさせる穏やかな印象の雑誌ですが、これを作ってきた人は、強い意志と情熱も持ち主でした。

大橋鎭子の人生は『とと姉ちゃん』の名前のごとく、自分の幸せよりは姉たちや会社のために捧げた人生でした。

と書いてきましたが、わたしとしてはドラマの常子さんには星野さんと結婚して欲しい。

男性も女性も仕事だけが人生ではないでしょう。

たしかに妹たちや会社のことを考えるのも良いでしょう、でもやっぱり家族を持って幸せな暮らしをすることの方がよいのではないでしょうか。

NHKが『とと姉ちゃん』は『暮らしの手帖』をモチーフとした架空のドラマだと主張してるのですから、ここは小橋常子さんと星野さんを結婚させてハッピーエンドのドラマ展開にしたらいかがなんでしょうか。





『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマ主人公小橋常子と花山伊佐次は『わたしの暮らし』で商品テストを開始し販売も順調に伸びて経営も安定してきたようです。




昭和33年社員も20名になり、だんだん会社らしくなってくると会社が賑やかになり、なんだか楽しそうで羨ましくなってきます。

ところで、『わたしの暮らし』のモデル『暮らしの手帖』は実際はどうだったか気になりませんか?





簡単な『暮らしの手帖』のダイジェスト版

『暮らしの手帖』の歴史

1946(昭和21)年 3月

大橋鎭子を社長に衣裳研究所を東京都中央区銀座西8丁目、日吉ビル3階に設立

6月 『スタイルブック』を衣裳研究所より創刊

1948(昭和23)年 9月

『美しい暮しの手帖』創刊。

1951(昭和26)年  1月

株式会社に組織変更。衣裳研究所から、暮しの手帖社に社名を変更

1953(昭和28)年 11月

東京都港区東麻布3丁目に「暮しの手帖研究室」を創設

11月  22号から雑誌名を『暮しの手帖』に変更

1954(昭和29)年  11月

初の商品テスト「日用品のテスト報告その1 ソックス」を26号に掲載

1956(昭和31)年 2月

「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」に対し、第4回菊池寛賞を受賞

1969(昭和44)年 8月

前年に評判を得た96号を単行本とし、『戦争中の暮しの記録』を刊行

1971(昭和46)年 11月

『からだの読本』が第25回毎日出版文化賞を受賞

1972(昭和47)年 3月

花森安治著『一銭五厘の旗』が第23回読売文学賞を受賞

8月「日本の消費者、ことに抑圧された主婦たちの利益と権利と幸福に説得力のある支援を行った」ことで、花森安治がラモン・マグサイサイ賞を受賞

1974(昭和49)年 1月

銀座日吉ビルより東京都港区六本木3丁目に本社移転

1978 ( 昭和53 ) 年1月14日 花森安治死去

1994(平成6)年 2月

『すてきなあなたに』による、長年にわたる文化の向上、発展に貢献したことで、大橋鎭子が第10回東京都文化賞を受賞

1995(平成7)年 11月

東京都港区東麻布3丁目に本社移転

2003(平成15)年 12月

東京都新宿区北新宿1丁目に社屋を移転

2013 ( 平成25 ) 年3月23日 大橋鎭子死去





『とと姉ちゃん』NHK連続ドラマはNHKサイトではあくまでも『暮らしの手帖』はモチーフであり、架空のドラマであると強調しています。

ただテレビを観ている視聴者は『暮らしの手帖』の物語だと観ています。

NHKが『暮らしの手帖』はモチーフであり、ドラマとは全く違うものですと説明しょうとドラマを『暮らしの手帖』の物語だと観てしまうのです。

脚本で実際の『暮らしの手帖』になかった事実をドラマにするのはいいのですが、視聴者の方でドラマと事実が混同してしまい、ドラマが実際にあったことだと視聴者は誤認してしまっているのではないかと思い心配します。



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