ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:あさが来た > 成瀬仁蔵

「あさが来た」NHK連続ドラマであさは成澤泉の思想や女子大学の構想について感動します。







成澤泉モデルの成瀬仁蔵がどれほ秀でていたのか、それは実際創立した日本女子大学をみれば一目瞭然です。



成瀬仁蔵 は「家政学」を日本に於いて女性の身につけなればならない学問であるとして家政学部を設立します。



自分はドラマのように、ヨレヨレの身なりなのですが、ファッションの重要性を訴え「趣味教育」の必要性を語ります。



成瀬仁蔵の身なりとその思想のあまりのギャップに驚くしかありません。ほんとに「びっくりぽん」なのです。










成瀬仁蔵は、自らの天職は社会を改良することであると考えていました。そのためには、まずその土台となる家庭の改良が不可欠であるとしました。



1901(明治34)年、日本女子大学校開校に際し家政学部を設置しました。



日本では学問として認められていなかった「家政学」を単なる女性の家働ではなく、科学に基づく一つの学問として確立しようとしたのです。



それはカリキュラムにも反映され、生理学、衛生学、家庭応用理化、経済学等が必修とされました。



現在の大学の家政学科と、なんら変わないカリキュラムを既に立ち上げているのです。









さらに、成瀬は「趣味教育」の必要について言及しています。



「 衣生活において経済観念は必要であるが、制服を定めたからといって質素の習慣が身につくものではなく、むしろ選択の自由を圧迫された反動で、社会に出てから華美の風習に染まるか、逆に粗野に陥ることになる 」



「 状況に応じて最もふさわしい服装を選択することも女性に必要な徳性である 」



成瀬は述べています。



全く、現代社会の女性のファッションに関する考えと一緒で、男性の成瀬仁蔵に、女性のあるべき姿が見事に描くことが出来たのか、不思議としかいいようがありません。




成瀬仁蔵なくして、現代の日本の女性教育はなかった。



 
成瀬仁蔵が「 日本の女性教育の先駆者 」であると言われる理由が良くわかります。





「あさが来た」NHK連続ドラマに成澤泉、 ( 俳優 瀬戸 康史 ) モデルは成瀬仁蔵が登場しました。







ふやけた若布(わかめ)の羽織の男、成澤泉は閻魔紙の印象が強過ぎて、怪しい男、奇怪な男としか、ほんと見えなかったですね。









成澤泉モデルの成瀬仁蔵とはどんな人物だったんでしょうか?



「あさが来た」ドラマの以前のシーンで成澤泉が妻に米国留学の話しをしていた場面がありました。




成瀬仁蔵の人生を決定づけたのが、この米国留学でした。



米国留学で多くのことを見たり聞いたり、経験し米国留学中の日記にこう書いています。



「吾目的ハ吾天職ヲ終ルニアリ。吾天職ハ婦人ヲ 高め徳ニ進ませ力と智識錬達を豫へアイデアルホーム ヲ造らせ人情を敦シ、国ヲ富し、家ヲ富し、人ヲ幸ニ し、病より貧より救ヒ、永遠の生命を得させ、罪を亡 ボシ、理想的社会ヲ造ルニアリ。」 



成瀬仁蔵の人生はこの「天職」を全うすることに向けられていました。


成瀬仁蔵には3つの顔があります。


( 1 ) 宗教家


大阪の浪速協会で受洗後、牧師となり、奈良や新潟など熱心な伝道活動を行います。


( 2 ) 教育者


大阪では梅花女子校の主任教師を務め、新潟に赴任後は新潟女学校を設立するなど女子の中等教育に従事します。


( 3 ) 社会活動家


思想団体である婦一協会を設立するなど、世界の平和を探求する活動を展開します。


これらの顔は全て彼の「天職」の目的に繋がっています。



「あさが来た」NHK連続ドラマに成澤泉がヨレヨレの服であらわれたのも、彼のキリスト教の教え、清貧によるところが大きいのです。


清貧とは富は人類全体の為にあるとの認識に立ち、必要以上の物欲が罪悪の機縁となり、人格向上の最大の邪魔であるして、これを捨てて生きること。


成澤にとって「服」は虚飾ではなく、実質的であるべきものでした。それは肉体を保護し、「食」と共に健やかな生活に資するものであり、ひいては健全な社会を実現するための重要な要素ととらえていたといえます。



「あさが来た」NHK連続ドラマのふやけた若布(わかめ)の羽織の男、成澤泉が凄く素敵な人物に見えて来るから不思議です。



人って見かけによらないものですね。成瀬仁蔵は決して自分のための考えや行動ではないのです、全ては社会を良くし、女性を高めるためなのです。



広岡浅子は自分のことを全く考えず、他人のことのみ考える人間がいたことに感動します。



ふやけた若布(わかめ)の羽織の男、成澤泉、良く見るとイケメンです。



あさと成澤泉、「あさが来た」NHK連続ドラマ来週からどんな展開になるか楽しみですね。




「あさが来た」NHK連続ドラマ。ある日、銀行に顔を出したあさは、そのやっかいな雰囲気の男 ( 閻魔紙の男 )に見つかってしまいます。あさと成澤泉、歴史上のモデルは成瀬仁蔵の出会いです。どんな話しになるのでしょうか?







史実によれば広岡浅子と成瀬仁蔵の初めての出会いはそんなにうまくいったふうではありません。


「第一回の会合においては、夫人は只黙々と(成瀬)先生の説を傾聴するだけで、むしろ賛意を表されなかったのである。」

(『日本女子大学校四拾年史』)


とされています。



広岡浅子は


「 私が女子教育についていささか考えを持っていることを知りまして、種々の人が尋ねて来まして、何学校を設立するとか、何女学校を計画したし、とか申しまして、私の賛成と尽力とを求めましたことは随分たびたびありました。


成瀬先生はある人の紹介で私の宅においでになりまして、学校を設立したし賛助せよと言われましたが、当時、私は依然として之を助ける意はございませんでした。」


(「余と本校との関係を述べて生徒諸子に告ぐ」『日本女子大学校学報』)



ほんとに、学校の設立にはお金がかかりますし、そんなに簡単に受けられないと言う広岡浅子の気持ち良く理解出来ます。



ところが、広岡浅子が成瀬仁蔵の著書「女子教育」を読んで感動してしまいます。








「女子教育」   成瀬仁蔵


★女子を「人」として教育する


今までの女性は器物のような扱いを受けていたが、まずは男子と同等の人格を認め、これを教育すべし。


★女子を「婦人」として教育する


日本には「良妻賢母」という言葉があるが、妻にも母にも、女性であればなるべきものである。良い妻、賢い母となるには、やはり教育が必要なのである。


★女子を「国民」として教育する


自らのための教育ではなく、社会に貢献する女性となるべきであり、それが日本の国力を増加させる根本である。その実践的な教育を受ける場が女子には必要である。



読んだ後に、広岡浅子は涙だが出てきて止まらなくなります。


広岡浅子の人生の中で、女性として差別されてきた気持ちが解放されたのでしょう。


成瀬仁蔵の著書によって進むべき道が開かれた瞬間です。



聖書の言葉

「誰か賢き女を見出すことを得ん、その価は真珠よりも貴し」



以後、広岡浅子は女性教育に自分の人生の全てを投げ出します。


明治の女傑、こうと思ったらとことん遣り抜く。爽快な生き方にただただ感動です。





「あさが来た」NHK連続ドラマに先週登場しました成澤泉役は映画・テレビ・舞台で活躍中の瀬戸康史さんでした。







瀬戸さんはNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、松下村塾の"四天王"と称された吉田稔麿役を熱演。



成瀬泉モデルの成瀬仁蔵は同志社大学の創設者新島襄とも友好があったと言われています。



「あさが来た」NHK連続ドラマで大河ドラマ「花燃ゆ」「八重の桜」が歴史的にもキャスト的にも繋がっています。



もしかしたら、NHKは波瑠と井上真央と綾瀬はるか3女優のビックサプライズを計画しているかも。



「 波瑠、井上真央、綾瀬はるか豪華3女優の共演期待 」



私の個人的希望もあるのですが、やはり「ならぬものはならぬ。」ですかね。(笑)



「あさが来た」成瀬泉さんは奥様と食事をしていました。これから行く、アメリカについて奥様に語っていました。



成瀬さんのアメリカ留学目的は


( 1 ) 信仰・宗教の追求


アメリカ キリスト教社会の実際を見聞して宗教上の問題を検討し 自己の立場を掴むこと


( 2 ) 教育の追求


女子高等教育を視察して女子高等 教育を通して社会改良を行うための指針を得ること


( 3 )英語の習得


以上の3点だったようです。彼のアメリカ留学が今後、日本の女性教育に大きく影響していきます。







大同生命広岡浅子を知るより

★日本女子大学校の創設者

成瀬  仁蔵

1858(安政5)年
 〜1919(大正8)年

浅子の女子教育事業における、最大にして最良のパートナー、それが成瀬仁蔵です。山口県出身の成瀬は、米国留学から帰国後、大阪の梅花女学校(現在の梅花学園)の校長を務めながら女子高等教育機関の設立を目指し、女子大学校の設立運動を開始します。その時、奈良の実業家・土倉庄三郎の薦めで浅子のもとを訪問したことが、二人の出会いのきっかけです。


成瀬の構想に強く共感した浅子の熱心な賛同と協力を得て女子大学校構想は大きく前進、多くの困難を乗り越え、1901(明治34)年、ついに日本初の女子高等教育機関・日本女子大学校(現・日本女子大学)が設立されるのです。

現在、日本女子大学には、浅子が成瀬に送った20点の書簡があります。女子大学校設立にかける浅子の情熱や、学校設立以外の事業に関する小まめな報告・相談など、浅子と成瀬の信頼関係がよくわかる貴重な資料です。



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