ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:あさが来た > 波瑠

「あさが来た」NHK連続ドラマを毎日のよう観ています。あさの主人公役の女優、波瑠さん目がくりっとして大きくて可愛いい。明るくて美しい波瑠さんの顔をテレビで見るだけで元気になります。







あさのモデル広岡浅子さんとあさ役の波瑠さん、顔もスタイルもかなり違います。



あさ役の波瑠さんの顔って、現代風の美人顔です。当時も波瑠さんの顔は美人と言われたのでしょうか。明治時代はどんな顔が美人って言われてたんでしょうか少し気になりました。



時代とともに女性の美の基準も変化すると言われてますから、明治の美人の基準はもしかしたら目の細長い女性が美人と言われたのかも知れません。







明治時代にも美人コンテストが開催されています。



明治40(1907)年にアメリカの新聞社であるシカゴ・トリビューン紙が「ミスワールドコンテスト」を企画したそうで、アメリカ、イギリス、カナダ、スエーデン、スペイン、日本の計六カ国から代表を募って、世界一の美女を決定するといのミス・ユニバースコンテストがそれです。


日本のミスコンテストの応募記事


『新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。…遂に断然応諾の書を作り、敢て日本美人写真募集の大計画を発表せり。』(時事新報社による趣意)


なんだか「日本美人写真募集の大計画」凄いキャッチフレーズです。


これが日本初の全国ミスコンであり、事実上のミス日本を決める最初の大会でした。



総額3000円相当( 約2100万円 )の商品が贈答されるということもあって、7,000名もの応募があったそうです。









ミスコンテスト第1位に選ばれたのは末広ヒロ子さん。なんと16歳学習院女学部3年に在籍中の女性でした。







賞品はダイヤモンド。


末広ヒロ子さんの美貌は審査員の絶賛のもと一次・二次審査を通過、13人ほぼ全員の絶賛を得て堂々一位に推されたそうです。


ほんと可愛い顔です。目がくりっとして、あさ役の波瑠さんと似たような顔の美人です。


明治時代の美人の基準も、現代の美人とそんなに差はなかったようです。



このミスコンテストは写真だけの審査で、当の本人は応募したことも、第1位になったことも、主催者より連絡があるまでは全く知りませんでした。



と言うのも本人に無断で義理の兄が勝手に応募したみたいです。



この応募が末広ヒロ子さんにとって、とんでもない災難になってしまいます。



ミスコンテストで第1位の報道が新聞に掲載され、学校に知られてしまうと



「 女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議中にて、 …  なおヒロ子他これに応募したる同校生徒をもそれぞれ取り調べの上、処分するはずなりと。」
「大坂毎日新聞」(明治41年3月22日)の記事より



女性は虚栄心の盛んなものとは、全く失礼な女性差別の学校発言です。また、本人に全くの責任はなく、学校の一方的な主張ですが、彼女はついに学習院を退学となってしまいます。



ほんと、学校も一言くらい本人の言い分や、義理の兄の弁明くらい聞いたらと言いたくなります。



今も昔も、ボタンの掛け違いはどこにでもあるもの、ボタンの掛け違いが人の人生を大きく変えることもあるようです。





明治の美人末広ヒロ子


「日本一の美女」の数奇な運命 ~末広ヒロ子のシンデレラストーリー






「あさが来た」NHK連続ドラマの主人公あさは女性実業家として、世の中に名前が知られるようになりました。



その象徴とも言えるのが、あさの「洋装」です。







洋装は一般女性にはまだまだ馴染みがなく、一部の「上流階級の証」でもありました。




「あさが来た」ドラマの中のあさ役、女優波瑠さんドレス姿が素敵です。



背が高いせいか、黒のドレスをまとった波瑠さん、見事にお似合いです。








あさのモデルの広岡浅子の洋装姿は、当時の雑誌記事にも




「公の席に臨む場合には、洋服の押出し誠に凛々しいもの……」



「本邦実業界の女傑(4)(広岡浅子)」(「実業之日本」第7巻4号1904年)

と記されています。



詩人で新聞コラムニストの魁でもあった薄田泣菫はコラムの中で



浅子女子(原文ママ)は洋服が好きだ。生れ落ちる時洋服を着ていなかったのが残念に思われる程洋服が好きだ。


「丸髷嫌い」薄田泣菫(『茶話』1917年)









当時は後腰を膨らませる「バッスル・スタイル」のドレスが流行していました。「鹿鳴館の華」と呼ばれたドレスです。


鹿鳴館の貴婦人



バッスル(バスルとも)と言うのはファンデーションの一部です。19世紀半ばから20世紀初めに流行しました。ヒップラインを美しく見せるための腰当です。







提灯を縦半分に切ったような形。材質は、初めの頃はクジラの骨を使用していたが、後にはハリガネや木用いられていました。



バッスルスタイルの洋装、本当に優雅に見えます。



また、浅子が直用しているドレスは立ち襟で長袖のものが多い。これは「ローブ・モンタンテ」と呼ばれる。胸が大きく開いたものを「ローブ・デコルテ」という。浅子の好みは前者で、女性が肌を露出することに対して彼女は批判的でした。








ローブモンタントとはアフタヌーンドレスのことで、襟ぐりの開いていないデザインのドレス。


女性の昼の正礼装にあたり、男性用のモーニングコートや昼からのイブニングコートに合わせます。



モンタントという言葉は、フランス語で「立った、上った」という意味の言葉で、「立襟」を指します。首から肩、背をすっぽりと覆うデザインで、胸・肩・背などが大きく開いたローブデコルテとは正反対のデザインとなっています。



袖は長くて夏でも7分袖程度の、裾が長く、後ろに引いたロングドレスが多い。


外国ではキリスト教の結婚式に着用されるドレスで、より伝統的で格式高いことを意味します。


女優の波瑠も広岡浅子もドレス姿が綺麗です。


女性の優雅なドレス姿は美しいですね。



「あさが来た」NHK連続ドラマの原点は1人の女性が人名辞典を見たことから「あさが来た」の原作「土佐堀川 広岡浅子の生涯 」が作られました。







明治時代にあさのモデル広岡浅子と同じく女性で活躍し、銃を使用したことがある人物で思い出すのはNHK大河ドラマ「八重の桜」の新島八重です。


新島八重について「大日本女性人名辞典」ではなんて記載されているか調べてみました。


高群逸枝が男性中心の歴史を問い直したいと書いた、昭和11(1936)年、日本で初めての女性の人名辞典「大日本女性人名辞書」では新島八重は次のように書かれています。


「大日本女性人名辞書」


★新島八重子 


敎育家。新島襄の妻。弘化2年11月3日會津藩砲術師範山本權八の長女に生れた。


覺馬(後の京都府會議長)の妹。若松籠城には男子に伍して奮戰した。


明治4年京都に移り一時京都府立第一高女の前身女紅場に敎鞭をとつた。


同8年兄の覺馬は新島襄と知つてその同志社設立を扶け、彼女は9年1月3日これと婚した。


爾來夫ともに基督教の傳道と子女の敎導に半生をつくし、23年夫と死別後は、茶の湯、生花などを敎へて餘生を送り、昭和7年6月14日88歳で歿した。


こちらはさらに簡潔ながら、新島八重の生涯がまとめられています。


「大日本女性人名辞典」では不思議なことに、新島八重がスペンサー銃を手に戦ったことは触れられていないのです。


でも、やはり明治時代に活躍した女性と言えばこの2人ですよね。


2人とも人生の後半は女性の教育を推進したことも住んだ場所も大阪と京都で非常に近いですね。2人が出会った可能性は五代友厚よりも高かいのではないでしょうか。


NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公は新島八重、演じた女優は綾瀬はるかさん。もしかして、「あさが来た」の後半に綾瀬はるかさんの登場があるかも知れません。
 


波瑠と綾瀬はるかの共演に期待大。



「ならぬことはならぬのです」なんてNHKさん言わないで、綾瀬はるかさんの登場を期待してますよ。




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「あさが来た」NHK連続ドラマ、以前の山王寺屋の家族を見て笑ったり泣いたり怒ったり、はつが可哀相だと思ったことが、なんだか随分昔のように思えます。





はつ( 宮崎葵 )一家はご主人の眉山惣兵衛 ( 柄本佑 )が、天秤棒一本で物売りを始めたり、父 ( 辰巳琢郎 ) 母 ( 萬田久子 )家族みんなで農家したり、楽しそうでした。
ドラマでは既に、はつ は家族そろって和歌山へ旅立ちました。

はつの暮らしをみてると幸せはお金があるとかないとかではなく家族で仲良く暮らせるのが一番幸せなんだとつくづく考えさせられました。


なんだかもう一度見たくなります。


和歌山では山王寺屋ご一行は仲良く暮らしてるのでしょうか。




宮崎葵が演じたはつのモデルは史実では春と言います。


★春      1846(弘化三)年〜1872(明治五)年


浅子の異母姉。出水家当主・三井高益の庶子(婚外子)として生まれ、後に三井家に入家します。


1865(慶応元)年、浅子とともに大坂に下り、大坂の名門両替商である天王寺屋五兵衛家に嫁ぎました。


天王寺屋の屋敷があったのは、船場の今橋二丁目付近。


浅子が住ん浅子が住んだ江戸堀の加島屋新宅からは徒歩で一五分ほどの距離でした。


大坂を代表する老舗両替商の天王寺屋でしたが、明治維新後の銀目廃止令や廃藩置県で破綻、間もなく廃業したと言われています。


春も失意のなか1872(明治5)年に死去、27歳の若さでした。


史実においての三井春は、明治5年に25歳で早逝したとされていますが、視聴者からの多くの要望もあり、NHKでは脚本を変更して、長生きさせる方向になったそうです。





「あさが来た」NHK連続ドラマを観ていると、なんとお師匠さんのお店であさと新次郎が仲良く座ってカレーライスを食べてるではないか。








明治の時代にカレーはあったの?







★明治のカレーライス


日本に初めて「カレー」という言葉を紹介したのは福沢諭吉「増訂華英通語」(1860年、万延元年 )であった。そこに「Curry コルリ」と言う言葉があります。


やはり、かの福沢諭吉大生が最初に日本にカレーを紹介している。







1874年(明治5年)発刊の「西洋料理指南」(敬堂学主人著)には、カレーのレシピがを書かれています。


「葱一茎生姜半箇蒜少許ヲ細末ニシテ牛酪大一匙ヲ以テ煎リ水一合五タヲ加へ鶏海老、鯛、蠣、赤蛙等ノモノヲ入能ク煮後「カレー」ノ粉一匙ヲ入煮ル1西洋一字間巳ニ塩ニ熟シタルトキヘ又小麦粉大匙二ッ水ニテ解キテは入ルベシ」(『西洋料理指南』)

レシピには、「ネギ、しょうが、ニンニクのみじん切りをバターで炒めて水を加え、エビ、カキ、鶏、カエルなどを入れて煮、カレー粉を加えたら、さらに一時間煮て塩で味を整え、水溶き小麦粉を入れる」とある。

なんと最初のカレーではタマネギやニンジン、ジャガイモを使うのではなく、ネギとしょうが最後にはカエルと書いてある。


どんなカレーだったんだろうか。これこそ「びっくりぽん」である。







明治17(西暦1884)年の12月27日。明治天皇はお昼ご飯にカレーを食べている。



デザートにミルフィーユというフランス料理のコースの食事だが、その中に鴨肉のカレーがあった。


場所は延遼館。日本初の西洋石造風建築物にして、鹿鳴館以前の社交の場。浜離宮内にあって、多くの国賓を迎えた。


「御陪食」、つまり一緒に食事をしたその相手も分かっている。伊藤宮内卿。あの伊藤博文である。伊藤が初代総理となるのが、1年後。内閣制度さえなかった時代、伊藤博文と明治天皇が、一緒にカレーを食べていたということなのである。


と言うように明治時代にカレーライスを食べたと言う記録はありますが、あさと新次郎がカレーライスを食べたとしても、相当高価なお値段だったんだろうと思われる。


それにしても、お師匠さんのレストラン、ビールを出したりカレーライスを出したりと、いったいどんだけ高級なレストランだったのだろうか。

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