ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

カテゴリ:あさが来た > 広岡浅子

『あさが来た』NHK連続ドラマ、東柳啓介( 工藤阿須加 )が千代( 小芝風花 )の白岡家の座敷で向かいあっていた時、主人公のあさと広澤泉の口論が始まりました。



広澤泉 ( 瀬戸康史 )は喜んだり、嘆き悲しんだり、落ち込んだりと喜怒哀楽の激しい人ですね。



ドラマの成澤泉は史実のモデル成瀬仁蔵とは随分違うようです。






あさと広澤泉の二人の目指していた女子大学寄付金募集活動はなかなか思うようにはかどっいません。



あんなに政財界の重鎮にも賛同してもらっていたのに何故なんでしょうか?



★女子大学設立の苦難



女子大学設立寄付金募集がはかどらなかったのには3つの理由がありました。


① 経済状況の悪化


1895年(明治28年)の日清講和条約により、日清戦争に勝利した日本は国家歳入予算の3・3倍もの賠償金を獲得、日本経済は鉄道や銀行、紡績を中心に大きな発展を遂げ、1897年(明治30年)10月には金本位制に移行して資本主義の基礎を築くに至りました。


しかし相次ぐ企業の勃興と物価の高騰による民間資金需要の増大は金利の高騰をもたらし、1897年下期ごろから景気は急激に反動、翌年に「明治31年恐慌」と呼ばれる経済不況を引き起こす不景気となっていました。


特に打撃を受けたのが大阪で、中小企業の倒産や銀行の支払い停止が相次いだのです。


寄付を約束していた賛同者も、多くは寄付金を出すことができず、計画の第2段階であった寄付金募集になかなか着手できない状態となっていました。


『日本女子大学校創立事務所日誌』

明治30年10月3日


『 此度日本女子大学校資本金募集之儀経済界不振の為暫時相見合せ居り次第…… 』


② ネガティヴな反応


政財界の重鎮が名を連ねた大規模な発起人組織を立ち上げるに至った。


新聞でも盛んに取り上げられたため、結果として、内容よりもむしろその派手で大掛かりな側面ばかりが注目され、特に教育者や学者の中から、やっかみにも似た中傷や批判が多く寄せられた。


③ 政局の不安定


1898年(明治31)という年は第2次松方内閣、第3次伊藤内閣、第1次大隈内閣、第2次山県内閣と、1年で4人が総理大臣を務めるという目まぐるしさで政局は混乱した。


政治家は政党の結成や遊説で多忙を極め、女子大学校設立は二の次となってしまっていました。






成瀬は苦境に陥っていました。



成瀬は次のように語っています。



『 時勢の悪しきため追々遷延し困し、天下に対し広岡に対し土倉に対し発起人に対し学生に対し友人に対し万人に対し気の毒千万……小生の責任のみ重し 』



1897(明治3年)年から翌年にかけての不況は、大阪の銀行や綿産業に大きな打撃を与えたため、浅子の事業にも深刻な影響を与えていました。



広岡浅子は成瀬に対して書簡を書いています。



『 ご承知の通り、痩せ馬に荷の過ぎたる事業をしておりますため、他を顧みる時間がなく不本意でございますが、かねてお断り申し上げておいたように、運動に身を捧げる訳には至らず、どうぞ悪しからずお許し下さい



寄付金募集の件、大阪人は徳義がないため万策尽きたと考えますが……



今日の実業家の多くは、自己の利益のために徳義を失った人ばかりです。』




広岡浅子も女子大学寄付金募集活動に集中出来ないことを謝っています。



また、大阪における寄付金募集活動はうまく集まっていないことを述べています。



史実では広岡浅子も大阪での女子大学設立の寄付金募集活動さえ出来ないほど、浅子も自分の事業がたいへんだったみたいです。



『あさが来た』NHK連続ドラマ主人公あさと広澤泉の女子大学設立は、史実ではドラマ以上の困難があったようです。



そんな中でもあさは計画を諦めません。



『 何でも初めから無理と思ったら、結果もそのようになります。



無理でも目的を立てて、どうしたら完遂できるか、焦点を絞っていくことが大切です 』



まさに明治の女傑、広岡浅子の良いところは計画の達成のために焦点を絞って壁を一つ一つ乗り越えて行くところにあります。



今回の困難も、実家の三井家より目白の土地を無料で譲り受けることで乗り切るようになるのです。




『あさが来た』NHK連続ドラマあさの座右の銘に『九転び十起き』があります。主人公あさの言動は我々を元気づけてくれます。









最近の世の中では人生の『勝ち組』とか『負け組』とか言われたりしますが、人生には『勝ち組』も『負け組』もありません。



自分の人生は自分の人生、他人の評価では決まりません。



あさの姉はつの人生を見方では『負け組』とも見えますが、決して『負け組』なんかでない。



自分の人生は自分で評価すればいいんです。



人生は負けたら勝てばいいんです、あきらめないで




★『あさが来た』あさ ( 広岡浅子 ) の元気の出る言葉



広岡浅子



『 何でも初めから無理と思ったら、結果もそのようになります。



無理でも目的を立てて、どうしたら完遂できるか、焦点を絞っていくことが大切です 』




『あさが来た』ドラマより







新次郎



『 負けたことあれへん人生なんか、面白いことあれへん。



勝ってばかりいてたら人の心なんてわからへんようになります。



神さんがくれはった試練なんです。七転び八起きいいますやろ 』



あさ



『 お母ちゃんな、お父ちゃんが言わはったとおり、七転び八起き、いや、九つ転び十起きや思て、負けしまへんで!』



新次郎



 『 まだそない転ぶつもりなんかいな!』



広岡 浅子



『  負けんときや


あのな、勝とうとしたらあかんのどす。


大阪は勝たへんのが華。相手を勝たしてなんぼが商売どす。


けどな、負けへんのどす。


絶対自分に負けんと立っとるのどす 』



広岡浅子


『 どうせ死ぬのなら、ひと戦してからや 』



どうですか、ただいま落ち込んでいるかた。



自分は人生の負け犬やと思っているかた、少しは元気が出ましたか?



まだ、落ち込むのは早い‼︎



やることをやってみて下さい。

『あさが来た』NHK連続ドラマも後半になってきました。主人公あさモデルの広岡浅子も女性教育のために人生の残りを生きていきます。



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あさの幼少時代に『女は学問は必要ない』とか言われ続けてきた過去から、多くの女性に学問受けさせたいという思いからでしょうか。

明治時代も徐々に女性の権利を認めようとする動きが社会に出て来ます。

あさのの好きな『本』の世界から少しづつ女性の考え方を変革しようとした動きが出てきたのです。




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本格的な女性雑誌の始まり、『女学雑誌』創刊号が明治18年(1885年7月20日)に発行されます。


巌本善治による「発行の主旨」


「欧米の女性の持っている権利と日本の女性の女徳を合わせて完全な模範を創ることをこの雑誌から呼びかけ、日本の女性が女権と女徳を合わせ持ち、幸せだと言える存在にすることを応援するのが、第一の希望である。」


★女性の経済的自立


 その雑誌で婦女改良や新しい家庭を作るに際して、女性の自立が大切であり、そのため「経済的自立」が必要だという意見がとりあげられました。



 明治19年(1886年)


「日本の女性はなぜこれほど軽んじられるのか、それは、一家を支える夫が亡くなったりすれば、路頭に迷うか、親戚のやっかい者になるかしかない、自分で食べていけるだけの技芸が無いからだ。


今の日本の人口は3千7百万人程で、男女半分とすると、日本のために働いている者(男)は1千9百万人ほどで、その1人1人が背中にやっかい者(女)を背負っている。」と嘆き、女性も独立できるような技術を持つことをすすめています。


 明治20年(1887年)


「人の権力の裏づけになっていくのは、金力(経済力)である。女性の地位が上がらないのは、財産としての経済力を持っていないからで、これを打破するには、まず女性(妻)が経済力を持つことが大事である。


第1に女性自身に財産を得る力を持つために職業を持つ事。


第2に女性が財産を持つことができる法律をつくる事。



そして、女性が自身で主張できるような、文筆力や訴える場所をつくるべき。」


女性雑誌地工場は多くの明治時代の女学生たちに読まれるよになり女性の地位を向上しようとする社会の動きとなっていくのです。



あさが来た』あさのモデル広岡浅子は1910年(明治43年)に乳癌で入院しています。



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ナイフで刺されても復活、重症の乳癌も克服 朝ドラヒロイン・広岡浅子の豪傑エピソード
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20151106/Davinci_008283.h



★ 癌は昔からあった病気でした。


癌の原因に免疫の弱りがあります。高齢になると当然免疫力が衰えます。若い人はめったに癌になりませんが、若い人で癌になる人には共通点があるようです。ほとんどは性格的にストレスを溜やすいとか、不眠をともなうような強いストレスがあった後起こりやすいようで、緊張するホルモンが免疫を落としてしまう事が原因になる事が多いようです。



昔でもストレスを溜やすい性格の人は居たでしょうし、理屈から考えて、当然昔からあった病気でしょう。しかし癌が増えてくる年令まで生き延びる事が至難の業の時代でしたから絶対数は少なかったのでしょう。


★日本では江戸時代には既に乳癌の外科治療が行われていました。


日本に於ける乳癌の外科治療は、1804年(文化一)華岡青洲(1760~1835)によって世界に先駆けること37年前に、世界で初の全身麻酔下で行われました。


華岡青洲が曼陀羅華(朝鮮朝顔)からの抽出物を主成分とする通仙散(経口的全身麻酔剤)を造る過程で動物実験を繰り返し、最終的に人体実験として、自身の母於継や妻加恵にこれを飲ませ、ついにこれを完成させた話は、有吉佐和子氏の小説、「華岡青洲の妻」の中で、夫である青洲へのあるいは息子青洲への、死をも覚悟した献身(人体実験)の過程に於ける、嫁舅(しゅうと)の葛藤のすさまじさとして克明に描かれており、あまりにも有名です。


〔華岡青洲〕 江戸後期の外科医。紀伊の人。名は震。字(あざな)は伯行。古医方・オランダ外科を学び、開業。チョウセンアサガオを主剤とする麻酔剤を開発し、日本初の乳癌摘出手術に成功した。(「大辞泉」より)



実際に、青洲が曼陀羅華(朝鮮朝顔)からの抽出物を主成分とする、この通仙散(麻沸散)を乳癌患者に飲ませて全身麻酔下に乳癌の手術を行った第1号は文化元年(1804)10月13日です。第1号の患者の名前は藍屋利兵衛の母・勘(60歳)で華岡青洲の記載による「乳癌姓名録」に書かれています(冨永より)。


嫁舅の葛藤は別として、動物実験から人体実験を経て麻酔薬を完成し、それをもって実際に乳癌手術を行った華岡青洲の医療手順は、今日の医学医療と比較しても(手術そのもののレベルは別として)、全く遜色なく驚くべきものとされています。彼が実際どの程度の乳癌の手術を行ったのか、どんな手術を行ったのか興味の持たれる所です。


「乳癌姓名録」には156名の乳癌患者名が記載されていると言われます。また、手術に当たっては、今日で言う手術承諾書も取っていた様です。術式に関しては「乳癌治験録」には克明に手術記録図と記述が記載されており(冨永による、有吉佐和子氏による)、今で言う部分切除(癌と周りの正常組織を少しつけた切除)であったと想像されます。


さらに、腋窩のリンパ節転移と予後との関連性を示唆する記載もあり(現在でも腋窩リンパ節転移数は予後と相関することが明らかとなっている)、青洲のすごさがうかがわれます。



★広岡浅子乳癌を克服


明治43年広岡浅子が乳癌の手術を受けたとされていますが、どんな手術を受けたか不明です。


ただ、江戸時代から乳癌の外科治療がされていた状況を考えると、広岡浅子も当時の最高水準の手術を受けたものと考えられます。


それにしても、広岡浅子は暴漢に刺されたり、乳癌になったりと波乱万丈の人生です。


広岡浅子は乳癌を克服後、保険業界に進出し大同生命を設立させます。まさに『九転び十起き』の人生です。




『あさが来た」NHK連続ドラマにて、あさと成澤泉はなぜ、女子大学を設立しなければならなかったか?









現代の感覚からすると不思議に思えませんか?だって大学が既にあるんだから、そこで女性も一緒に入って勉強すれば良いではないですか。そちらの方が合理的に思えるんです。


明治時代には1877(明治10)年に創立された東京大学を筆頭とする7つの帝国大学 ( 国立大学 )がありました。


既に出来ていた大学は女性の入学を禁止していたのでしょうか?







どうも、女性の入学を禁止していると言うことではなかったようですが、女性は入学出来ませんでした。



なぜなら、1876(明治19)年に公布された帝国大学令の入学資格が高等学校卒業生に限られてたからです。


高等学校は男性が進学する学校で、女性は高等女学校です。これでは女性は大学に入学出来ませんでした。


あきらかなる女性差別でした。


では、『天は人の上に人を作らず』の福沢諭吉の慶応大学、あさを応援してくれる大隈重信の早稲田大学が既に設立されているのですから、こちらに女性が入学すれば良いではないのではと思うんですが、この両校 ( 私立大学 )も帝国大学と同じ入学資格でしたので女性は入学出来なかった。









明治政府の教育は男女別の教育制度であり、男女が席を並べて勉強するなどと言うことは考えてもいなかった。



明治時政府とは徳川幕府を倒した薩摩藩や長州藩等の『サムライ』の集まりなのです。


『サムライ』の学んだ教育は男尊女卑、儒教『男女7歳にし席を同じくせず』武士の教育を受けています。江戸時代の寺子屋は男女共学ですが、『サムライ』たちは決して教育に男女共学を考えることはなかった。



「あさが来た」娘千代の進学問題で悩むあさ。明治時代の教育。




また、広岡浅子も成瀬仁蔵も福沢諭吉も大隈重信も明治時代の誰も男女が一緒に席に並んで学習するなどとは考えてもみなかったのでしょう。


当時は大学へ進学する道は女性にはなかったのです。


広岡浅子と成瀬仁蔵が設立しょうとした女子大学は女性にも男性と同じ大学で学べる道を作ったと言うことで画期的なことなのです。


『おなごに学問は必要ない』小さな頃、父親に言われてい言葉に対して広岡浅子なりに疑問を持ち、『女性にも学問は必要である』と一生をかけてやり遂げたのが女子大学の設立でした。


広岡浅子がやったことは、女性差別、女性解放の第一歩だったのです。







西欧諸国やアメリカでは既に男女共学がスタートしていました。


男子のみがそれ(教育)に携わって、女性が知識の探求ということから、まったく除外されて差支えないという理由が、どこにあるのだろうか。……彼らは男性と同様の、鋭敏なる精神と知識に対する能力とを与えられているのである。(否しばしば、男性よりもすぐれた能力に恵まれているのである。)
— コメニウス『大教授学』


日本は女性の教育と言う考えでは、西欧諸国やアメリカから相当遅れていたのです。



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