NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一は病に伏す妻、音(二階堂ふみさん)の療養のため、東京を離れて静かな生活を送っていた。
ドラマの中の音さんは明るくて元気でいつも主人公を支えてくれていました。声楽を断念しなければならなかったのは残念でしたが、古山にとってはなくてはならない存在でした。
音のモデル古関裕而さんの奥さんもご主人を支えてくれる素敵な女性でした。しかも才能は多彩で、パワフルな女性でした。
■古関金子の多彩な才能
古関裕而の金子さんの才能は音楽だけではなく、詩も書いており、1958年(昭和33年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。1960年(昭和40年)に「にあいなめ」の同人となり、1964年(昭和44年)に詩集「極光」を発売しています。
また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになっていました。
古関金子さんは1971年(昭和46年)に油絵の裸婦像『揺炎』が新槐樹社展(東京都美術館)に入選していました。
音楽の才能もあり、文学や絵画の才能もあり、株の世界では「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていました。古関金子さんもあちこちに大活躍をされていました。
まさに、天下無敵のスーパーレディでした。ほんとドラマの音以上の人物だったようです。
この頃から古関裕而がフジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員として司会者の萩本欽一と一緒にお茶の間のテレビに登場するようになりました。1972年(昭和47年)。この番組には古関は1984年6月24日降板するまで勤めていました。
しかし、古関金子はご主人や家族を支え、パワフルな活動を続けた古関金子さんでしたが、やはり病には勝てなかったようです。
1976年(昭和51年)に乳がんが判明し日本赤十字医療センター、東京大学医学部附属病院、国立ガンセンターに2度の手術を受け、闘病生活を開始します。
■古関裕而、初の福島名誉会員
1979年(昭和54年)福島市出身であり、昭和を代表する作曲家である古関裕而が、作曲生活50周年を迎えるとともに、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」など、誰もが一度は耳にしたことのある、数々の名曲を世に送り、郷土福島を広く紹介した功績が認められ、初の名誉市民として推戴されました。
古関裕而と妻金子は二人で仲良く推戴式に参加しています。この時の金子さんは和服姿でした。
故郷の福島を心の中から愛してやまなかった古関裕而、ほんとうに嬉しくてたまらなかったようです。
古関裕而は「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。」と述べています。
それから、40年以上が経ちますが、今をもっても福島市名誉市民は古関ただ一人であり、それだけ古関が偉大な存在であることがうかがい知れます。
■古関金子死去
1980年(昭和55)年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。
古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり
1980年(昭和55年)7月に死去し68歳だった。
夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。
■終わりに
フジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員とし古関裕而先生の顔はいつもにこにことテレビに映っていました。ああ、この人はいつも幸せなんだなと思っていました。
しかし、テレビの番組に出ておられる間、奥さんの金子さんの病気が判明し入院し、最後はお亡くなりになったたいへんな時期だったようです。