NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一は娘の華とアキラの結婚を認めます。そしてビックイベント東京オリンピックマーチを作曲することになります。

 今日は古山裕一のモデル古関裕而さんの東京オリンピックマーチのお話しをしてみたいと思います。

古関裕而と映画「史上最大の作戦」             

 古関裕而にオリンピック・マーチ作曲の依頼があったのは、大会の2年前1962(昭和37)の秋頃でした。

アジア初のオリンピック競技大会におけるマーチを作ることに対して、非常に喜んでいました。

 同年1215日の洋画「史上最大の作戦」が公開されビックヒットしました。古関裕而も妻と二人で観に行っています。そのテーマソングは優れたマーチで、誰でも一度聞いたら忘れられない明るくて軽快な行進曲でした。

 映画が終わって古関裕而の妻、金子「すごく良いマーチだったわよ。あなたオリンピック・マーチ大丈夫なの?」

 古関裕而は「大丈夫だよ。」と答えたとのことです。

 オリンピックマーチの作曲者の発表があったのは翌年の春には発表されていましたが、公の演奏は1964年の開会式まで一度も行なわれることはありませんでした。

 家族でも開会式まで一度も耳にしたことがなかったそうです。

 古関裕而の息子正裕さん「父は作曲する時に楽器を使わないんです。だから、家族ですらどんな曲を作曲しているのかわかりませんでした。」と話しています。

東京オリンピック


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 1964(昭和39)はまさにオリンピックの年でした。


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 全国を聖火ランナーが駆け巡り、東京の国立競技場に聖火を運んで行きました。否が応でも、国民の期待と興奮は高まってきていました。


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 19641010日(土曜日)当日、午後2時、73,000人の大観衆を集めた国立競技場。


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 軽やかな「オリンピック・マーチ」のメロディーが鳴り響きます。


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 ギリシャを先頭に、最後の日本選手団まで94か国の選手団が、このマーチにのって入場行進を行いました。スタンドを割れんばかりの拍手と歓声さがつつみこみました。

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 そこには昭和天皇裕仁のお姿もありました。敗戦により、国民とともに苦しんできた天皇陛下。古関裕而の裕は天皇陛下の名前からつけていました。日本の復興を全世界に示すイベント東京オリンピック。

 国立競技場のスタンドで見ていた人にとって、そしてテレビで見た人にとっても、あの開会式の情景と古関裕而のオリンピック・マーチという音楽は、感動をともないながら一つになって心に刻み込まれた。

 古関裕而の音楽が灯したオリンピックの火は、大会が終わっても心のなかに小さな種火として灯り続け、消えることがない。

 開会式を見た人は、種火に新鮮な空気が吹き込まれると炎が上がるように、オリンピック・マーチを聴くたびに、選手たちが国立競技場の赤いトラックに入場するシーンを目に浮かべるのでした。

古関裕而は「開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めての東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心しました。そこで曲の初めの方は、はつらつしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックをやるのだということを象徴するために、『君が代』の一節を取り入れました。私の長い作曲生活の中で、ライフ・ワークと言うべきもので、一世一代の作として精魂込めて作曲しました」と話しています。

 古関裕而は晴れの舞台で自分の音楽が全世界にながれていったことで最高の喜びを感じていました。

 戦後の苦しい時代から明るい日本の未来のために「とんがり帽子」「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」等、次々と名曲を作り続けた古関裕而のまさに集大成が「東京オリンピックマーチ」でした。