NHK連続ドラマ『エール』華とロカビリー歌手アキラの恋の話しになっています。時代は昭和30年代後半の話しになっています。

 今日はドラマとは離れて古山裕一のモデルになった古関裕而さんの終戦直後のようすをみてみたいと思います。

古関裕而と終戦直前

 1945(昭和20)310日の東京大空襲である、もう一つは525日の山の手大空襲をうけて世田谷区代田の隣組の家屋まで焼けていました。

 古関家は無事だったが 「幸い我が家は焼け残ったが、隣組は焼かれた」 すぐ近くに空襲が迫ってるのを実感して これはヤバイと焦り「すぐ子供たちを福島の実弟の家へ疎開させた。 子供のない弟嫁に托し、妻は東京に残った」 戦況が悪化し、終戦間際の19456月、東京にいた古関は、娘2人を福島市の実家に疎開させました。7月には同市飯坂町の二階堂家に疎開先を変えた。古関の知人の実家であった当時の二階堂魚店の奥座敷で11月まで暮らしていました。金子は7月中旬から腸チフスにかかり、8月中旬まで福島市内の病院に入院。

 戦時中は汽車に乗るのが許可制だったが 古関はNHKと海軍省の特別通行証が与えられていたので 記者に乗ることも妻子が疎開をした福島へ直行することも出来た

古関裕而と終戦
 福島にいた古関は810日頃、 放送局に帰京を促され東京へ向かう 福島駅で顔見知りの記者に 「どうやら戦争が終わりそうです。日本が負けましたね」と教えてもらう 
 815日東北線で夜汽車に乗り、新橋駅に着いたところで玉音放送の時間だった。古関はそのまま放送局に出向き、自宅へ帰る 
 古関自伝本より
「降伏なら当分放送も休みだろうと思って自宅に帰った。 何の変わりなく家があるのにほっとした。 留守宅は弟子の土橋啓二君と母上が守ってくれた。 土橋君も兵隊になっていたが 「そのうち兵役解除で戻るだろうから 心淋しいだろうがお願いする」と土橋君の母上によく留守を頼んで 
福島に戻った」10時間もかかった。

 古関は8月から飯坂生活を始め、地元の人々に音楽を指導した。飯坂小の新校歌発表会では金子が歌い、長女がピアノ伴奏した。疎開先の二階堂さんは「古関一家が仲良く歌を歌う光景を覚えている」と語った。

終戦後初めての作曲は校歌

 古関裕而は戦後も作曲を続けていた。疎開先から自宅に帰ることになった10月、疎開先の飯坂小の校歌を作曲している。終戦後の作曲が校歌だったのは古関裕而らしい。

 二階堂さんは「今も校歌は忘れない。古関一家が懐かしい」と目を細めた。

 戦後初めての作曲は福島市の飯坂小学校校歌だった。

 福島市飯坂町の市立飯坂小で、同市出身の作曲家、古関裕而直筆の校歌の楽譜が見つかった。終戦直後に作られ、今では歌われなくなった「幻の四番」の歌詞も書かれている。古関は県内だけでも100校以上の校歌を作曲しているが、古関裕而記念館の氏家浩子学芸員は「戦後の混乱期、国民学校時代に作られた校歌は珍しい」と話している。

 ちなみに古関の疎開先の二階堂さんもドラマ『エール』の音を演じる二階堂ふみさんも同じ二階堂姓です。現神奈川県にあった相模国鎌倉郡二階堂が起源です。鎌倉時代から続くの由緒ある姓みたいです。

 偶然だとは思われますが、NHK連続ドラマ『エール』の音さん役の二階堂ふみさんと古関裕而一家の疎開先が二階堂さんのお宅だったとは不思議な縁ですね。

終わりに

 戦前の古関裕而さんNHKラジオ放送局との結びつきは、思った以上に深いものがあったようです。

 戦後もこの関係は続いていたと思われます。戦後はNHK放送局にGHQCIEが占拠し日本の音楽や文化を統制していましたから、古関裕而さんも戦前と同様に放送局の音楽関係を受けていたものと思われます。

 NHK連続ドラマ『エール』のドラマと史実の古関裕而さんはかなり違っていることがたくさんありますが、放送を通じて、古関裕而さんと言う人がどんな人だったか知れて、とても良かったと思います。