NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)は オペラ「ラ・ボエーム」の稽古で、皆と明らかな実力の差を感じた音は、追いつこうと努力するが、どうしてもうまくいかない。ついに舞台を断念します。

 音のモデル古関金子も理由は違いますが、声楽を断念しています。

 古関裕而の妻、金子は、1946(昭和21)7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれてから、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、1949(昭和24)より放送された古関作曲の3篇の放送オペラ『朱金昭』(チュウ・チン・チョウ)、『トウランドット』『チガニの星』は古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演でNHKで放送を最期に声楽から引退しました。

 ドラマと違って声楽の才能は認められていたのですが子育てにて、あきらめざるを得なかったようです。

 古関裕而は「妻は次第に家庭的に忙しくなり、残念ながら歌を歌う機会を逸してしまうが、家庭を守りながらも、私の仕事のよき理解者であり、よきアドバイザーであった」

と言っていました。

 しかし、家に閉じこもっていないのが古関金子さんです。

 昭和26年に投資信託が始まり、投資信託が大きな注目を浴びていた頃。

 古関金子は1952(昭和27)、山一證券の渋谷支店で投資信託をはじめて購入しました。

 それが、おりからの朝鮮戦争の特需もあって、大当たりしました。

金子さん音楽以外の別の楽しみを見つけたのです。

 それをきっかけに、金子は自分でも直接株を買うようになり、なんと半年で100万円ほどの利益をあげてしまいました。

 小学校教員の初任給が、6000円弱だった時代の話です。

 これで金子は、すっかり株取引の虜になってしまいました。

試行錯誤を重ねながら、やがて婦人   投資家として成功。金融メディアにも盛んに登場して、「百戦錬磨の利殖マダム」などともてはやされるようになりました。

 しかし、1953(昭和28)3月のスターリン・ショックによる暴落で、儲けを全て吐き出し、さらに10万円も損をしてしてしまった。

 普通の人は、ここで止めてしまうのだが、古関金子は人任せにしたのが間違いだったと思い、本気で株式投資の勉強を開始した。

 実際の成績は不明だが、長期的には株価は右肩上がりの時代に、古関金子は信用取引も行っていたようなので、相当な利益を出していたとも言われる。

 古関金子「確実なものとしては東芝、三菱造船、それから割合資本金の少いものとして、新春から妙味のあるものは、これは沢山あって選ぶのも大変ですが、まあヂーゼル機器、関西ペイント。資本金の少い方ではありませんが、三菱電機、松下電産などのトランジスター関係、それからソニー、特にビデオテープ、あれには大変興味を持っております。第一ホテルやコロムビアも安値で拾って間違いないんじゃないでしょうか。」と述べています。

「婦人投資家新春放談」『日本証券新聞』195911日付より

 さすが古関裕而の奥様、金子さんはパワフルレディでした。

 本人の語るところによれば、1960年代初頭には、「株式新聞」「日本経済新聞」「株式市場新聞」「暮らしと利殖」、山一の「週報」「特別ニュース報」、野村の「速達ニュース」、日興の「マネービル新聞」、大商の「投資ウィークリイ」などに目を通し、週に4回のペースで、証券会社に通っていたそうです。

 ご存知のとおり、その後の高度経済成長により、日本の株価はぐいぐい伸びていきます。さきほど上げられている株も優良なものが多いですから、金子はある程度、投資で成功していたのでしょう。

 もっとも、金子も最初は株取引に抵抗感があったようです。芸術家の自負もあり、「なんとなく下俗」に感じていたのだとか。ところが、そんな気持ちは、巨額の利益の前に吹き込んでしまいました。そしてついに「株は芸術なり」と宣言するにいたるのです。

 自分が楽しんでいますこの頃では、「株は芸術なり」と云って憚りません。

出典:古関金子「株は芸術」『週刊株式』創刊号より

 古関裕而の奥様は音楽から、いつのまにか金融の世界に入っていたようです。

 NHK連続ドラマ『エール』では音が株をやっていたなんてドラマになることはないとは思いますが、なんでもとことんやらなければ気のすまないのが音さん古関金子の性格だったようです。