1945(昭和20)8911:02アメリカ軍が長崎に原爆投下。長崎市の人口24万人の内74千人(推定)死亡建物は35%が全焼または全半焼しました。

 長崎医科大学助教授、永井隆は爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した。彼は飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井隆ははまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオが落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。

 9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥った。

 1015日「原子爆弾救護報告書」を執筆。

 1946(昭和21)1月彼は教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 彼は苦しい闘病生活を送りながら活発に執筆活動を展開します。   昭和218月「長崎の鐘」昭和231月「亡びぬものを」3月「ロザリオの鎖」4月「この子を残して」8月「生命の河」昭和243月「花咲く丘」10月「いとし子よ」などを発表。

 多くが数万部から国内で数10万部のベストセラーとなり、翻訳されて世界中の多くの人に読まれるようになります。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和233月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和2310月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌245月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。



 昭和245月、255月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 1951(昭和26)51日長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 永井隆 「いとし子よ」より

『私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛して、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。』