NHK連続ドラマ『エール』ではドラマは終戦後となっています。

 池田二郎(北村有起哉)が闇市を歩くと戦災孤児たちの姿が、なかには二郎のズボンのポッケから財布をぬすとする孤児までいました。

 池田二郎の史実のモデルは菊田一夫です。

国に捨てられた戦災孤児と「鐘の鳴る丘」

 戦争が終わった時に、戦争孤児は12万人とか

 昭和20310日の東京大空襲は、沢山の戦災孤児を生み。

 戦後の街に戦災孤児は溢れていました。

 政府の資料では(厚生省児童局企画課・調査日:昭和22年(1947年)126)太平洋戦争で孤児になった子供の数(昭和2321日に数え年20歳未満)は123,511人となっています。(数え年17歳は14,486人)

もの凄い戦災孤児がいました。

 大人が始めた戦争に悲惨な思いをするのは、いつも子供たちです。なんだか酷い話しです。

 当然、子供たちは戸籍もなく、自分がどこの誰かもわからない状況です。

 国からの配給もなく援助もありません。

 彼らの生きる選択はこそ泥、置き引き、スリを働くしかありませんでした。ちなみに彼らは「チャリンコ()」と呼ばれていました。

 両親を戦災で無くし、寄る辺も無く生きるすべをなくした多くの少年少女が、土管の中や橋の下で暮らし、生きていくためにはしかたがなかったのです。

 しかも、国は悪事を働く戦災孤児たちを取り締まろうとしていました。

 国に捨てられた子供たちに未来はありませんでした。

 そんな子供たちに明るい未来を見せ、社会に子供たちを助けるように呼びかけたのが「鐘の鳴る丘」です。

ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」このドラマのきっかけは、アメリカ駐留軍のカトリはック的な施策が始まりです。1917年にカトリックのフラナガン神父によってアメリカで「少年の町」が創設されます。

 「この世に悪い子はいない。愛を持って接すれば、非行少年も必ず立ち直る」というその精神を、菊田一夫が日本人向けにアレンジしたものが「鐘の鳴る丘」だったのです。

戦後の暗い世の中に「とんがり帽子」古関裕而の作曲した、どこまでも明るい音楽がラジオから流れはじめていました。1947(昭和22)7517時、暑い夏でした。

緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

風がそよそよ丘の上

黄色いお窓はおいらの家

 家庭のラジオから商店の店先から街頭ラジオから、全国に流れていったのです。

 菊田一夫は、悲惨な苦しみを乗り越えて、明日への希望を繋ぎつつ明るく生きていこうとしている少年の心を、巧みに描きました。 

 「鐘の鳴る丘」は、復員兵修平と浮浪児たちが、浮浪児を食いものにする山田一家に立向かい、村人の偏見と闘いながら「少年の家」を建設し、やがては北海道開拓にも従事するにいたる、浮浪児自立の物語です。

 菊田一夫は「憐憫」と「取り締まり」(犯罪者視)の間におかれていた浮浪児・戦争孤児たちに、幸福に生きられるように、親を探し出し、養父母を見つけ、開拓農場建設に従事させようとしたのです。

 浮浪児やチャリンコなど随所にいましたが、進駐軍の進駐の広がりとともに、こうした戦災孤児の養護施設が増えてゆきました。

 菊田一夫は、さらに「戦災孤児は誰が作ったのか、彼らがカッパライをするのは生きるためではないか」というメッセージを世の中に伝えたのでした。

 古関裕而も戦災孤児のために出来る限り、明るい曲を作り、彼らの応援歌としたのがNHKラジオドラマ「鐘が鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」だったのです。

 古関裕而も戦争中の辛く苦しい思いから、ようやく明るい作曲作りへと意欲を燃やすようになりました。