NHK連続ドラマ『エール』では池田二郎(北村有起哉)が終戦後、登場し闇市が出て来ました。

 終戦後の日本は食糧難に苦しんで居り、闇市で高値の食べ物を手に入れるしかありませんでした。

「配給制度」はあるが配給する食糧がない

 日本は戦争中、「配給制度」をとっていました。米、味噌、醤油、砂糖などの食料、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日常品までが、配給されていました。

 各家庭に、あらかじめ人数分だけの引換券(切符)が配布され、これを商品と引き換える方式です。こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは法律違反でした。

 ちなみに、このころはライターはなく、ガスコンロわにも自動着火装置などついていませんでしたから、マッチは生活必需品だったのです。ティッシュペーパーなども存在していませんでした。

 敗戦とともに、この配給制度はマヒしました。米の配給はわずかで、さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が配給になりましたが、それも遅配や欠配が続きました。

 人々は配給を頼っていては、食べるものを手に入れることができなかったのです。配給に頼れない国民は、法律違反とわかっていても、「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしかありませんでした。

 特に都会の住民が食料を手に入れるのは困難で、しばしば農村に買い出しに行くことになりました。それでも現金を持っている人はいいのですが、現金がない人は、衣類を売って現金を手に入れ、その金で生活物資を買いました。着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚はがしていくようだったので、「タケノコ生活」と呼ばれました。

山口判事餓死事件

 戦後の混乱の時期、ある事件が発生しました。

 1947(昭和22)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡したのです。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。

 山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。

 法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。

 逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。

なぜ闇米を食べないのか?

 戦後の194610月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。

山口良忠

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」

山口矩子

「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」

山口良忠

「たとえ悪法でも、法律である以上、裁判官の自分は守らなければならない」

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。判事が法律を守り餓死する、あってはならないような事件でした。

奥さんにも会いましたが栄養失調で病床に倒れていた。

山口矩子

「私は主人を信じてついて行きました」

 山口良忠の死は米AP通信が東京発で配信し、ワシントン・ポストなどが掲載していた。

戦後の日本は餓死者で溢れていた。

 これが戦後の日本の姿だったのです。皆さんが山口判事の立場だったらどうしますか。

昭和20年11月18日付『朝日新聞』

[社説]

「貧者を飢えしむるな」

〔一面〕

食糧問題に四緊急措置、生鮮食料品の統制を二十日に全面的に撤廃。食糧問題に四緊急措置食糧問題に四緊急措置

〔二面〕

始っている死の行進、餓死はすでに全国の街に。

多い時には日に六人、恐怖の夜の宿上野駅(路上生活者の死者)。

 本当に戦後の日本は餓死者で溢れていたようです。