NHK連続ドラマ『エール』先週の金曜日のラストシーンでは池田二郎(北村有起哉)が最後に「待ってろよ、君のドラマを作ってやるからな」で終わりました。

 終戦を迎えたとはいっても、戦災で父母を失った子供たちが巷にあふれ、誰しもが食糧難で生きることに精一杯だった時代です。

 子供たちも生きるのに必死でした。

 二郎の後ろポッケより財布を盗もうとした子供もその一人です。二郎には彼らの苦しい思いが良くわかっていたのです。

 それは彼の生い立ちが関係していました。

 池田二郎は劇作家、菊田一夫です。

菊田一夫の幼少時代

 菊田一夫は1908(明治41年)に横浜で誕生しました。

 家庭が複雑で生まれてすぐ養子に出され、生後4カ月で両親に連れられ台湾に渡ったが、両親に捨てられ、転々と他の人に養育された。

 5歳のとき菊田家の養子になります。

 台湾城北小学校に入学しましたが、小学校卒業直前に、大阪の薬種問屋に丁稚奉公に出され、その後、神戸の元町にやってきました。

 当時、骨董店であった「珍産商会」で丁稚奉公をつとめました。

 苦労の多い少年時代を送っています。

 店主の情けで、神戸にある夜間の商科実業学校(現:神戸市立神港高等学校)に通いながら文学に関心を抱き、詩の同人雑誌に寄稿しました。

 やがて、大正12年結成の「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人もつとめましたが、その熱心さから仕事で失敗を重ねる。

 その後、丁稚奉公生活に嫌気がさし、大正15年に上京し印刷工となる。

 萩原朔太郎やサトウ・ハチローらとの出会い、サトウの世話で浅草国際劇場の文芸部に入り、劇作家の道を進んだのでした。

 特に幼少期に両親に捨てられ、転々としていた自分と戦争孤児たちと重なっていたのでした。

戦後の戦争孤児

 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿がありました。  

 空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。

 国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。

戦争孤児の悲惨な状況

 焼け跡に残された子どもたちはどうやって生きたのでしょうか。

死んでいく子を何人もいました。

 8歳ぐらいの女の子はやせ細り、裸足を真っ赤に腫らして、大阪駅前で力尽きた。

 福井駅で出会ったひとつ年下の「かめちゃん」盗みをしては、闇市でカレーや肉まんを分け合った、東京・品川駅近くで電車に飛び込んで自殺しました。

 5年生だった子供は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなかったそうです。パニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻りました。『生きていないと親に会えない』と思い、盗みを始めたと打ち明けてくれました。

 同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、『お母さん、どこにいるの』と言った翌日、隣で冷たくなっていた。

 いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして、浮浪児になった子も数多くいました。

国の戦争孤児対策

 国は戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示しました。

 しかし、予算も規模もまったく不十分でした。見かねた民間の篤志家や施設が私財をなげうち、孤児を保護したものの追いつかず、街に浮浪児があふれました。

 当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償を受けられないか聞くと『軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではない』と言わたそうです。

 同じ戦争犠牲者でも、民間の空襲被害者は差別されているのです。

 しかし、多くの戦争孤児は大人でも生きるのがたいへんな戦後、街々でたがいに助けあいながら生きようとしていたのです。

古関裕而と菊田一夫のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」

 そんな戦争孤児たちをなんと元気づけたいと思った菊田一夫と古関裕而のコンビで作ったラジオドラマが「鐘の鳴る丘」でした。

 1947(昭和22)75日から19501229日まで、放送回数は790回に及ぶました。

 毎週土、日曜日の1715分。

 ラジオから「とんがり帽子」の歌が聞こえます。

緑の丘の赤い屋根

とんがり帽子の時計台

鐘が鳴ります キンコンカン

メーメー小山羊も啼いてます

なんだか歌を聞いただけで楽しくなります。

 ドラマは空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の高原で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いた内容でした。

 日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなったのです。

 古関裕而と菊田一夫は二人して戦争孤児の明るい未来を夢見て、夢中でラジオ制作に没頭したのでした。