NHKドラマ『エール』ビルマでは、中井が戻って来た。 「全戦は地獄です。

 険しい山・濁流の大河・食糧不足、戦う以前に命を保つのが難しい。」 物資の揃わない中、突撃命令が下されていた。

 1杯の水もなく死んで行く者もいた。 

 『古山さん、日本は負けます。命を尊重しない戦いに未来はありません。」

最も無謀なインパール作戦

 インパール作戦が大本営が作戦中止をようやく決定したのは1944(昭和19)71日。開始から4か月がたっていた。

 しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。 実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていった。

 雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。

 死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。

 前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。

 「726日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」

(齋藤博圀少尉の日誌)

 死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか。

 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。

軍部は本気で竹槍で戦えと

 インパール作戦の反省もなく、翌年、大本営は本土決戦も考えていたようです。

 しかし、本土決戦も内容はあまりにもお粗末。いつもの「竹槍作戦」なのでした。

 1945(昭和20)7月、鈴木首相ら閣僚は、民間人にわたされる兵器の展示を視察するように招かれたが、そこで見せられたのは、単発の先ごめ銃、弓矢(使用説明書に書いてあるところによれば、有効距離3040メートル、命中率50%)、竹槍、熊手などである。

 あまりものに動じない鈴木首相も 「これはおどろいた」と秘書官にもらしたし、その秘書官も「国民を騙すにもほどがある。二十世紀の戦争として、正気のさたとはおもえない」と絶望と怒りを感じた。

 天皇もまた、軍の意図と能力とのあいだに、明白な食いちがいがあることについて、ますます心配されていた。

 梅津美治郎参謀総長は、九十九里浜の防衛計画を奏上したが、これは侍従武官が、現地視察をして天皇に提出した報告と、かなりちがっているようにみえた。

 陸軍が確約していたにもかかわらず、九十九里浜の防衛陣地の構築は、予定よりもはるかにおくれており、8月末までには完成できないようであった。

 また陸軍は、ある新設の歩兵師団の装備が完了したと主張したが、天皇は、小銃さえいきわたっていないことを知っておられた。

 天皇は、ふかく憂慮されて、次のようにいわれた。

 「もしこのような状態で、日本が決戦にのりだしたら、一体どうなるのか」

 これにたいするもっともよい答えは、725日に行われた軍代表の秘密会議で、参謀本部の幹部がしめした、正直だが、きわめて暗い、次のような見とおしだった。

 「日本の国力および戦力は、日一日と低下しており、日本の戦争情勢の見とおしは暗い。戦争の遂行は絶望になった」

 もう日本に戦う力は残っていなかったのです。軍部の上層部に残っているのは保身とプライドだけでした。

 こんな人たちのために若い命が何万と奪われたのかと思うと、つくづく日本の縦社会の醜さにいやけがさします。