NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)に音楽協会を通じて軍から慰問の依頼が。

 自分よりも若い人たちが死を覚悟し、訓練に励む姿を目の当たりにしてから安全な場所で音楽を続けることに後ろめたさを感じている裕一は、複雑な感情を抱きながらも戦地に赴く決意を固めていた。

 古山裕一モデル古関裕而は音楽の作曲家として3回も外地に従軍しています。最後の3回目が最も危険なインパール作戦への従軍でした。

インパール作戦

 大本営は、インパール作戦に特別報道班の派遣を決定し、小説家の火野葦平、画家の宮本三郎、作曲家の古関裕而の特別報道班に任命しました。

 ただし、画家の宮本三郎は病気のため、画家の向井潤吉が代わりに派遣されています。

 画家に小説家に作曲家を選んだのはインパール作戦の成功を記録し国内で報道するのが目的だったようです。

 ビルマ戦線において、19443月に帝国陸軍がインパール作戦を開始。

 援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指して進軍していました。

 第15軍司令官牟田口廉也のもとに、「烈」(第31師団)、「祭」(第15師団)、「弓」(第33師団)の三兵団が編成されていた。

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「コヒマの闘い」戦闘継続困難

 北から進攻した第31師団、17,000人が、イギリス軍側と激突した「コヒマの闘い」である。

連合軍の調書によると、コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長は、コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。

 佐藤幸徳師団長

 「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」

 3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。

「レッドヒルの丘」多くの日本兵の血が流れる

 作戦開始から2か月が経過した19445月中旬。牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。

 さらに牟田口司令官は自ら最前線に赴き、南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮を執る。全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りだった。

 レッドヒルと呼ばれている丘インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。

 この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。

 牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。

無謀なインパール作戦

 19446月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入っていた。この地方の降水量は世界一と言われている。当時の降水量のデータを解析すると、その前のひと月の降水量は、すでに1,000ミリを超え、30年に1度の大雨。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていたと見られる。

 司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。65日、牟田口司令官のもとにビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始した。

 2人が作戦中止の判断を避けたあとも、戦死者はさらに増えていった。大本営が作戦中止をようやく決定したのは71日。開始から4か月がたっていた。

 しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったのだ。

全く、帝国陸軍の人間を人間とも考えない作戦指示は乃木大将の旅順攻撃と全く同じだ。あの時の反省もなにもなかったのだろうか。

特別報道班

 日本で聞いていた状況とは、全く違うようだった。特別報道班はラングーンで戦況の説明を受けていたが、一向にインパールが陥落する様子は無かった。火野葦平と向井潤吉が一足先に現地の様子を見に行くことにした。

 やがて、前線の様子を観に行っていた向井潤吉が戻ってきて、日本軍の悲惨な様子を報告した。

インパール作戦の被害と失敗の責任

 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。

 牟田口司令官「インパール作戦は、上司の指示だった」

日本軍の最高統帥機関・大本営

インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。

 その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、

 服部卓四郎作戦課長

 「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ

 「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。」

 インパール作戦の認可を多くの大将の印鑑があるのにも誰も責任を取らない。

現場の責任者の責任であると言う。

日本の組織は昔も今も変わらないなと、ふと思う。

 責任は現場にとらせ、上層部は責任を取らない。これではいくら歳月が経過しょうと組織は良くならない。

インパールの大惨事

 牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国。

 その後、結婚し家族に恵まれたが、戦争について語ることはなかった。

 当時23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。

 「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか。」

この頃のことは語らない

 インパール作戦中止後、古関裕而はサイゴンへ向かわされた。85日に母親が死んだという電報が届いたため、古関裕而はサイゴンに到着すると、このまま帰国したいと申し出た。

 司令部は「母親が死んだ事も把握しているが、軍の行事を変更することは出来ない」と拒否した。

日本の軍隊は個人の事など全く考えない組織である。

 古関裕而はこの頃の話しをほとんどしていない。