NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)が音楽挺身隊に参加し慰問をしているシーンが出てきました。

 主人公、古山裕一(窪田正孝)妻、音(二階堂ふみ)のモデル古関裕而の妻、金子さんの戦争中はどうであったのか。

古関金子は防空群長で大活躍

 音のモデル古関金子さんもドラマの音とそっくり、明るくて活発でした。金子さんも積極的に世田谷代田の地元の組織に入っては隣組をまとめていました。彼女は防空群長を務めていたのです。防空群長とは「10戸内外で1群を編成し、自衛防空(アメリカからの空襲に備える)こと」が役割でした。

 そのために彼女は隣組防空群での「(焼夷弾)落達場所ニ対スル包囲鎮滅」のための人員の配置を考え、アメリカ軍の空襲に備えての「実戦的訓練」では隣組の仲間とバケツで水を汲み、バケツリレーし消火する訓練を指示していました。

 また、金子は防空群長として警防団と一緒にメガホンを片手に町内を点検しました。「訓練警戒警報発令」と連呼し、「明かりがもれていますよ」と注意して回りました。

 「警防団の人だったらまたね、という感じだったんだけど、彼女に言われると声が美しすぎてすぐ明かりが漏れないようにしたものよ」

「鐘よ鳴り響け」古関裕而伝より

と言われていたようです。

なかなか古関金子さんらしいエピソードである。

古関裕而は「戦争中も折あるごとに歌っていた。警戒警報発令中でも、準備万端整えてからまっ暗な部屋で私の伴奏で歌ったりしていた。陸軍病院に慰問して歌ったこともある。だから彼女が体力の回復をはかることは歌のためであった。 」と語っています。

 陸軍病院は、隣町の太子堂にあった東京陸軍衛戌病院。代沢国民学校の学童たちも定期的にここに慰問に行っていました。

 彼女も慰問のため学童たちと病院に行って歌っていたようです。

■1945310日東京大空襲

 古関金子は「三月十日、大空襲があった。長女の雅子は十三歳、紀子は十一歳、警戒警報発令と同時に、百五十メートルぐらいの距離の根津山の地下壕に避難させた。リュックサックに、わずかな着替えや非常食糧、教科書を入れたものを背負い、防空頭巾をかぶり避難するのを見送るのは、いつ見納めとなるのか分からぬ悲痛なものだった。」と語っています。

 防空群長の金子は隣組を守るために大活躍。日頃の訓練も世田谷区で12の成績だったので、隣組に落ちた焼夷弾は不発弾もあったが、たちまち各自協力して消火し、家は焼けなかった。

 古関金子は「私自身、自分たちの望んだ戦争でなくても、負ければ大変!と、夫を戦地に4回送り、一度は終戦間近に横須賀海兵団に取られています。当時2児を抱えておりました。生命を賭け、自分の全生活の危険も、民族のために考慮の上に最善をつくしました。」と語っています。

 1945年(昭和20年)310日の深夜008分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下しました。「東京大空襲」です。

 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となり、一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼりました。

 頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。

 防空法では「空襲から逃げずに、焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とされていたのです。10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」の政府方針は変わらなかった。

 古関金子は政府の方針通り空襲に勇敢にも立ち向かい消化に成功したものの世田谷でなければ命を失くした可能性が高い。彼女は運が良かったようです。