1937(昭和12)支那事変勃発を受け、東京日々新聞と大阪毎日新聞が合同で「進軍の歌」の歌詞を公募しました。

審査の結果、第一席に選ばれたのは本多信壽さんの歌詞、第二席は藪内喜一郎の歌詞が選ばれます。

第一席は当然に「進軍の歌」、第二席は審査にあたった、北原白秋と菊池寛が「露営の歌」と名づけられました。

菊池寛いわく、「当選作[進軍の歌]は格調が整つてゐるが、味は佳作第一席[露営の歌]の方にあると思ふ。」 

北原白秋いわく、「「ここはお国を何百里」を今に甦らせ新しい息吹きを与へたものとして、殊に戦地にある勇士によつて愛唱されると信じます。」

「進軍の歌」募集の新聞広告では

章節 歌いやすさを旨とされたし

賞金 入選1篇 1,000

選者 菊池寛、北原白秋、陸軍省新聞班長秦彦三郎

締切 86

用紙 半紙大のものに限る

宛先 東京日々新聞社事業

    大阪毎日新聞社事業

となっていました。

賞金1,000円は現在の価値だと200万〜300万円。

結構な賞金の金額でしたので全国より応募作品が殺到したそうです。

募集の呼びかけに

義によりてひとたび起てば千万人と言えども我ゆかんの名文がありました。

菊池寛、北原白秋の文でしょうか

この義とは何でしょうか

東アジアの大東亜共栄圏、東洋平和のために進軍するのだと言うのです。

文学界の大家2人が歌詞の募集を呼びかけています。

曲は、「進軍の歌」が戸山学校の軍楽隊が当たったのに対し、「露営の歌」は古関裕而に依頼されました。

満洲から呼び戻された古関は、電車の中で新聞に掲載された歌詞をみながら作曲を行ったといわれています。

古関裕而も「東洋平和のためならば……」という思いで作曲したのでした。

当時の軍歌「露営の歌」は決して戦争を続けるために作った歌ではなく平和を願って作曲した歌なのでした。

「進軍の歌」と「露営の歌」は、それぞれA面とB面として音盤化され同年8月にコロムビアから発売。

一等の「進軍の歌」よりも次席の「露営の歌」が流行し、レコードは爆発的な売り上げを記録しました。

半年後に60万以上の売り上げをあげていました。

多くの日本人が「露営の歌」を歌いながら大陸に戦いに旅立ちました。

誰しもが「東洋の平和」を信じて出かけて行きました。

その当時は日中戦争から太平洋戦争となり8年間も日本が戦争をし続け約320万にの方が亡くなるとは日本国民の誰も予想だにしなかった。

日本は「東洋の平和」のために戦い、中国は「自分の国を守る」ために戦い、アメリカは「自由と平和」のために戦った。

アメリカの作家ヘミングウェイ

「往時においては、母国のために死ぬことは心地よく、ふさわしいものであると書かれた。しかし近代戦争では、戦死が心地よく、ふさわしいものは何もない。諸君は犬のように死ぬであろう。」

歴史とは残酷で非情なものです。