満洲事変以降の「時局歌謡」

日本のレコード産業は、1930年代に群雄割拠の戦国時代を迎えていた。ビクター、コロムビア、ポリドール、キング、テイチクなどのレーベルが出揃い、ヒット曲を送り出そうと切磋琢磨していた。

話題のテーマはたちまちレコードのネタに採用された。 

1931(昭和6)9月に勃発した満洲事変とて例外ではなかった。

レコード会社はその進展にあわせて、時局的な音楽をつぎつぎにリリースした。

エロ・グロ・ナンセンスを歌った「エロ歌謡」も、軍事衝突を歌った「時局歌謡」も、大衆の需要に応じた商品だったという点では、地続きだった。

1937(昭和12)77日盧溝橋事件から日中戦争に突入。

「露営の歌」の制作

日中戦争勃発を受けて毎日新聞(当時は大阪毎日新聞と東京日日新聞)の企画で「露営の歌」の歌詞が新聞で応募された。

その頃、古関裕而は義兄を訪ねて満州(現中国東北部)を旅行し、日露戦争の激戦地の旅順も歩いた。

砲弾の痕も生々しく、実際の戦場を知らなかった彼は戦闘の悲惨さに心を揺さぶられた。

日本コロムビアから「急ぎの作曲の仕事あり。特急で会社へ」との電報が届いた。

下船して東京に向かう途中、新聞でたまたま見かけたのが、「露営の歌」の歌詞。

薮内喜一郎さんの作品

「勝って来るぞと 勇ましく

ちかって故郷を 出たからは

手柄たてずに 死なりょうか」

だった。

列車に揺られながら、古戦場の光景、それに駅で目にした出征兵士を送る様子が重なり、メロディーがすっと浮かんだ。

作曲依頼もないのに曲を作り終えていた。

急遽帰国した彼にコロンビアの担当が毎日新聞の公募作品「露営の歌」の作曲依頼をすると

古関裕而は

「それならもうできていますよ」

と楽譜を差し出したという。

なんともスピーディー過ぎる話しです。


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「露営の歌」はB面であったにもかかわらず、A面の「進軍の歌」をしのぐ人気を得て、当時としては異例の60万枚以上のレコード販売となり、当時の有名な歌謡曲となった。

「露営の歌」のアレンジ版

今では戦争中の歌謡というと「政府や軍部に無理やり作らされ、歌わされたもの」というイメージが根強いがレコード会社、新聞社が営利を求めて企画を立て、作詞家、作曲家などが音楽を作り、そして大衆が娯楽を求めて歌を広めていったのが真実である。

日本コロンビアは「露営の歌」の大ヒットにともない児童合唱団が歌った「少年軍歌:露営の歌」、芸者出身の歌手などが歌った「流行歌:露営の歌」など、さまざまなアレンジ版が作られた。

「続露営の歌」は、その名のとおり「露営の歌」の第二弾を狙ったものである。作曲者の古関裕而によれば「大したヒットにはならなかった」ようだが、レコード会社のたくましい商魂がうかがえます。

軍歌のない平和な国を…

軍歌だからと言って必ずしも軍の命令で無理矢理作らされたり歌わさせたりしたことはないのです。

日本国民が自分の国を守るために戦ったのは間違いない真実なのです。

しかし、多くの方々が戦争でなくなったのも紛れもない真実です。

古関裕而さんも

「多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた」

と述べています。

太平洋戦争のような出来事がないことをまた、日本はいつまでも軍歌のない平和な国であって欲しいと願ってやまないのです。