ドラマでは双浦環モデル三浦環が音の審査をしたり、音楽の指導をしたりしていますが昭和10年以前は彼女は海外にいて日本にはいませんでした。
三浦環が海外から帰ってきて「船頭可愛いや」を聴いて気に入り、古関裕而に「船頭可愛いや」をレコードに吹き込みたいと頼み、レコードに吹き込みをしてくれたのです。
では三浦環と古関裕而の妻金子はいつ初めてあったのでしょうか。
1939年( 昭和14年)古関が「月のバルカローラ」を作曲。古関裕而は、妻の古関金子が三浦環の大ファンだったので、大喜びし、「月のバルカローラ」をプレゼントすると、「月のバルカローラ」もレコードに吹き込んでくれました。
そのお礼に今度は三浦環さんサイドのエドワード氏より
「古関さん、国技館の相撲の切符が二枚あります。奥様とどうぞ。三浦環さんもいらっしゃいます」
と枡席の切符を二枚くれたのです。
古関裕而さん曰く「妻は少女時代から環さんのファンで、彼女自身声楽の勉強もしていたので大喜びであった。」
さて当日行ってみると、環女史が巨体の上、弟子のEさんも肥っているので大変であった。
遅れて、当時のバスの歌手下八川圭祐氏が来られたので、私は仕方なく妻を自分のひざの上に
乗せて観戦していた。
すると環女史はしきりに振り返って、チラリチラリ私たち夫婦を気にして見る。
妻はその視線を気にしていたが、私は夢中で取り組みを観ていた。
妻は今でもその時のことを思い出して言う。
「あの時の環さんの表情、羨望とも嫉妬ともつかぬ妙な顔でチラリチラリ、いつまでも心が若いのね。やはり大芸術家は違うわねェ。あの時、環さんはみんなにお寿司をご馳走してくださったわ。
今は環さんも亡くなられたし、Eさんは緑内障で盲人になり、草津の療養所にいらっしゃるんですもの。少しずつ時は移り変わっているんですね」
古関自伝『鐘よ 鳴り響け』より
史実では古関裕而の妻金子さんは三浦環の一フアンに過ぎず、実際にあったのは相撲観戦の時が初めてなのです。
NHK連続ドラマ『エール』の脚本家はあたかも三浦環と古関裕而の妻金子の話をいろいろと展開させています。
脚本家の想像力に感心させられます。