三浦環は「蝶々夫人」を演じるために生まれてきた。「マダム・バタフライ」として世界中に名声を轟かせたオペラ歌手でした。
彼女は「蝶々夫人」の初舞台から命をかけた舞台を演じていたのです。
第一次世界対戦、ドイツの巨大な飛行船がイギリスのロンドンを空爆したちょうどその日が三浦環の初舞台でした。
ツェッペリン飛行船とは約200mの長さの大きな船で、それが上空から爆弾を投下してくるのです。ロンドン市民は恐怖と驚きとで逃げまどうばかりでした。
翌日の世界の新聞一面は「ツェッペリン、英国本土を空襲!」
三浦環の初舞台はどうなったのでしょうか?
本人の書いた物語の方が一番面白いので「お蝶夫人」三浦環、吉本明光より転記しました。
お蝶夫人 三浦環 吉本明光編より
「お蝶夫人」初舞台
日本のプリマドンナが、日本を題材にした「お蝶夫人」をロンドンで初めてやる、というので非常なセンセーションを起し、1915年(大正4年)5月31日のロンドン・オペラハウスは超満員でした。
私の相手役、米国海軍士官ピンカートンになるテナーはパリのグランドオペラのラフィット、米国領事シャープレスになるのはジュリアン・キムベル、女中お鈴になるアルトはイダ・サガールが主役で幕があきました。
私は精一杯の力を出して一生懸命うたいました。
私が工夫した、十五歳の初々しい蝶々さんになって、私が工夫した通りにお芝居をしました。第一幕は済みました。オペラハウスが割れるような大きな大きな拍手を浴びました。
第二幕第一場があきました。
十八歳の新妻蝶々さんは恋しい夫ピンカートンはきっと帰って来ると、自信をもって「お蝶夫人」の中で一番有名な詠唱「或る晴れた日に」をうたいました。
オペラは進行いたします。
米国領事のシャープレスが、ピンカートンの手紙を持って訪ねて来ます。
だが蝶々さんのピンカートンに対するこまやかな愛情を知った領事は、ピンカートンが本国で結婚したという知らせを告げるに忍びず、そのまま帰ります。
そこへお鈴が、周旋人の五郎が蝶々さんの愛児の悪口を触れまわるのを怒って、五郎を引張って来ます。
蝶々さんは我子の悪口を云われたので床の間の刀を抜いて五郎を追いかけます。
蝶々さん「もう一度いって御覧」
(お鈴は子供を連れて奥に入る)
行け
(五郎は逃げてゆく、蝶々さんは刀を拾いあげながら子供のことを思い出す)
可愛いい坊やよ
ただ一人のまな児よああ、
今に汝がために遠くから
坊やの仇打ちに帰ってくるわ
と、ここで、ピンカートンが乗っている軍艦リンカーン号の、長崎入港の合図の大砲が一発なるのです。
で、私がこのくだりをうたい終ると、同時に大砲がドーンとなりました。
続いてまた一発大きくドーンと鳴りました。
おやッと思いましたが、なにかの間違いだと思って、そのまま私はうたいつづけました。
望遠鏡で長崎の港を見ながら、
蝶々さん「白い星!アメリカの旗のしるしよ あら!錨をおろしているわ
するとドーン、ドーンと釣瓶打ちに大砲の音がしはじめ、客席がざわめき、観客が席をたち始めました。
けれど私は晴れの初舞台ですから、そんなことに頓着せず、一生懸命にうたいました。
蝶々さん
「──あの方は帰ったわ
みんながいってたわ
帰らぬ人を私が待つと
今こそ恋に勝ったのよ
今こそはあの方は来たわ
ここでお鈴と一緒に庭に出て、桜の木をゆすぶって「この桜をゆすって、花の雨を身に浴びて」とうたうためにお鈴の方を向くと、お鈴がいないじゃありませんか、どうしたのかしらと思ったとたん、またも激しくドーン、ドーンと大砲の釣瓶打ちで、客席もからっぽ、オーケストラボックスもからっぽ、広い舞台に私一人しかいない。
こりゃ変だと思った時、誰かが「マダム三浦、早く逃げないと殺される!」と叫んでいる声が聞こえました。
ドイツのツェッペリン飛行船のロンドン初空襲だったのです。
私の初舞台にロンドンの初空襲、私は「お蝶夫人」初演も出来たのだ。
声楽家としての一生の念願が叶ったのだから、晴れの初舞台で死ぬのなら、芸術家の本望だと思いましたが、がらんとしたオペラハウスの中に、たった一人取残されてみると急に怖くなって楽屋に逃げ込み、フト窓から空を見ると、ツェッペリン飛行船がサーチライトを浴びて、まるでダイヤモンドのブローチのように暗空に光っています。
そのまわりを高射砲の弾が破裂するのがピカッ、ピカッと光ります。
ツェッペリンは悠然と向こうへ飛んで行きます。
オペラハウスのすぐそばに高射砲の陣地があるので、大砲の音が耳許でいたします。
向こうは空襲で大火事が起きています。生まれて始めて見る空襲、恐さも恐かったが、見事なことも見事で、両国の川開きの花火を見物した時より何十倍の綺麗さでした。
私の「お蝶夫人」の初舞台はロンドンの初空襲のためその晩は二幕目の半分でおしまい、私は三浦と二人で闇の中をはだしで歩いて下宿まで逃げ帰りました。
電車も自動車も、一切の交通機関が止ってしまい、馴れぬ真暗なロンドンの闇の街を歩いているうちに、ハイヒールの靴をはいていたので足が痛くて歩けなくなったので、ハイヒールを脱いではだしで歩いたのでした。
なんと、空爆も知らず舞台を続けた三浦環。「初舞台で死ねるのなら芸術家として本望よ」とおっしゃる彼女なら「たとえおなかの子供が危険なことになっても舞台に立つプロとしての覚悟があるか」とかなりきつい台詞を言っても不思議はないのかも知れません。