NHK朝の連続ドラマ『エール』では川俣の教会で音(二階堂ふみ)幼なじみの鉄男(中村蒼)から音楽を続けるように心からお願いされた裕一(窪田)は、あらためて自分の音楽の道と家族のために権藤家を継ぐ道との間で思い悩み、人生の選択を迫られる。

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おっとガキ大将の鉄男の登場です。鉄男らしい友を思う気持ちが一途に伝わっていました。


中村は自身が演じる鉄男についてこう話しています。


「鉄男は友達のために怒り、ひとの幸せを自分のことのように感じられる人。自分もそういう人間でありたいので憧れます」


まさに、裕一のことを考えての鉄男と裕一だけのことを思う音の行動でした。


裕一は果たして音楽の道を進むのでしょうか?

ここが人生の選択ときです。


村野鉄男(中村蒼)モデル野村俊夫


明治37年(1904年)1121日に福島県福島市大町で、魚屋「魚忠」を営む鈴木忠八の3男として生まれました。


野村俊夫は福島市立第一小学校を卒業後、福島商業学校へと進学したのですが、病気や家庭の事情により中退しました。


中退後、福島県の富豪・角田林兵衛の家に2年間、奉公していたのですが、密かに勉強していた事が奉公先にバレてしまい、「そんなに勉強したいのなら、家で本格的に勉強しなさい」と言われ、実家へ返されてしまいます。


その後、3年ほど家業を手伝いながら、勉強を続け、20歳の時に福島民友新聞社へ入社し、報道部の新聞記者として奔走しながら、文芸欄も担当しました。


昭和5年、幼なじみの作曲家・古関裕而が日本コロムビアの専属契約するために上京します。


野村俊夫は古関裕而に誘われて、福島民友新聞社を辞めると、昭和63月に姉テウを頼って上京しました。


野村俊夫は、仕事をしながら純粋詩を書くために上京したのですが、福島時代に作詞した「福島行進曲」が古関裕而のデビューレコードに採用され、フリーの作詞家として活動を開始しました。


リベラルな思想を持っていた野村俊夫は、国の意向に背くような歌詞ばかり書いていたので、ことごとく検閲で棄却され、レコードの仕事が出来なくなってしまいます。


妻と2人の娘を抱えていた野村俊夫は、生活のために方針を転換し、昭和14年に戦時小唄「ほんとにほんとに御苦労ね」を作詞してヒットさせます。


昭和14年の「上海夜曲」が大ヒットし、野村俊夫は日本コロムビアの専属となって、ようやく安定した生活が送れるようになりました。


昭和15年には、福島出身の古関裕而・伊藤久男と手がけた「暁に祈る」が爆発的にヒットしました。


野村俊夫・古関裕而・伊藤久男の3人が福島県の出身だったことから「福島三羽ガラス」と呼ばれ、戦時中に数多くの曲を手がけました。


戦後は昭和23年に、作詞家・古賀政男とのコンビで「湯の町エレジー」を大ヒットさせます。

その後は、ジャスラックの理事に就任して、音楽家の権利拡大に奔走する一方で、作曲家の古関裕而・古賀政男らとともに数多くの歌を作り、島倉千代子や美空ひばりにも歌を提供しました。


野村俊夫は、昭和40年にジャスラックの常務理事を辞任します。経営問題の責任を取って辞めたらしいです。


昭和41年(1966年)930日に十二指腸潰瘍の手術を受けたのですが、手術後の腸閉塞により、昭和411027日に死去しました。62歳でした。


『ほんとにほんとにご苦労ね』


作詞 野村俊夫

楊柳(やなぎ)芽をふく クリークで

泥にまみれた 軍服を

洗う姿の 夢を見た

お国のためとは いいながら

ほんとにほんとに ご苦労ね

(注:「クリーク」は「小川」を意味する。)

来る日来る日を 乾麺麭(かんぱん)で

護る前線 弾丸(たま)の中

ニュース映画を 見るにつけ

熱い涙が 先に立つ

ほんとにほんとに ご苦労ね

今日もまた降る 雨の中

何処が道やら 畑やら

見分けもつかぬ 泥濘(ぬかるみ)で

愛馬いたわる あの姿

ほんとにほんとに ご苦労ね

妻よ戦地の ことなどは

なにも心配 するじゃない

老いた両親(ふたおや) 頼むぞと

書いた勇士の あの音信(たより)

ほんとにほんとに ご苦労ね


この歌どこかで聞いたことはないですか?軍歌だから聞いたことないと言われるかも知れませんが、1970年代にはお笑いグループのドリフターズが『ほんとにほんとに御苦労ね』と『軍隊小唄』の両方の歌詞を組み合わせて替え歌したコミックソング『ドリフのほんとにほんとに御苦労さん』を発表しています。歌い出しは「♪いやじゃありませんか花子さん♪」みなさんも聞いたことがあるでしょう。


この元歌の歌詞を作ったのがNHK朝の連続ドラマ『エール』のあのガキ大将鉄男。村野鉄男(中村蒼)なんですよ。村野鉄男が、なんだか少し身近に感じられるようになったでしょう。