古関裕而はお坊ちゃん育ちで、穏やかな性格の楽天家だった。


誰もがそう口をそろえている。口数は少なく、まさに妻の金子とはデコボココンビだったものの、うちに秘めた情熱は激しかった。


一生涯、妻の金子を愛し続けた生真面目な男の姿が目に浮かぶ。


5003


 

恋文で批判した山田耕作


裕而は、そのやり取りのなかで山田耕筰(文面では耕作)さえも激しく批判している。

「彼の芸術は立派だかも、知らないが、あの、腐つた品性を、読んだ時、彼の作品にも、その悪性がしみ込んで居るかと思ふと」

「自分は、芸術に於て、山田耕作氏以上にならう、否、断然山田耕作氏を抜かうと思つてます」


クラシック作曲家を目指していた古関は、それまで山田を崇拝していた。それなのに、どうしてこんなことになったのか。


それは、雑誌で山田の女性問題が報道されたからだった。金子との清く正しい交際を目指していた裕而は、山田の醜聞が許せなかったのだ。


山田耕作とはどんな人物だったのだろうか。


山田耕作と受難の永井郁子女子


28歳となった大正3年(1914年)、ドイツ留学から山田は帰国。


この年、岩崎の主催する東京フィルハーモニー会に管弦楽部が創設されました。


山田東京フィルハーモニー会を組織し、指揮を担当します。


三菱財閥の岩崎弥太郎の紹介で永井郁子と結婚したにもかかわらず、昔なじみの村上菊尾という女性が忘れられず、翌年には離婚。女優の村上菊尾(本名・河合磯代)とスピード再婚してしまいました。


これでは永井郁子さんもたまったものではありません。


紹介した岩崎弥太郎のメンツも台無しになり岩崎は大激怒。


資金援助を打ち切られ、オーケストラは解散せざるをえなくなりました。


その菊尾とも山田が70歳と文化勲章を受章した後、離婚し、辻輝子を入籍。


今で言う熟年離婚であろうか。


山田耕作は後にこう語っている。


『「良妻は母に似る」と昔からいっている。その意味において辻輝子はまことに良妻である。陽気でいて細心、苦難をものともせぬところなど、母そっくりである。


 再度の結婚生活に失敗した私は、ようやく晩年になって、家庭というものの幸福を満喫している。私を憐んで、亡き母がこうしてくれたものとしか思えない。』


こう書いてきたが、山田耕作は自分の意思の通り生きた男。


ある意味、恋愛に対しては純粋だったのかも知れない。


古関裕而から、すれば男のエゴで妻と離婚するいいかげんな男に見えたのかも知れないが、本人は幸せな生き方だったのかも知れない。


古関裕而と山田耕作と志村けん


古関裕而のように一人の人を一生涯愛し続けて生きるいき方と、山田耕作のように自分の意思の思うように結婚を繰り返す生き方と志村けんのように美女と恋愛を重さねるも一生涯独身で生きるいき方、男にはいろんな生き方があって良いと思う。


人生の最後に後悔のない人生だったなと思えることが最高の男の生き方ではないたろうか。


志村けんさんも悔いのない生き方をされたのだと思います。心からご冥福をお祈りします。