NHKの連続テレビ小説「わろてんか」今週は「わろてんか隊がゆく」です。


芸人たちの身を案じ、慰問団派遣に消極的な主人公てん( 葵わかな )。


風太(濱田岳)は、国に貢献することが今後の北村笑店にとって何より重要と考え、東京からキース(大野拓朗)を呼び戻し、「わろてんか隊」を結成します。


風太は北村笑店のために命がけです。


<明日のわろてんか>36日 第129回 風太らはお国のため 「わろてんか隊」が出陣!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180304-00000028-mantan-ent


吉本興業の慰問隊


風太のモデル林正之助は時代の中に軍部の台頭を感ながら昭和6年には既に慰問隊を満州に送っていました。


吉本の社史『吉本八十年の歩み』にこうあります。


昭和6年( 1931 )9月18日に満州事変が勃発した。


エンタツ・アチャコと秋田実(※漫才作家、後に吉本文芸部)が初めて会ったのはそれから間もなく両者は朝日新聞学芸部の白石凡記者らの引き合わせにより顔を合わせた。


吉本興業と朝日新聞は以前より深い関係にあったようです。


昭和6年12月、吉本興業は朝日新聞との協賛で、そのエンタツ・アチャコと神田山陽、花月亭九里丸を満州駐屯軍の慰問に送り出します。


朝日新聞は慰問ぶりを何度も記事にしました。


吉本興業文芸顧問の竹本浩三


「朝日と吉本は白石記者らの関係で交流がありました。


当時はエンタツ・アチャコもそれほど知られておらず、現地では『アチャコ』の名前を見て『どんな美人の女の子』が来るのか、と勘違いされたこともあったらしい。」


その後、横山エンタツ・花菱アチャコとは、背広姿の「しゃべくり漫才」一世を風靡します。


昭和8年11月にも「吉本の顔」となったエンタツ・アチャコや、のんき節の石田一松らによる慰問隊を派遣し、満州各地を慰問訪問しています。


「演芸人関東軍慰問ノ件」と題した陸軍省新聞班の決裁書類が残っています。


決裁者として陸軍省軍事調査部長の東條英機(後に首相)や後の沖縄戦の司令官、牛島満のハンコが押してあるのが目を引く(6、8年の慰問団について朝日新聞社広報部は『事実関係を明らかにできる資料が確認できない』とした)。


このころ、内地では「満州ブーム」に沸いていた。


昭和4年( 1929 )に始まった世界恐慌は日本へ波及、失業者があふれ、農村は疲弊してゆく中で、新天地・満州に希望が託される。ソ連国境に近い北満の辺境地には、満蒙開拓団の農民が入植した。


各新聞社にとっては当局の締め付けもあったろうが「国策」に合わせる形でブームを煽り、匪賊や抗日軍と懸命に戦っている日本の兵隊さんを慰問するのは読者や広告の獲得につながる「メリット」がありました。


反軍から「満州事変支持」へと社論の舵を切った朝日新聞のはしゃぎぶりも異様なほどだ。


事変後の昭和6年10月16日付の東京朝日新聞朝刊には《満州の我軍将士を慰問 本社より一万円》の社告。


日本が満州国を承認した7年9月16日付同見出しは「満州国承認の号外にわき返る奉天市外 日満両国旗の波 歓呼の渦巻」


別面には『祝 満州国承認』の全面広告が踊っています。


朝日だけがそうだったわけではない。


ただ、「朝日」と「吉本」は日中戦争勃発(昭和12年7月)以降、本格的にタッグを組み、大陸への皇軍慰問隊派遣を主導することになる。


昭和13年1月5日付東京朝日新聞朝刊に再び社告が打たれた。《戦線へ初春の慰問団 銃後熱誠の寄託金で》。


「慰問演芸班」は北支派遣がアチャコ・今男のコンビに東京から落語の柳家金語楼、三味線漫談の柳家三亀松。


上海・南京組はエンタツ・エノスケコンビに石田一松、夫婦漫才のワカナ・一郎など。


荒鷲隊をもじった「わらわし隊」の愛称で呼ばれる爆笑慰問突撃隊の記念すべき第一陣でした。


「わろてんか隊」とは「わらわし隊」のことです。


NHK連続ドラマ「わろてんか」で「わろてんか隊」のことは史実では「わらわし隊」のことです。


しかし、ドラマと史実とは違って吉本興業は時代の空気を察して、実際はかなり以前より慰問隊を組織し軍部に協力していたようです。


風太のモデル、林正之助の生き残るために最善な方法を取らざるを得なかったのだと思います。