NHK連続ドラマ「わろてんか」のドラマで脇役として気になっている存在に万丈目吉蔵(藤井隆)がいます。


藤井隆は吉本興業の芸人ですがダンスも演技もうまい。


見た目は結構チャランポランでオカマキャラに見えるのだが誠実で真面目だとか


吉本興業の「挨拶のスペシャリスト」と言う称号まであります。


藤井隆はスペシャリスト、吉本大御所が大事にする基本は挨拶

https://dot.asahi.com/dot/2017080900015.html


人は見かけによらないものですね。


朝ドラ「わろてんか」に登場する万丈目吉蔵(藤井隆)の実在のモデルは、「漫才の父」と言われる秋田實です。


今日は秋田實のことを書いてみます。


秋田實


漫才作家の秋田實さんは1905年(明治38年)、軍需工場に勤める男性の次男として生まれた。


東京帝国大(現・東京大)在学中から掛け合い形式でユーモアを交えた読み物を書き、次第に雑誌に掲載されるようになった。


転機は31年、26歳で訪れる。


漫才師、横山エンタツさんとの出会いだった。「女性や子供も安心して楽しめる笑いを」。


エンタツさんと意気投合する。


2人で作り上げたのは、日常で起きる笑いを、コンビの話芸だけで進める漫才だった。


「僕ネ、実はネ、もらったんです!」


「エッ、もらった? 本当かい、そりゃアよかった」


「あまり親戚の者がやかましく言うものやから、とうとうもらいました」


「そりゃ結構や、よかった、僕も心からうれしい。しかし君、一体何をもらったんや?」


「エーッ。男がもらったと言えば、たいてい分かるやないか」


「かまぼこですか?」


「あきれた男やな。僕は家内をもらったんやないか」


「エーッ、家内を? 何人?」


「何人? 家内を7人も8人ももらってどうする。1人やないか」


「しゃべくり漫才」と呼ばれる、今の漫才の原形はこうして生まれた。


見事にボケとツッコミの入った漫才ネタである。


これが秋田とエンタツのだれでも共感の持てる「無邪気な話」なのである。


これ以降、秋田實は漫才作家となる。


その後、秋田はエンタツ・アチャコ以外の漫才師たちにも台本のヒントを提供し慕われるようになって行く。 


1934年( 昭和9 )東京の下宿を引き払って大阪に移り吉本興業に入社。


1941年( 昭和16 )新興キネマに移り、同社の総合企画部長および文藝部長に就任。


第二次大戦も終わりに近づくと、多くの漫才師が疎開しあちこちにバラバラになり劇場や寄席も空襲に合い、吉本興業も新興演芸も漫才の興業から手を引いてしまって、上方の漫才興業は壊滅状態となります。


戦後、京都に戻った秋田は、漫才の将来を危惧して若手の漫才師を集め1948年( 昭和23年)に「MZ研究会」という漫才のサークル集団を結成し京都で正式に旗揚げ。


そこからはミヤコ蝶々・南都雄二、夢路いとし・喜味こいしや秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしはなど多くの漫才を育てた。


阪急電鉄創業者の小林一三と軽演劇集団「宝塚新芸座」を1950年( 昭和25 )に立ち上げ、「宝塚歌劇団」の生徒を含めて宝塚新芸劇場にて定期公演を行う。


しかし、本人は漫才師は漫才を中心にするものという信念をもっており、それ故、新芸座側が次第に演劇に傾倒しこれを中心に据えた事で「ゆくゆくは『モダン寄席』を立ち上げる」といった小林との口約束は反故にされた事になり、結局小林と対立する。


独立して芸能事務所「上方演芸」(のちの松竹芸能)を発足させた。


その後1968年( 昭和43 )、新芸座時代に演出を担当していた藤井康民と共に、大阪・阿倍野の岸本ビル資本によるケーエープロダクションを設立。


また1975年( 昭和50年)からは有川寛と共に若手漫才師・漫才作家による勉強会「笑の会」を作った。


そこからオール阪神・巨人、B&B、浮世亭ジョージ・ケンジ、太平サブロー・シロー、宮川大助・花子、ザ・ぼんち等の多くの売れっ子を輩出し漫才ブームとなった。


1977年( 昭和52 )1027日、大腸癌の為、死去。


享年72歳。


秋田實は日本のお笑いを作り上げた人まさに「漫才の父」なのです。


追記


秋田實の趣味は競馬と麻雀でした。


通夜で参列した芸人が集まって夜明けまで麻雀が行われた。


没後生家の近くにあった玉造稲荷神社には弟子・関係者らで「秋田實笑魂碑」と横には自然石が建てられた。


「笑魂碑」の方には「笑いを大切に。怒ってよくなるものは猫の背中の曲線だけ」の言葉と横の自然石には「渡り来て うき世の橋を 眺むれば さても危うく 過ぎしものかな」という辞世の句が刻まれています。