NHK連続ドラマは風太は、新しい万歳をみつけるべく、キース(大野拓朗)やアサリ(前野朋哉)と一緒になってさまざまな試行錯誤を始める。


どつき万歳とは違う、しゃべりだけの万歳という新機軸を打ち出して、万丈目(藤井隆)に台本を書かせることを思いつく。


キース(大野拓朗)やアサリ(前野朋哉)の史実モデルは横山エンタツ・花菱アチャコです。


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( 横山エンタツ・花菱アチャコ )


寄席の芸を変革しろ!


横山エンタツ・花菱アチャコの漫才革命


今までの万歳は歌や踊りつきで、わい雑で下品、落語や浪曲より低い扱いを受けていました。


これを二人のコンビで「しゃべり」だけでやってみようと言うのです。


横山エンタツ「ぼく、うたもおどりもようしませんねん。一回、しゃべりだけでやってみませんか。」


しかし、舞台に上がりると言うとそうはいきませんでした。


客席に不穏な空気


日本に於いては「芸能」とは、踊る、舞う、歌うことです。


「しゃべる」なんやそれはお客は「しゃべり」を求めていなかった。


万歳は踊って、舞う、歌うことです。


「しゃべりは」踊り、舞い、歌の繋ぎでしかなかったのです。


どないなっとんねん はよ歌え踊れ


ついにみかんを投げる客が出て、二人に投げられる。


しゃべり漫才をやるどころではなかった。


横山エンタツ 


「みかんの一斉攻撃を受けるとは、一世一代の不覚やな。」


すかさず切り返す。


花菱アチャコ 


「これがほんまのミカンせいや。」


現代でも「みかん」と「未完」をかけてるだじゃれで面白いのだが‥。


とにかく、これには舞台を降りるしかなかった。


昭和2年、エンタツはいったん漫才をやめてしまいアメリカに行ってしまう。


パーマの機械のセールスを始めるが、売れなかった。


浅草で別の相方と漫才をしていた。


林正之助が横山エンタツをスカウト


そこに、浅草でのうけないながらも斬新な漫才をしていたうわさを聞いた、吉本興業の総支配人林正之助(しょうのすけ)がスカウトに来る。


「エンタツさん、もう1回、まんざいやって見る気 ありまへんか。」


昔ながらの伝統芸になじみがない、モダンな客が寄席に来はじめる。


これまでの芸は時代遅れになる。


地方からの働き手、スーツ姿のサラリーマン。


大阪にモダンなカフェ、はげしいおどりのチャールストンがはやる。


横山エンタツは、花菱アチャコとコンビを組みたいという条件で引き受ける。


これがほんとの未完成、と言えた花菱アチャコとならできそうな気がする。


漫才革命など最初からうまくいくはずがない。


万歳からしゃべくり漫才へ、そんなにうまくいくはずがなかった。


「やーめとーけやい」とお客さんの1人が。


それがお客さん全員に広まる。


泣きながらを漫才やった。


今までのものをやめて新しいものたいへんなエネルギーがいるだろうと思う。


つなぎのためのしゃべりで、全部する。「えらい度胸」言うたらおかしいけど立派なもんだった。


今までだれもやったことのないことだからどこにもお手本がない。私たちは毎日が勉強だった。


花菱アチャコ著「遊芸稼人」より


どうすればなじみの客だけでなく、学生やサラリーマンまで笑わせることができるのか。


生活の実感を漫才へ


二人は銭湯に通よう。


内風呂が珍しかった時代。


汗を流すサラリーマン多い。


金融恐慌以来の不況。


賃下げ、人減らしでたまらない。


明るい声も。


「2人目 生まれたんやて?」


ぼくによう似た 美人ですわ


「そらアカンわ。」


身近な子どもや家族の話題はみな笑顔で話している。


ゆ横山エンタツ、花菱アチャコも小さな子どもの父親だった。


生活の実感を万才(まんざい)に――


新しい漫才を作るときに最も大事にしたもの。


大阪駅が舞台なら実際に大阪駅に行き、何番線からどこに? 混雑はどの程度? 客が「そうそう」と引き込まれるようにした。


生の面白さ


アチャコの長男 藤木吾朗生さんが、小さいころにおどろいたこと


「奈良見物」


二月堂から三月堂・・・猿沢の池 猿がいーっぱいでてきてね


いてるかい? 池の名前だけじゃないかいな


いやきみちょうどまんのええことにその日はちょうど猿回しの__(えいゆう?)会で


あんなよけいなことよう言うな


どんなことでも実地に歩いてそれを漫才に取り入れるから


客はイヤも応もなく乗ってくる


空想ではない


ナマのおもしろさをねらった


横山エンタツ著「わが心の自叙伝」


毎日が真剣勝負


昭和6年 満州事変 世相が暗い。


身近で生活観あふれる罪のない笑い、そしてスピード感のあるしゃべくり。


舞台での2人の丁々発止のアドリブも客の爆笑をさそいました。


アチャコはこう振り返っている。


話のアウトラインだけを決めてあとは舞台で芸をぶつけ合う。


毎日が真剣勝負だ。


次から次へとアドリブ、きのうときょうで話が違う。


そしてそれが積み重なって洗練された内容になっていく。


継続は力なり


水戸黄門漫遊記


もろた そりゃけっこうや


なにをもろた?


大の男がもろたと言うたらたいがいきまっとるやろ


あ、カマボコか?


ネコやあれへんで


にょうぼやがな


女房もろた 何人?


ろくじゅうな、なに?


はじめは誰も相手にしなかったしゃべくり漫才が、デビューから1年で、トリの2人を見るまで誰も帰らないまでになった。


昭和6年 上方で最も格式のある南地花月の舞台に立つ。


上方を制した。


しかし、これでも2人は満足しない。まだ地域が近畿だけ。夢は全国制覇。


エンタツがこいしさんに、


「(電車で)すわって本読むのもええけども、つり革をもって(場所を)かわれ


お客さんの対話が聞こえるやろから、それをおぼえておけ


知ったふりをしてボケるんではなしに、ようものごとをしってからボケるのが本当のボケやで」


きいていただくということは、よっぽどしゃべるほうが気を使うてやらないといけない。


見せる漫才ではなく、聞かせる漫才。


横山エンタツ・花菱アチャコ漫才の全国制覇


昭和8 国際連盟脱退


ラジオに注目。


プロ野球のない当時、早慶戦


とくに臨場感あふれる松内則三の実況は大人気。当時、「大臣の名は知らなくても、松内の名は知っている」とまで言われた。


目の前で起こったことを次々に言葉にし興奮を巻き起こすスピード感


大人気だった。


どんなに大入りでも寄席の客にしか聞いてもらえない。


しかし、2人はラジオに出られない。ある事件が原因で。


昭和初期、吉本はラジオ出演禁止。寄席の客が減るから。


なんとか一流の芸人に出てほしいとNHK大阪が桂春団治に直接交渉。


「えー、お笑い種(ぐさ)を少々申し上げます。」ラジオに生出演。


吉本が怒り、会社に借金をしていた家財を差し押さえる。


差し押さえ証を口に貼った写真が新聞に。


吉本芸人はラジオ出演厳禁!!


東京のラジオ局で、落語や浪曲が人気。


放送網も整備されていた。


NHKが桂春団治事件で行き過ぎがあったことをあやまり、和解。


ユーモア放送 南地花月より中継


アチャコ 当日の心境


全国に聞いていただくのですから


いつもなら頭を押さえて「ここが痛い」でわかるところを


今日は「頭が痛い」といわんといけません。


いつものように笑っていただけますかなぁ


昭和9年6月10日


テンポ良く軽妙洒脱、誰もが知っている早慶戦をネタにとぼけるエンタツアチャコの漫才に


日本中がわきました


この日100万をこす人々が、家族や友だちと一緒に 思い切り笑いました


暗い世相を吹き飛ばす 全く新しい話芸の誕生を


全国の人が知った瞬間でした。


早慶戦のたいへんな人気とスポーツのテンポのよさ


流行と漫才の関係


横山エンタツ花菱アチャコ先生にも、秋田實(あきたみのる、漫才作家)先生にも言われましたけれども、


その時代時代のことを先に取れ


今の時代はこういうものがはやっている


おっかけていったのではおそいから先に行け


この次の時代はこういうことになるんやないか


よくわきまえてしゃべりはやらなイカン と言われた


先取りが、アドリブで入っていた。


横山エンタツ・花菱アチャコその後


花菱アチャコ入院で、人気絶頂の中コンビ解散。わずか4年あまりのコンビだった


戦後、2人は映画やラジオを活躍の舞台とする。


横山エンタツ 気まぐれショウボート など、ラジオのコント番組で人気を集める


復興そして豊かさをねがう人々に夢と笑いを届けました


花菱アチャコ ラジオホームコメディで12人の子を持つ明るい父親を演じた「お父さんはお人好し」


全国で大人気、放送回数は500回をこえた。


暮らしの実感や夢を大切にした軽妙な話術で笑いを振りまいた。


6 横山エンタツ死去 享年74歳


49年 花菱アチャコ死去 享年77歳


誰もが笑える漫才、大衆に愛される漫才を目指した横山エンタツ・花菱アチャコ


横山エンタツの晩年の言葉


昔を思い出すとずいぶん向こうみずなこともした バカなまねもした


しかし ぼくはいつも 人間を忘れることはなかったと思う


それこそ ぼくの人間としての生き方だと自負している