NHK連続ドラマ「わろてんか」北村てんと藤吉は寄席に出演させる安来節の踊り手を見つけるため、滞在していた村の娘たちを集めて選考会を実施しました。




とわ、なつ、あや、そして都の四人が踊り子として選ばれました。


安来節乙女組は大後寿々花(おおごすずか)さん、鈴木球予(すずきたまよ)さん、畦田ひとみ(うねだひとみ)さん、辻凪子(つじなぎこ)さんです。




実際は吉本興行部、吉本せいの弟、林正之助が東京の浅草などで話題となっていたその安来節に注目し、本場の踊り手を吉本へスカウトしました。


大正11年(1922年)出雲で「手見せ」と称したオーディションを開催し、優れた踊り手たちを発掘しました。


現在のAKBやモーニング娘のオーディションが既にこのころ行われていたのです。


安来節の歴史


安来節の原形といわれる「七七七五調の節」は、元禄時代(1688 1704の頃)、安来地方の自然と素朴な人情の中で培われ、歌われていたといわれています。


江戸後期の天保年間(1830 1844)の頃になると、船による交流が盛んになり、北前船が出入りする安来港は、米や鉄の積み出し港として栄え、安来節も船頭たちに歌われていた諸国の民謡の影響を受け、徐々に成長。


特に、当時「おさん」という芸妓が創作したといわれる「さんこ節」が安来節とよく似た節回しだったと伝えられています。


そして大正時代になると、「渡部お糸」(当市の名誉市民)という芸達者な女性が、三味線の名人「富田徳之助」と共に一座を組み、全国巡業回った際、行く先々で大好評を博し、その結果として一介の地方民謡だった安来節を全国区の地位にまで押し上げる原動力に。


ついには、当時の芸能人の憧れの的であった東京鈴本亭の舞台に立ち、大衆芸を芸術の域にまで高めたのです。


お糸一座の活躍は止まるところを知らず、東京・大阪に安来節の上演専門館まで誕生させたかと思えば、朝鮮半島・台湾・中国東北地方にまで遠征。


日本だけではなくアジア各国にも安来節を広めていったのです。


大正時代に日本の芸能は海を渡ってアジア進出していたようです。


どじょうすくい踊りって男女で踊り方が違います。


各パートがあり、微妙に踊りが違うのも安来節のコミカルなところです。




どじょうすくい男踊り 


小川でドジョウをすくう様子を表現した「どじょうすくい踊り」。


踊り手は豆絞りの手ぬぐいを頭に、腰にはドジョウを入れるビクを付け、ザルを頭に乗せ、腰を振りながら登場。正面を向いてにっこりした顔には鼻に銭が・・・。鼻に銭をつけるのは、農民が殿様に納める野菜を食べてしまい侍に鼻をそがれたからという言い伝えも。ユーモアと人情味が特長です。




どじょうすくい女踊り


女踊りは姉さんかぶりに小ぶりのザルを手に持ち、二人一組でどじょうすくいの所作を舞踊的に踊ります。


歌の終わりには、一人は立ち姿で男とし、もう一人はしゃがんで女とし、決めるのがキメのポーズ。




銭太鼓


竹筒の中に穴のあいた銭を入れた銭太鼓は日本民族楽器の一種。


ジャグリングのように回したり、打ち付けたりして、銭のリズミカルな音と技で「安来節」を華やかに演出する名脇役です。




安来節は「女踊り」にありました。


安来節は島根県の安来地方に伝わる民謡で、ひょっとこ顔の踊り手による「どじょうすくい」が有名ですが、人気の最大の要因は「女踊り」でした。


着物の裾をからげて踊るお色気が大評判となったのです。